第三十二話 アズベルグへの帰還
夕日が山の稜線へ沈む頃、やっとアズベルグの門が見えてきた。
兵士の1人を先行させ、すでに閉まっていた門を開けさせる。
後は、カレンとジャンバルノを除いた兵士達は解散とし、カイゼルはまず領主館を目指した。
領主館の前庭に着くと、ジュディスが抜かりなく出迎えに現れる。
カイゼルは口ひげの下の口元を綻ばせ、
「ジュディス、出迎えご苦労」
そう声をかけながら、ひらりと馬から地面へ降りた。
ジュディスは深々と頭を下げて、
「いえ、当然の事です。ご指示いただいた件の準備は出来ておりますのでご安心ください」
「そうか」
手短に、そう報告をした。
カイゼルは頷き、それからミフィーとシュリの方を振り返る。
カレンの手を借りて馬から下りたミフィーは、カイゼルがこちらを見たことに気づくと、慌てて頭を下げた。
「あの、お陰様で無事にアズベルグまで来ることが出来ました。ありがとうございます」
カイゼルはそんな彼女を手で制し、
「いや、弟の家族を守るのは兄として当然の事です。ジュディス、弟の妻のミフィー殿と、その息子のシュリだ。先に知らせていたとおり、今晩はここの客室に泊まってもらう」
言いながらジュディスを傍らに呼び寄せ、ミフィー達を示した。
それから改めてミフィー達にもジュディスの事を紹介する。
「この者はわしの秘書をしてくれているジュディスという者です。まだ自宅に招く準備が整っていないので、今日はこちらに泊まって頂く事になるが、よろしいかな?」
「ジュディスです。本日のお世話は私が。何かありましたら何でもお申し付け下さい」
カイゼルとジュディスがにっこり笑う。
慌てたのはミフィーだ。彼女はこれ以上カイゼルの世話になるつもりはなく、どこかに宿を取るつもりでいたのだ。
だが、そのことを夫の兄に伝えると、とんでもないと引き留められてしまった。
「弟の家族をそこいらの宿に任せる事なんて出来ませんよ。それに、シュリは我がルバーノ家の血を引く子です。あなたもシュリも、わしがきちんと面倒をみるつもりです」
「は、はい」
「なぁに、決して悪いようにはしません。ですが、その話をするにしても今日はお互いに疲れすぎている。明日の昼過ぎ、我が妻も同席の上できちんと話をしましょう。それまではジュディスにきちんと世話をさせますので、安心して休んで下さい」
悪いようにはしないと言われても、カイゼルが何を思っているのか不安だった。
だが、下手に逆らうことも出来そうもない。
ミフィーは困ったような顔で頷き、心配そうな顔のカレンに微笑みかけてから、ジュディスに連れられて領主館の中に入っていった。
カレンはそれを見送り、そっと息をつく。
明日、仕事の合間を縫って絶対に様子を見に来ようと思いながら。
今やカレンにとって、ミフィーは大事な友人だったし、シュリは、何というか……大切な想い人であった。
「ジャンバルノ、カレン、ご苦労だったな。カレン、ミフィー殿とシュリの事、助かったぞ。後で特別に手当を考えているから楽しみにしているといい。今日はもう帰ってゆっくり休むように。明日は特別に非番とするよう、通達しておくから、のんびり過ごすと良い」
「あ、ありがとうございます。あの、明日、ミフィー様とシュリ様に会いに来てもよろしいでしょうか?」
「むしろ、そうしてくれると助かる。ミフィー殿はこの地に知り合いがいないからな。これからも、友人としてつきあってやってくれ。ミフィー殿も喜ぶだろう」
「私は一介の兵士ですが、ミフィー様を友人と思ってもよろしいのでしょうか?ただの平民ですし」
「わしがそう言うことを気にしない性分だという事は、カレンもしっておるだろう?気にするな。ミフィー殿も、気取った貴族の娘をあてがうより、お主といる方を選ぶと思うぞ?」
自分を卑下するような発言をするカレンに、カイゼルはいたずらっぽくそう告げる。
カレンの言うとおり、ジョゼの妻であるミフィーは貴族の一員であるし、貴族の友人をあてがう方が後々の事を考えればいいのだろうとは思う。
だが、良くも悪くもミフィーはごく普通の、美しくはあるが素朴な性質の女性のようだった。
ジョゼとの生活も、平民と同様の暮らしをしてきたに違いない。
そんな女性をいきなり貴族社会に放り込むのは、何とも気の毒だし可哀想だ。
ただでさえ、夫を失ったばかりの傷心の女性なのだ。
慌てずに少しずつ、徐々に貴族の生活に慣れてくれればそれで良いと思う。
彼女はきっと元の生活に戻ることを望むだろう。貧しくとも、息子と2人で生きていく生活に。
だが、カイゼルはもうシュリを手放すつもりは無かった。
弟の忘れ形見と言う以上に、あの幼子はカイゼルの心を鷲掴みにしていた。
あの子のいない生活など、こうして出会ってしまった以上考えられそうも無かった。
本人達が何を望もうと、周りになんと言われようとも、カイゼルはシュリとミフィーを囲い込むつもりでいた。
本当はシュリだけでもいいのだが、母がいないとシュリが可哀想なのでミフィーも併せて手に入れる。
どうするかはほぼ決めてはいるが、後で妻にも相談するつもりだった。
妻のエミーユは頭の切れる女性だし、娘達の将来にも関わる事なので、カイゼル1人で勝手に決めるわけにもいかないだろうと思ったからだ。
そんな事をつらつらと考えていたら、いつの間にかカレンがいなくなっていた。
ジャンバルノに目を向けると、彼はあきれたような顔で、
「カレンならもう帰しましたよ。ミフィー様との友人関係を認めてもらえて喜んでいました」
そう告げる。
カイゼルが考え事に沈んでいる間に、ジャンバルノが気を回してカレンを帰らせてくれたらしい。
相変わらず、優秀な男である。
「そうか。では、そろそろわしも屋敷に帰ろう。ジャンバルノ、屋敷までの護衛を頼む」
「はっ。馬で帰られますか?」
「そうだな。これから馬車を用意するのも面倒だ。馬で帰ろう」
そう返し、カイゼルは再び馬上の人となる。
ジャンバルノもそれに倣い、2人はすっかり暗くなった屋敷への道を、馬で急ぐのだった。
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