17.ほっぺたに雪が付く
こんなことってあるんだろうか。
自分で染めた覚えなんて、ない。大体、髪どころか瞳の色まで真っ黒に色づくなんてありえないじゃないか。
当然、周りの人には色んなことを言われてる。けれども、この問題の正解に心当たりがあるのは、……自分と、もうひとりだけ。
何も言えないわたしを見て、彼女は自分の首に手をやった。
「ねえ、……さつきは見えているんでしょ、これ」
その言葉に思わず息が止まった。そして、……ちいさく首を横に振る。
あの夜、わたしはようやく悟ったのだ。
この世には、けっして触れてはならないものがある。
例え手を伸ばせば掴めそうなほどすぐ傍にあったとしても、何も見つからなかったふりをしてやりすごすのが正しい存在。
それに気付かないまま、わたし達は見えるもの全てを口にして、手を出して、愚かにもその世界を広げてしまった。
「わたしは何も見えない。舞ちゃんも気にしちゃダメだよ」
「そうだね。でも、そうはいかないかも」
「なんで」
「さつきは予言はできないんだよね」
「うん。予言なんてできないよ」
「でも、『見える』んでしょ」
「…………」
さっきより激しくかぶりを振ったわたしに対して、彼女は落ち着き払ったまま、わたしの手を取ると、自分の首に運んだ。
「ここに何があるのか言ってみて」
「…………」
「言って」
わたしは目なんか開けていない。それでも見えてしまうのだ。嫌でも、分かってしまうのだ。かつて散々眺めていたからよく知っているモノ。
……彼女の首に、黒い糸が巻き付いている。
最初は髪の毛が巻き付いているのかと思った。けれども、こんな細いモノがくっきり見えるものか。
第一、幾ら指を絡めようとしてもけっして触れる事はできないのだから。分かるのは彼女の肌が陶器のように冷たいということだけ。こうして触っている間にも壊れてしまいそうで恐ろしくなるほどだった。
「どこまで伸びてる?」
「……ここから廊下まで。玄関まで、続いてた……」
たぶんその先もずっと。
どこにつながっているのかは、絶対に想像してはいけない。
創造シテハ、イケナイ。
「そこまで見えるんだ。やっぱりすごい。あなたはものすごいものを見て、生きていたんだ」
そんなことない、とわたしはかぶりを振る。
わたしだってあなたが一緒にいてくれたから平気でいられたんだよ、と。
もっと早く気が付くべきだった。
いや、……ホントは違う。知らないふりをしていただけなんだ。
あの時、カフェで彼女の肩に黒い幻影を見た瞬間、わたしは全てを悟っていた。
ほとんどメールしなかったのも、お母さんが心配してるから、だとか、全部ウソ。こっそり連絡するなら幾らでも手段はあったはず。
今日の、今の今までこうして避けて、生きてきて、近くまで寄ったついでだから、と、彼女のお父さんへの言い訳まで考えていて、ここに至っては、とっくに見えているものまで、存在しないと自分自身に言い聞かせていた。
自分の肩の荷が軽くなることだけを考えて、彼女との共犯関係から逃げ出した。自分自身に嘘までついて、その結果が、目の前の、糸に巻かれて衰弱する少女の姿だ。
そして、本当に今更になって、思い知る。彼女は、わたしの『親友』でもあり、しっかりものの『姉』でもあり、同時に世界から与えられた、『たったひとりのわたしの理解者』でもあったことに。
その衝撃に、足の爪先まで一気に感覚が無くなる。震えが止まらなくなったわたしを心配させないようにか、彼女は小さく笑った。
「せっかく譲ってくれたところで悪いんだけど、この『見える』世界、私はちょっと耐えられそうにないな~」
頭をかきむしる嫌な音がする。
「わたしも、見えてるんだ」
「え?」
「この糸のもうちょっと先。さつきの言っていた……の住んでいる世界」
その瞬間。わたしの脳裏を過ぎったのは、たくさんのアレが垂れ下がっているあの光景。
あそこは、目がくらくらするほど深くて真っ暗だった。昔話に出てくるような、人が踏み入れてはならない禁断の大空の淵。
そして、直感する。
その奥に住んでいるモノの姿は、彼女が見てはならない存在だということを。
「どうしようもないの」
「……そんなことない」
「いくら髪の毛を切っても切っても、どんどん手繰られているみたいで」
「そんなことないよ」
「私は自分のお願いに何にも用意しなかったから」
「それは違う!」
わたしは、目の前の折り曲げられた身体を抱きしめる。
「ホントは、わたしが……」
わたしが選ばれるはずだったのだ。
もっと早く気が付くべきだった。向こうもこっちを見ていたのだ。だから、毎晩毎晩、わざわざ家の前までやってきて、『聞こえている』か確認していた。
何も知らずに力を強めていく無邪気な姿を見て、さぞ収穫が楽しみだっただろうに。
わたしが、彼女になって。
彼女が、わたしになったから。
イケニエのお役目は、交代だって?
…………。
なんで、そんな。
そんなの理不尽だ。
この人がこんなに苦しむなんて。
だって、見えていなかったのだから。何も知らなかったのだから。
そんなものとは関わらずとも、美しいまま穏やかに過ごすことができたのに。
もうまともではいられなかった。
祈る神なんて、わたし達にはもういない。
だから、わたしは目の前の少女に縋り付く。
「さつき。大丈夫。大丈夫だよ」
いよいよ雪になったのだろうか。
灰色の明かりが窓の外から差し込んでいる。
長い長い、静寂があった。
「…………舞。絶対、わたしがなんとかするから」
「ありがとう、さつき。でもね」
「何?」
「私、神様のところに行ってもいいかなぁって思うんだ」
その瞬間、逆上したわたしは舞ちゃんを引っ叩きそうになった。
「絶対ダメ!」
「大丈夫。大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫、ダイジョウブ……」
舞ちゃんは、わたしの震える両肩を掴んだ。
「さつきと一緒なら、絶対に何とかなる気がしてきた。きっと大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫だってば。それに……なんだかんだで神様だよ。私の、大切な、信じている神様だよ?」
ちっとも怖くないよ。
と、舞ちゃんは笑った。
だったら、なんで。
なんでそんなに、あなたも震えているのよ!
瞬きする間に、ぼたぼたと雫が落ちていき、ぬぐった両袖はたちまち温くなっていく。何も答えられないでいるわたしに、舞ちゃんはそっと手を出して、頬を撫でてきた。冷たさといい、軽さと言い、頬に雪がついたみたいだ。
「でもさ、その時はね」
と、舞ちゃんは、わたしにお願いをする。
その姿。
窓ガラスにぼた雪がくっついて、鈍い明かりに部屋が包まれる、彼女の顔。
「ちょっと抱えきれないから、ごめんね。さつきは、私みたいになりたいんだよね。いいよ、私になっても。その代わりに」
その代わりに。
その言葉を、彼女を、わたしは忘れない。
「代わりに『私』を持っていって。このオカルトの世界と一緒に『私』を引き受けて!」
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