16.彼女の家

「舞ちゃん、来たよ」

「さつき」

 玄関の扉を開けた先、ジャージ姿で出迎えてくれた舞ちゃんの髪は、短かった。わたしも伸ばしているとはいえ、それよりも短い。肩ほども、ない。

 わたしは笑顔を作る自分を意識した。

「舞ちゃん、髪の毛切ったんだね」

「さつきは、あれからもっと、髪の毛伸ばしたんだね」

「うん」

 彼女の顔色は、薄暗い廊下を背景にしているせいか、より青白く見えた。

「上がってよ。お父さんは今いないよ。大丈夫だから」

 大丈夫。何が、大丈夫なんだろうか。話が面倒になるかもしれないという事だろうか。

 そう不安に感じたところで、わたしは、無意識にここから逃げ出そうとしている自分に気が付いた。 

 来たばかりなのに。

 あれほど会いたかったのに。

 彼女と一緒にいられるのに。

 それなのに、誰でもいいから他に人がいてほしい、と思っている。

 彼女の部屋に通される。和風の畳の部屋だった。意外だった。てっきり洋風の部屋かと思ったのに。畳の上にベットを置いていると、脚の周りがぶわぶわして不安定だ。

 それでも、部屋の空気は、わたしが知っている舞ちゃんだ。見知った家具をまだ使っているのには、なんだかほっとする。

 持ってきたシュークリームを、出された紅茶とともに食べる。舞ちゃんはずっと笑顔だったけれど、こっちが不気味に感じるほど、何もしゃべらない。わたしは積極的に話しかけるが、どうも気もそぞろのようで、時折あちらこちらに視線が飛んでいた。

 同様にわたしも落ち着かなかった。ここに来る途中に気にかかることがあったのだ。

 この部屋も、廊下も、照明をつけているのに、嫌な感じに暗かった。外の天気が悪いことを差し引いても、なお暗鬱な雰囲気に満ちている。

 わたしは無言で、座っている姿勢を何度も直した。まるで家の空間が曲がっていて、自分の身体も一緒にねじられている気分だった。

「舞ちゃん」

「なあに? さつき」

 この家、何か変だね。

 なんて、言えっこない。

 こうして彼女と対峙して、分かったことがある。今の彼女が醸し出している空気は、なんて冷たい色をしてるんだろう。

 わたしの父がいなくなった頃、ランドセルを背負って帰り、家の玄関の扉を開けたら、いつもこれと似た空気が漂ってきたことを思い出した。

 突然よみがえってきたその辛い記憶は、時を経たのにも関わらず、胸に短刀を突き立てられたような衝撃と痛みを伴い、息が止まって目も霞んだ。

 涙ぐみそうになるのを、あわてて取り繕う。わたしは自分の鞄から買ったばかりの櫛を手にすると、まだ彼女が寝ていたぬくもりが残っているベットに腰かけた。

 以前の習慣のように、舞ちゃんの髪を梳こうとしたのだ。手招きすると、彼女はおとなしく私の前に正座する。その髪を手にして、わたしは愕然とした。

 なんて、ひどい髪質だろう。それに、切り方も乱雑で、とても美容院で切ってもらったようには思えない。聞けば、ほんの少しずつだけれど、自分で髪の毛を切っているらしい。

「髪の毛を伸ばしちゃダメなの。向こうに引き込まれそうになるの」

 彼女はそう呟いた。わたしは聞こえないふりをする。

 触っただけでガサガサと崩れ落ちそうな髪の毛。

 あれだけ美しかったのに、と、誰にも聞こえないほど小さいため息が漏れた。

「終わったよ。ねえ、今度はわたしの番。やってくれない?」

「……髪の毛を引っ張られるとねぇ。どんどん視界が狭くなって、色んなものが見えて……」

 わたしはもうたまらなかった。

「舞ちゃん、そんなこと学校でも言ってるの?」

「今、学校行ってないんだ」

 ……この時点で、予想してしかるべきセリフだったけれど、わたしは、へえ、とか、そうなんだ、とかそういった言葉さえ口に出せなかった。

 すると……舞ちゃんの顔が、わたしを見上げて、同時に、すうっと暗くなった。

「さつき。あの時のお願い、ちゃんとできて良かったね」

「なにが?」

「私、宗教の家のくせにホントは信じてなかったんだ」

「…………なにが?」

「私みたいになりたい、ってお願いしたでしょ」

 その時、気が付いた。櫛を持つ自分の指が、細かに震えていることに。

 舞ちゃんは、黙って見上げている。



 わたしの『真っ黒』になっている髪の毛を。

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