第63話

 

 カーテンを開ける俺の背後で、ずずっ、と鼻水をすする音がした。

 目についたティッシュ箱を取ってやろうとしたが、中身が空っぽだった。無くなったなら補充しとけよと思いつつ、服の袖で顔を拭ったヒロを見る。

「お前それ今日洗濯するんだろうな」

 きったねぇの、と言いながら持ってきていた未開封のペットボトルを渡す。

「明良は優しいんだけど、あれだよね、デリカシーが無い」

 ありがと、と言いながら、ヒロはちゃんと笑ってそれを受け取った。三分の一ほどの量を飲んでから、キャップを締めて、ベッドを下りる。

 俺に合わせてカーペットの敷かれる床に座ったヒロへ、俺は訊いた。

「で、大丈夫じゃない弘人くんは、俺にどうして欲しい」

「うん……多分、明良には変に聞こえるだろうだけど、俺の話を聞いてほしい」

 明良にしてた隠し事のことなんだ、と、ヒロが語り始めた話を、俺はただ聞いた。

 そのはじまりの時期が初夏だったことに、やっぱりか、と思った。

 その時期がはじまりになった理由、ヒロの隠し事の切っ掛け、なんという変なお手紙でしょう。俺はわざと考えないようにしていたが、それはこの約三カ月の間、自分の頭の隅にもうっすらと、それでも常に在り続けていた。

 言葉を途切らせつつ、言葉に迷いつつ、時には逆に言葉の勢いを速めたり語気を強めたりしつつ、ヒロは長い話を続けていく。

 時系列に流れていく内容の途中には、口を挟んでやりたい時もあった。

 ――世界から消された友達?

 ――脳内で聞こえてくる声?

 ――他人は見えない顔の無い男子学生?

 ――……俺のすぐ傍にも、そいつが、居た?

 だけど、その度に口を閉じて我慢した。

 ヒロは、俺に話を聞いて欲しいと言った。相談したいと言った訳でもないし、意見して欲しいと言ったのでもない。だったらヒロの願いを了承した俺は、まず黙ってヒロの話を聞かなくてはならない。それがどんなものであろうと否定してはいけない。

 少なくとも、ヒロがこの荒唐無稽な話の結末を語り終えるまでは。

「それで、交流キャンプの日」

 語られる話の時間が、四日前に追いついた。

「行きの列車であいつと会って、高校集まって小学校に行って、面白かった。キャンプの企画は子供達と一緒になって俺も楽しめたし、時々出てきた時のあいつもすごくはしゃいでたし、昼から入った六原君も……意外と、って言ったら失礼かもしれないけど、すごく頼りになって……まぁ、キャンプはそんな感じだった」

 そこまで満足そうに笑っていたヒロが、それで、と声のトーンを落とす。

「帰りの列車は、三人で帰った。俺と六原君とあいつ。楽しかった。久しぶりに一緒に帰れたのが嬉しかった。ここに明良が居れば完璧だなぁって思った。でも、もうすぐ夏休みも終わるし、また一緒に行き帰りが出来るようになるなぁって思った。それが、すごく楽しみだなぁって……思ってた」

 そう言ったきり、ヒロは黙り込んでしまった。

 あぐらをかいた状態で、俺と目を合わせることもなく斜め下に目線を落としている。何も無いそこを見つめたまま、ぼうっとしている。

 待っても待っても、次の言葉を語るために口が開かれそうな様子はない。

 だからな、ヒロ、お前な。

 そうやって自分の中だけで完結しやがって、

「俺を置いてくんじゃねぇよ」

 こればかりは思わず口を挟んでしまった俺に、ヒロは顔を上げた。

「聞き手を放置したまんま、話し手が一人で終幕を吟味してんなっつの。……聞いて欲しいってお前の話は、それで終わりなのか」

「……あー、ううん。もうちょっとある。もうちょっとだけ」

 首を振って、ヒロは言った。

「それで、その帰りの列車で、俺とうとう気付いちゃったんだよ」

「何にだよ」

 しまった、普通に俺喋ったわ。

「あいつが妄想だったってことに」

 まぁいいか。これ相槌だし、ヒロも気にしてないし。

 つーか、

「はぁ? だって今までの話の中でもずっと、俺が妄想で作ったあいつ、って言ってたじゃねぇか、お前」

 何言ってんだ、と眉を寄せる俺に、ヒロは頷いた。

「今はもう気付いちゃったから、やっぱり、俺にも妄想としか思えなくなっちゃったんだ。だから話し方も、そういう説明しか出来なくなっちゃってる。……でも、その時に気付くまでは本気で、俺はあいつが元々この世界に居たんだって思い込んでた」

 ヒロはそこでうっすらと笑った。

 その顔は少し六原と似ていた。自分に関するものを、静かに受け入れきった顔。

「いやぁ、本当に思い込んでたつもりなんだけどねぇ」

 でも、すぐにいつもの表情に戻ると、俺の親友は照れを隠すように話しだす。

「俺、どうせ明良がバカにしてるみたいに、ファンタジーとか大好きだし。それでも頭の中の奥の奥の奥の方じゃ、結局思い込めてはなかったんだよ。これただの妄想じゃんって気付いただけで、そいつさっぱり消えちゃったんだから」

 スワァァァァァって。

 と、ヒロは手振りを交えて言う。

「なんだその動き」

「あの消え方を表現しようとしたらこうなった」

「片手で人の首でも締め上げてんの?」

「違うっつってんじゃん! っていうか俺がそんな物騒なこと出来る訳ないだろ」

 だろうな知ってる、と笑えば、知ってるなら言うなよ、とヒロも笑った。

「ヒロ、で、どーなんだ?」

「なにが? ……あぁ、大丈夫。明良のおかげで復活しました」

 俺の幼馴染は、無事に反抗期(仮)を抜け出せたらしい。

 だけど、それはヒロが言うような、俺のおかげなんかじゃない。

 俺がこの部屋に来た時に、こいつは、何も考えたくなくてと言っていた。だが、俺はヒロ本人よりも、ヒロの頭の巡りの速さに気付けている自信がある。ヒロは何もかも投げ出した思考停止が出来るようなやつじゃない。もし当人に自覚がなくても、俺が来る前からヒロの中では既に、何らかのケリがつけられていたのだろう。

 それが一人で出来る強さを、こいつは持っている。

 とはいえ、まぁ、そんなことを言ってやるのは、恥ずかしいし面倒だし。

「本当、まったくだわ。あれほど俺に面倒かけんなっつって念押ししといたのにお前には全然通じてなかったようでこのツケは今後どう毟り取ってやろうかと」

「たまには素直に心配したって言ってもいいんじゃ」

「百歩譲ったとしてそれヒロが言うことか? この俺に面倒かけたお前が?」

「……俺、ずっと落ち込んでるふりしてれば良かったかもしんない」

 これが、いつもの俺たちだし。

 とりあえずヒロが戻ってこれたなら、それ以外はどうでも良かった。

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