第39話
***
そして俺は、自分自身に心から茫然とした。
色褪せた車体の最後尾は、もう走り去った先のカーブに消えてしまった。無人駅のホームに一人突っ立ったまま、なにしてんの、と俺は呟く。
――なにしてんの、俺。
衝動のままつい、と言い訳をして、俺そんな行動的だったのかよ、と眉を寄せる。
そんな一人二役の脳内会議は、なんにせよ意味を為さない。あいつの住む芳口に降りたところで、名前も思い出せていないのに、家なんて探せるはずがない。
というか。
そもそもあいつって今、どこに住んでんだろう。
そんな、今更なことに俺は気付いた。
消えたのはあいつ自身だけだから、家は、きっとどこかにあるのだろう。
でも、その家に帰ったとしても、例の手紙に書いてあった親や兄弟――あいつを忘れているその人たちには、あいつの姿は見えないはずだ。自分の居なくなった、それに気付かず何の変わりも無く生活が送られる家で、あいつは毎日過ごしているのだろうか。
それって、かなり……、……キツいんじゃないか?
俺の地元のものよりも、更に簡素な駅舎に入る。
クーラーはもちろん、扇風機も無いその建物内にはむわっとした熱気が溜まっていて、日陰であるだけマシ、とも言い切れなかった。黄ばんだり破れかけたりしたチラシが貼りつけられている掲示板の隣にヒビの入った時刻表板を見つけ、俺が乗るべき、次の列車の発車時刻を確認する。今から、一時間ほど後だった。
さっきは遊ぶ人が一緒だったからむしろ短く早く感じたけど、同じ待ち時間でもこんなに何も無い駅に一人じゃ、さすがに時間を持て余してしまう。
折角降り(てしまっ)たんだし、少し駅の周りでもぶらついてみるか。
次の列車を逃すといい加減シャレにならないので、もう一度その時刻を確認してから駅を出て、迷子にならないよう周囲の風景を覚え込みながら道を歩く。
芳口の雰囲気は、俺の地元と似ていた。
駅前に家や店が集まり、離れていくほどに畑や田圃の割合が増えていき、どの方向にも背後にはでっかい山がある。新しかったり修繕されたりして綺麗なのは大きめの道路や標識で、建物はどれもそれなりの年季が入っているように見える。これは比較的最近のものなのかなと思えるのは、アパートやいくつかの店ぐらいだった。
あれ、なんかこれ、昔見た覚えがある。
デカデカとイラストの描かれた看板の前で足を止める。
左手だけで逆立ちをしたまま、右手で作ったOKサインの輪を片目に当て、ちょっとニヒルに笑っているクマ。それを眺めているうちに、小学生の夏休み、明良がその場の皆の前で口にした言葉ことを思い出した。
「こないだ行った眼医者の向かいに公園があったんだよ。そこで――」
そこで、なんだったっけ?
たしかその続きが理由で、行ってみよう、って話になった気がする。
そしてその場に居た全員で、当時はほとんど乗る機会の無かった列車を使って、明良の言う公園に来た。きっとその時にこの看板を見たのだろう。
看板には、「スグソコ! 三十メートル先 右マガル」と書かれている。
携帯電話で時間を確認し、行ってみるか、と歩きだした。
表記の通りアベ眼科は確かにすぐそこで、記憶の通りその向かいには、植え込みで囲まれた、そんなに大きくはない公園があった。
園内に植わった木から聞こえるたくさんのセミの声で、さっきの続きを思い出す。
――そうだ、セミだ。
「そこでクマゼミ見た。でも高い場所だったし、もちろん網も持ってなくて捕まえられなかった。どうする、行ってみるか?」
あれは、クマゼミを採りに来たんだった。
小さい頃から賢かった幼馴染は、その活かし方も上手くって。夏休み前、そもそもの発端となる提案をしたのは、今なんかよりずっとヤンチャだった頃の明良だった。
皆で虫の標本を作り、それを共同作品として、工作の宿題に提出しないか。その替わりちゃんと全員分の仕上がりになるように、たくさんの種類の虫を集めよう。
そんな提案の裏にはつまり、工作のためとして虫採りをして遊びながら、一人だと面倒な宿題を片付けてしまおうという思惑があった。
自然に囲まれた環境、もとい片田舎だったから、虫の採集はすいすい進んだ。でも、夏の代表的な虫ともいえるセミの中のクマゼミだけは、地元中を探してもなかなか見つからなかった。鳴き声はしてんだけどなぁ、とメンバーで頭を悩ませたものだ。
「……クマゼミの鳴き声ってどんなのだっけ」
あの頃は聞き分けられていたのに、ジィジィシャアシャアと響いている声にそれが混じっているのかどうか、今の俺には言い切れる自信がない。
変わっちゃったなあ。俺もだけど……この公園も。
ノスタルジーな思いを感じながら、公園を眺める。そこにあったはずのブランコやすべり台は、今はもう、老朽化からだろうか撤去されてしまっていた。残っているのは花壇や水飲み口のある水道くらいなもので、それのおかげで、かろうじてここが空き地ではないことが示されていると言ってもいい。
ふと、園内入口の白い看板が目に付いた。
そう言えばこの公園の正式名称ってなんて言うんだろ。あれに書いてあるかな。
そう思って近づいていくうち、それは公園の説明が書かれているようなものじゃないことに気付いた。それでも足は止めず、その看板――住宅地図の前に立つ。
駅前一区と大きく書かれた地図の住宅内には、それぞれ家主なのだろう住人の名前が書いてある。すべての地区にあるというわけではないが、俺の地元でもこうした地図はちらほら見かける。ニュースを見る限り世間では個人情報の取り扱いについて厳しく言われている時代のようだけど、誰でも簡単に見ることの出来ちゃう、これはいいんだろうか?
そんなことを考えながら地図にざっと目を通し、自分に苦笑いをする。
便利なもんだし、それが当たり前だけど、これがあっても探す相手の名前が分からないんじゃ、どうしようもないんだよな。そもそも下車駅が芳口とはいえ、あいつの家がこの地図に載る範囲にあるとは限らない。
そこまで考えて、あ、と思いついた。
たしか六原君は、芳口駅前に住んでるって聞いたような。
看板から外しかけていた目を戻し、前のめりになって、指で地図を辿る。
…………無い。
六原という名字をもつ人名は、その中には見当たらなかった。
駅前といっても、どうやら六原君の家もこの範囲内じゃないようだ。これには駅前一区と書かれているし、二区や三区もあって、彼は多分そっちに住んでいるんだろう。
納得しかけた時、しゃわしゃわとした薄い音と共に、リズミカルで早めの足音が聞こえてきていることに気付いた。そっちの方向を見ると、ナイロン製のジャージを着て、つばのある帽子を被った、いかにもウォーキング中のおばさんと目が合う。
急に逸らすのも失礼かと思い、俺は軽く会釈をした。
それに対しておばさんはにっこりと笑って、
「学生さん?」
と、俺の隣まで来て立ち止った。
「あ、はい。そうです」
制服を見てそう尋ねたらしいおばさんに頷くと、そう、とおばさんは言う。
「あっちから見えてた時から、この辺で見ない子だなぁって思いながら歩いてたの。おともだちの家を探してるの? おばさん、このへんに詳しいから教えてあげるわよ」
どこか楽しそうなおばさんの様子に、勝手に訊くのもなぁという迷いを封じる。
こんな地図があるくらいだし、実際に突撃するつもりはないし、家が何区にあるのかだけでも訊いてみようか。
「……えーと、六原君の、」
「あぁ、笙太くんのおともだちなのね!」
言い終わる前から、六原という名前を聞いた瞬間におばさんの笑顔は強まった。
そして俺の予想を裏切り、一区だからこの中にあるわよ、と地図を指差す。
丸っこい爪を持つ指の先は、コーポせせらぎ芳口駅前、を示していた。なるほど、この地図だと個人住宅じゃないなら住人の名前は分からない。
「おばさんのうちはこのすぐ前なの。でもね、今行っても笙太くんは居ないわよ。六原さんち、昨日から、引っ越してくる前の家に里帰りしてるはずだから」
「え。六原君って、引っ越してきたんですか? あの、お……僕、六原君と仲良くなったの結構最近で、知らなかったです」
あらそうなのとおばさんは笑い、そしてしんみりとした口調へと変わった。
「里帰り先じゃ、お母さんのご両親と暮らしてたんですって。そうよねぇ。片親じゃ、いくら子供が一人だけだからって言っても、誰かほかの助けてくれる人が居なくちゃ大変だものねぇ。本当は六原さん、向こうで一緒の生活続けてた方が楽だったろうけど」
あんなことがあればその町に居たくなくなっちゃうわよね、と、おばさんは眉を下げる。一人で納得してしまっているその様子に、俺は取り残されたままだ。
それに気付いたのか、そっかそれも知らないのねあのね、とおばさんは声を潜めた。田舎で噂の周りが早いのは、こういう人が多いからなのかもしれない。
「向こうで、笙太くんが事故にあったのよ。よそ見運転してたトラックが歩道に突っ込むのに巻き込まれたらしいわ、怖い話でしょう? 誰も死ななかったし、笙太くんに大きな後遺症が残らなかったのは本当に不幸中の幸い。つい四、五年前の話で、全国ニュースでもちょっとだけ流れてたと思うけど、覚えてなぁい?」
おばさんがそう尋ねるが、その、つい、の範囲は俺には長い。
それに当時の自分に興味があったとは思えない事故だから、覚えてないどころか、そのニュースをまともに見ていたとも思えなかった。
ともかく、その事故が六原君の言っていた入院するほどの事故、なのだろう。六原君の語り口が全然重くなかったこともあって、そこまでの規模だとは想像してなかった。よく無事だったなぁ。そんな事故直後で『とんちんかんなこと』を言ったら、確かに大慌てで頭の心配をされてまうかもしれない。
「六原さんちが引っ越してきたのは、一年半くらい前かしらねぇ。ちょうど笙太くんがこっちの高校、あなたと同じ高校に入学したのをきっかけにしたのね」
「そうだったんですか……それで、えっと、ちなみにいつ戻るかって分かりますか」
こうした事情を本人の知らないところで聞き続けるのも悪い気がして、俺は話題を切り替えようとする。
いつだったかしら、とおばさんが斜め上を見上げた時、背後で軽トラが止まった。
「富岡さん、きゅうり要らんか?」
アイドリングのまま窓を開けてそう言ったのは、らくだシャツ姿のおじいさんだ。富岡さんと呼ばれたおばさんに、まーた喰いきれんほど採れてなぁ、と言う。
おじいさんと親しいらしいおばさんは、にこにこと笑って両手を合わせた。
「あらぁー、頂けるなら欲しいですねぇ。帰ってから取りに行ってもいいです?」
「あぁ、そうしてくれや。なんだ、その子は息子か?」
「やだわぁ大家さん、歳から考えたら言えても孫でしょう……ちょうど良かった、六原さんとこっていつ戻られるかってわかります? この子、笙太くんのおともだちなんです」
あぁそうなんか、と言うおじいさんに、こんにちは、と俺は頭を下げた。
大家さん、ということは、もしかするとコーポせせらぎの大家なのかな、この人。
「六原さんちなぁ。たしか、帰って来るのは明日の晩って聞いとるぞ」
大家さんの答えに、明日の晩なら、とおばさんが俺に言う。
「来るのは明後日の方がいいかもね。あなたの家はここから遠いの?」
流れるような言葉に、思わず自分の地元名をそのまま教える。そうか、こうしたテクニックが上手いから、たくさんの噂情報を収集してこれるのか。
「あら、おとなり。おばさんの姪っ子がそこ住んでるわ」
「オラぁ今そっちから帰って来たとこだぞ」
自分の情報を開示することに躊躇いがないのも、理由になるだろうけど。
「急ぎの用事じゃなかったら、明後日にまた来ると良いわ」
「あぁ、はい、大丈夫です。ありがとうございました」
そう言って俺が頭を下げると、いいのよーとおばさんは笑った。
おばさんにきゅうりのことを忘れないように言い含めて、大家さんの軽トラは走り去っていく。じゃあねと帽子のつばを下げたおばさんも、またリズミカルな足音を立てて道の向こうへ歩いていった。
地図の前で一人になり、俺もその場を離れ、駅へと足を向かわせる。
あの人たちは親切だったけど、夕方になってから知らない学生が目的も無さそうに歩いているのは、この辺の住民からすると怪しいと思われても仕方ないかもしれない。列車までの待ち時間も、これから駅に戻る時間を考えればもうそれほど長くは無いし、探索はそろそろ切り上げておこう。
芳口駅まで戻り、わずかでも風が感じられないかとホームで待つ。
時間潰しに携帯電話を突いている俺の前を、俺が乗りたいのと進行方向が逆の快速列車が通り過ぎていった。ちなみに、快速列車は俺の地元でも停まることは無い。
次にあっち向きの列車に乗るのは、しばらく先だな。
トンネルの方へ進む列車を見送りながら、ふっと、何かが引っかかった。
なんだ? え、なんだろう。
なにかを今、あれ、と不思議に思ったような。
考えながら線路を見つめても、それをもう一度掴むことは出来なかった。なんとなく残るもやもやを抱えたまま、携帯電話に目線を下ろす。
あぁそうだ、と、携帯のアドレス帳を開いた。
『ひさしぶりー 今日も暑かったな』
六原君へメールを出してみようと思ったのは、ほんの思いつきだ。
『用事があって芳口に来たんだけど
ここの駅すごい狭い 前からこんなだっけ?』
適当に思い浮かんだことや絵文字を打ちこんで、最後にもう二文だけ。
『もしかしたら会えるかなって思ったけど残念!
じゃ、また休み明けに』
六原君にメールを送るのは、まだたった二回目だ。一回目の時の返信は貰っていないけど、あれは内容が内容だから、元々返信がくるとは考えなかった。
だから俺は、六原君とメールするのは慣れていない。こういう文章で大丈夫かな、と思いながら入力したものの、打ち終わった今、じっくり読み直すのも打ち直すのも、なんだか恥ずかしい気がする。送ってみようと思い至ったのだって、時間潰しとただのノリからなんだし、これ以上深くは考えないでいいだろう。
結局どちらもしないまま、俺はそのままメールを送った。
そして。
数時間後の返信に、これ六原君のアドレスだよな、と首を傾げることになる。
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