第22話


【田中弘人】


「明良来たよ。じゃあね、でんちゅー」

 その言葉を言い終える前に、そいつは俺の横から消えていた。

 左手で隠すようにしながら文字を書き綴っていたノートを閉じる。少しだけ緊張しながら教室の扉に目を向けると、俺の視線を受けて、明良は軽く片手を上げた。

 その隣にも後ろにも、予想していた生徒の姿はない。

 ノートや筆箱をしまいこんで、リュックを右肩にかけた。

「……六原君は?」

 一緒に帰るのかと思ってた、と言えば、廊下を進みながら明良が答える。

「今日は別、だとさ」

「別ってどういうこと、もう一本遅いので帰るって?」

 眉を寄せる俺に、さぁな、と明良は鞄をかけなおして笑った。

「帰ろうぜって誘ったら『ありがとう、でも今日は別。明日の朝からは頑張る』って言い残して行っちまったから、よく分かんねぇ」

 六原君に対して複雑な気分を持っていた俺としては、正直なところ安心した。

 きっと明良にはバレバレだろうけど、それでも何気ない口ぶりを装って、気になっていることを口にする。

「六原君って、どんな感じだった?」

「ぼけっとして自己中で負けず嫌い」

 質問への返答はとても速かった。

 その口調は、内容の割にすごく楽しそうで、俺にはよく分かった。

 そもそもがどんなタイプにも結構上手く合わせてしまえる明良だから、相手の性格によってその人を拒絶し、突っぱねるようなことはほとんどない。それでも、もちろん明良だって人間だから、好みの程度はある。

 そして今回の六原君は、随分お気に召されたらしい。

「面白いやつだわ」

 付け足された言葉、明良の簡素な紛れもない本音に、やっぱり、と俺は思った。

 きっとそれは感じちゃいけない気持ちなのに、それが分かっているのに、俺は自分の中のジリッとしたものを無視出来なかった。


 部室棟へ向かう生徒に紛れて、靴を履き替え外に出る。

 それが目についたのは、俺も明良もほぼ同時だった。

「なんかの業者かな」

 校門から少し横にそれた所に、銀色の軽自動車が停まっている。

「だったら中の駐車スペース乗り入れるんじゃねぇの」

「まぁ、そっか。社名のロゴとかも入ってないっぽいし」

 明良とそんなことを話しつつ、車の近くを通り過ぎようとして、丁度開いた運転席のドアに、思わず歩調が乱れた。降りてきた人と目が合う。

「すみません、生徒さんよね。学校のことでちょっと聞かせて欲しいんだけど」

 眼鏡を掛けたさっぱりとした格好の女の人で、年齢は三十か四十代くらいだろうか。

 小首を傾げてこちらへ問いかける姿に、なんですか、と俺は答え、どういった関係の方でしょうか、と明良が訊ねた。けして疑っている訳ではない、一応の確認という明良の言い方に、あぁごめんなさい、と眉を下げてその人は微笑んだ。

「ここの生徒の保護者です。二年生はもう終わったか知りたくて」

 言葉の通り、確かにその人の見た目は、誰かの母親といった雰囲気だ。

「二年なら、全クラス終礼は済みました」

 端的な明良の答えに、その人は、

「そう。どうもありがとうございます」

 と、軽く頭を下げて礼を言って、一度校舎を見上げてから車の中へ戻った。

 銀色の車にエンジンがかけられているのを背後に、俺と明良はその場から歩き出す。

 ちょっと離れたところで、誰かの迎えかな、と明良に話しかけた。何かを考えていたらしい明良からは薄い反応しか返ってこなかった。

 それからしばらく、それぞれのクラスで今授業はどのあたりをやっているかの話をしながら歩いた。

 英語のケーススタディについて口にしている途中で、

「あんな会話文なんてどこで――」

 と、車道側を歩いていた明良が後ろを振り返り、言葉を止めた。

 なんだと思ってその視線を追いかけたところで、ちょうど目の前の道路を、銀色の自動車が通り過ぎていく。

「あ、さっきの」

「……やっぱりあれが『ハンドルシート』か」

 車の走って行った先を見つめ、明良がぼそっと呟いた。

「ハンドル? って、なにそれ?」

 耳に入った単語を拾い上げて訊ねれば、明良は目線を俺に移して口を開き、

「俺が説明するのは面倒臭ぇわ」

 間をあけた後にそう言い放った。鼻で息を吐き、本人に訊けと笑う。

「本人って誰だよ」

「六原。さっきの車、後ろに乗ってた。明日訊けばいい」

「はぁ? 知り合って一日目に突然『ハンドルシートってなに』って訊けって?」

「あぁそうだよ。会話の糸口が見つかったな、良かったな」

 たぶん本気と冗談半々なのだろうけど、いずれにしろそんなこと俺は絶対に出来ないし、明良だってそれを分かっている。分かった上で、そんな風に言う。

 それが悔しくて、

「無理ですそんなのハードル高過ぎ」

 と俺が言ってみたところで、明良はしれっとした態度だ。

「じゃ、忘れるか気にし続けてろよ」

「お前が俺に教えてくれればいいだけのことじゃん!」

「やーだ、面倒臭い」

「うわ出た、またそれだよ」

 不満と共にわざとらしく溜息を吐いてみせると、

「お前、俺と何年親友してんの? またそれ、って言えるほどだろ? 俺の面倒臭がりなんて今に始まったこっちゃねぇじゃねぇか」

 いい加減諦めろよ、と明良に笑われた。

 俺の思考が一瞬止まる。親友。親友だって。

 明良の方からそう言われるのって初めてじゃないか?

 明良が何気なく使った単語なんかでこんなに反応してしまう俺は、とてもレベルが低いのかもしれない。でも、だって、親友って友達より上でしょ。特に明良みたいな性格の人からは、すぐに認定してもらえるようなものでもないでしょ。

 六原君とかは、まだまだ到達出来ないだろうものでしょ?

 ぐっ、と息を飲み込んで、俺は上がったテンションに任せ声を張る。

「そうは言っても明良の面倒臭いは流石に酷過ぎる! なんでもかんでもじゃん!」

「だったらお前は、変に自己卑下が強過ぎるし、変に諦めが悪過ぎる」

「言い方が辛辣だけど俺もそれはアッキーに同意するー」

「でもそれって、謙虚で挫けない男って言えばすごく」

 良く聞こえるだろ、という言葉は、


 ――今、あいつ、あいつの、声が。


 口の中で消えた。

「おい」

 斜め前方からかかった声に、俺は自分が足を止めていたことに気付く。

「なんだよ急に」

「いや、ちょっと、今」

 言い訳を考えながら聴覚を集中させても、次の声は聞こえなかった。

「ヒロ?」

 俺に向け、訝しげな表情をしている明良。

 その顔を見て、どうしてさっきだけあいつの声聞こえたのかはともかく、やっぱり明良には聞こえなかったのだということを確信した。

「……あぁ、ごめん、くしゃみ。……出そうだったんだけど消えた」

 言いながら片手で鼻を押さえれば、あぁそ、と明良は前を向く。

「そういうのなんかすっきりしねぇよな、魚影見えてたのに逃した気分」

 明良の何気ない言葉に、俺も言葉を繋げた。

「うん。もっかい来い、って、すげぇ思う」

 会話を再開して、駅に向かって歩みを進めながら、俺は、ばくばくと暴れまわる自分の心臓を気にしないふりをするのに必死だった。

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