黒百合の記憶―芽生えた恋―

「うちの長男は……本当は、双子・・でしたの」

 黒百合の導きに従い、彼女は重い口を開き、静かに語り出す。

「当時の私には、とても二人の赤ん坊を育てることができませんでした。思った以上に、双子の育児は大変なもので……なんて、こんなの言い訳にしかなりませんね」

 理由はどうあれ、私は……子供を捨てたのです。

 そう言って女は、涙を流した。

「双子が一歳の誕生日を迎える前に、片割れを施設に預けました。精神的にももう、辛くて。本当は二人とも預けようと思ったんですが、自分で産んだ子ですもの。せめて片方だけでも、自分で育てることは義務だと感じて」

 ひどい母親だと、自分でも思います。あの子には……いいえ、あの子たちには本当に、償いきれないほどの酷い仕打ちをしました。

「その後、私は時を置いてさらに二人の子供を産みましたが……片時も、あの捨てた子供を忘れることはなかった。えぇ、本当ですわ。どこかで幸せに生きてくれていることを、ずっと願っていました」


    ◆◆◆


 若槻銀行に入行した静流は、本来の真面目な性格でコツコツとそつなく仕事をこなした。給料は決していいとは言えなかったが、扶養手当もあったので、他の家庭より慎ましい生活ではあったものの、なんとか香澄と二人で暮らしていくことができた。

 年若い身でありながら既に子持ち状態の静流を、同僚や先輩たちは何かと気にかけてくれた。香澄のためにお下がりの服をくれたり、作りすぎたという煮物をおすそ分けしてくれたり、家事に慣れない静流に色々な裏技を教えてくれたり。それも、静流にとってはかなり助かった。

 料理番組を見て自分なりにレシピを勉強したり、節約術を紹介する本を読みこんだりと、静流自身も仕事の合間を縫っては自分なりに奮闘していた。

 しかし、幸いにも香澄は女の子だったので、成長するごとに手伝いをしてくれるようになったのはありがたかった。中学進学の頃にもなれば、香澄は既にひと通りの家事をこなせるようになっていたのだ。

 親子の生活というよりは、夫婦生活と言った方がどちらかというと近かったのだろうか。

 静流自身の気持ちはともかくとして、少なくとも香澄の方には、そういう認識があったかもしれなかった。


 三十路も近付いて、そろそろ結婚も考えなくてはいけないと周りに言われるようになり、静流自身も漠然とではありながらそう思い始めてきた頃。

 若槻銀行に口座を作りに来たという、当時女子大生の吉村紗織という顧客に、応対した静流は情けなくも一目惚れをしてしまった。

 薔薇の花のように華やかで、髪も瞳も唇も肌も、何もかもが艶やかに色づき美しい。そんな彼女はまさに手の届かない存在だとばかり思っていたけれど、意外に紗織の方も静流に対してまんざらでもないような反応を見せることが多く、顔を合わせるたびに静流はドキドキした。

 やがて彼の気持ちを知った周りからの心強い後押しもあり、静流は少しずつ紗織と距離を縮めていった。プライベートで会うようにもなり、戸籍上静流の娘となっている、香澄を交えて三人で食事をしたり……。

 香澄には最初、紗織のことを疎ましく思うような素振りがあった。静流が恥ずかしがって、そういう恋愛的なことを香澄の前で口にしなかったからかもしれない。あるいは、ある日突然現れた女性に、静流を取られると思った――子供じみた嫉妬のような感情が、あったのかもしれない。

 しかし女同士やはり気が合ったのか、静流を除いて二人だけで服を買いに行ったりするなど、徐々に良好な関係を築くようになっていった。

 香澄は内心で静流の気持ちを察していたし、いずれそうなるのであろうことも薄々感づいてはいた。それでも敢えて成り行きに任せるかのように振る舞い、決して二人を煽るようなことはしなかった。


 やがて香澄の予想通り、静流と紗織は正式に恋人同士になった。

 育ちゆえか純粋で少々情けないところがあり、怖気づいてなかなか気持ちを言い出せずにいた静流に、紗織の方から告白してきた。

 静流は天地が引っ繰り返るほど驚いたが、彼女の気持ちが事実だと分かると、すぐに舞い上がってしまった。

「よ、よろしくお願いします!」

 食い気味に答えてしまい、目を丸くした紗織に苦笑されたものだ。

 そうして始まった『お付き合い』は、静流にとって幸福な日々そのものであった。毎日が薔薇色で、どこへ行くにも何をするにも、恋人の存在を噛み締めながら、自然と笑みがこぼれてしまって。

 デートの前日などには、香澄に「おいちゃん、表情が崩れてる。情けないよ」と何度も指摘されてしまうほどだった。

 手を繋いだり、二人で寄り添って座ったり、時に軽いキスをしたり。

 時折紗織が静流の勤める銀行を訪ね、仕事も忘れて二人で他愛もないおしゃべりをしたり。逆に静流が紗織のいる大学へ足を運び、授業が終わったら二人で寄り道しつつ帰ったり。

 そんな甘くて素敵な毎日は、瞬く間に過ぎていく。

 その間に紗織は大学を卒業し、地元のテレビ局へアナウンサーとして入社することになった。もともと端正な顔立ちで華があり、社交的でもあった彼女にはぴったりの職場だ。

「静流さんのとこ、取材に行くね」

 そんなことを言って、ウインクする恋人は実に愛らしい。


 香澄がちょうど高校生になった頃、そして静流と紗織が互いに社会人となったことで、徐々に恋人同士としての時間も落ち着き始めた頃……静流は、具体的に結婚を考え始めた。

 紗織に出逢う少し前までは、漠然としか考えていなかった『それ』。

 静流が独り身であったなら、そしてもう少し積極的であったなら、容易かっただろう。紗織が大学を卒業する前に、喜び勇んでプロポーズをしていたかもしれない。

 しかし静流には、香澄がいる。

 香澄と紗織の現在の仲は非常に良好であることを、静流は知っていた。しかし、結婚するともなれば話は別かもしれない。だって、長年兄と妹のような関係で過ごしてきたとはいえ、戸籍上静流と香澄は『親子』なのだ。

 つまり、紗織と結婚するということは……同時に、あの年若い紗織を『母親』にするということで。

 香澄は多感な高校生。紗織は、駆け出しのアナウンサー。

 そんな彼女たちに『母親』を、あるいは『娘』を、ある日突然与えてしまうことになって……双方に、負担を掛けはしないだろうか。自分が抱えるこの想いを、認めてもらえるだろうか。静流は不安だった。

 それでも、静流には香澄を手放すという選択肢など最初からない。

 彼女を引き取り育てると決めたのは、自分だ。恋人である紗織と同じくらい、香澄のことも家族として大切に想っている。親に捨てられた、自分と同じ境遇の中で育った少女を、どうしてもこの手で幸せにしてあげたかった。彼女がいない生活など、考えられないことだった。

 紗織のことはもちろん好きだ。けれど香澄のことも、大切だ。

 だからこそ……どうしたらいいのか、分からなくなってしまった。

 男のくせに情けないと、言われてしまえばそれまでだが、事情が事情だから仕方ないと、何度も自分に言い聞かせて。

 後回しを、繰り返した。


 そんな風に、躊躇を繰り返していたからだろうか。あるいは、優柔不断であったが故の、神様からの罰だったのだろうか。

 後に、悲劇は起きてしまう。

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