裏切りスイッチ
ふらり、おぼつかない足取りで外へ出る。
自分さえこれからどこへ向かおうとしているのかも知れず、雪のちらつく街中を、傘も差さずにただ彷徨った。
雪にまみれた身体のまま、若槻駅で立ちすくんでいると、ちょうどあの日と同じように、真っ黒な傘が目の前に現れた。
顔を上げれば、真っ赤な唇に笑みを湛え、女がこちらを見ている。コートや厚手のブーツなど、初めて会ったあの日にはなかったはずの防寒具さえ徹底して、彼女の纏うすべては黒い。
ふわりと鼻を掠める、腐った花の匂い。
やがて彼女はぴっとりと、亮太の濡れた胸に頭を預けた。薄い色素の、柔らかそうな髪。強く鼻を刺激する、あの匂い。
「かわいそうなひと」
甘い声が、心臓に絡みつく。
亮太は答えずにそっと、薄い肩に震える手を添えた。
◆◆◆
「亮ちゃん!」
病室に入るなり、瑠璃はぱぁっと表情を華やげた。
入院当初より落ち着いてきているとは聞いていたが、確かに以前より随分顔色もよくなっている。亮太は答えるように片手を上げ、小さく笑った。
「元気?」
「見ての通りよ。亮ちゃん全然来てくれなくて、寂しかったぁ」
「仕事が忙しくてさ」
それは半分本当で、半分嘘。
仕事があったのは本当だ。ただ……確定申告の時期にはまだ早いし、時間に余裕がなかったわけじゃ、決してない。瑠璃の病室を訪ねるくらいなら、年末前まで毎日のように瑠璃のもとへ通っていたあの日々のように、時間を取るのは簡単だった。
余裕がなかったのは、心の方だ。
兄から届いた荷物を開いて、亮太はしばらく考えていた。
頭を冷やし落ち着いたあとで実家に電話を掛け、こんなことなら何故もっと早く教えてくれなかったのかと散々問い詰めた。
兄は静かに答えた。
『佳月は、お前に心配を掛けたくなかったんだよ』
「でも、兄貴と母さんは知っていたんだろう?」
『……あぁ』
兄いわく、佳月の遺品整理をしている時に見つかったという、『ごめんね』という一言のメモ書きに添えられていたドロップ缶。あの中に日記が……彼女の心の叫びが仕込まれていたことに、幼い亮太は気付くことができなかった。
『お兄ちゃんにだけ、この日記のことを教えた』
亡くなる数日前に、兄にだけは存在を打ち明けていたようだった。
兄は最初何のことか分からなかったという。亮太と同じように、日記といえば、大学ノートや市販の日記帳を思い浮かべていたからだろう。しかし遺品整理の際にドロップ缶を見つけ、これが彼女の言っていた『日記』だったのだと、ようやく気づいたらしい。
それ以来ずっと、兄はこの『日記』を大切に持っていた。
共有者は母だけ、のはずだった。
『これ以上はもう耐えられない。こうでもしなきゃ……この世に生きている限り、わたしは一生逃れられない。迷惑ばかりかけて、ごめんなさい』
筆跡の戻った最後の日記には、強張った字でこう記されていた。
『亮ちゃんにだけは、せめて心配をかけたくない。亮ちゃんのことだけは、何があっても守らなきゃ』
佳月は本当に、亮太にだけは何も言わないでおくつもりだったらしい。
『玲くんに、少しだけ相談した』
本人は何も言っていなかったが、忍海の名前も出てきた。亮太には、これが一番ショックだった。
『言わないつもりだったけど、あの子はかしこいから、かくしててもムダだったよ。せめて亮ちゃんにだけは言わないでって、おねがいしておいた』
どこまで打ち明けたのかは知らない。しかし忍海も、ある程度の事情を知っていながら亮太に事実を隠していたのだった。
ちなみにあとでその忍海に電話をかけてみたのだが、繋がらなかった。携帯電話の電源自体が切れているのかもしれない。少しずさんなところがある彼だから、それも納得できないではないのだが……。
こんな状況だ。少しばかり、怪しんでもおかしくはない。
兄と母は、将来的に瑠璃と結婚して子を成そうとしているかもしれない、亮太の現状を応援しつつも、内心で案じていたという。
誰より佳月が大切にしていた、弟である亮太の幸せこそが、その延長線上にあるというのならばそれでいい。けれど……本当にそれで、彼は幸せになれるのだろうか?
そこに佳月が望んだ、未来はあるのだろうか?
今まであえて目を逸らし、知らないふりをしてきた。
けれど
『これを全て知った上で、どうするのか……あとは、お前次第だ』
兄は最後にそう言った。試すような物言いだったが、亮太がこれからどうするつもりなのかを、もう既に確信しているかのようだった。
それでも、亮太は覚悟を決めていた。直接
佳月の――最愛の姉の、死の真相を知らなければいけないと。
「ねぇ亮ちゃん、久しぶりに会ったんだし……」
「今日はね、瑠璃」
亮太を見つめる瑠璃の瞳に、欲望の灯が揺れる。お誘いの言葉を気づかない振りで遮り、亮太は言う。
「どうしても、見せたいものがあるんだ」
いささか不満そうな瑠璃の目の前で、持って来た例の日記を取り出し、開いてみせた。ほとんど最後の、数ページ。
そこには震える佳月の筆跡で、たくさんの文章や、文章にならない言葉――いや、最後の方はもはや言葉にさえもなっていない、ただ単語の羅列と化した字が記されている。
瑠璃が不思議そうな顔で覗き込み……さっと顔色を青くする。分かりやすい表情の変化に、亮太は内心ほくそ笑んだ。
『一九××年十二月○日 昨日から。いきなり、クラスのお友だちがみんな、わたしを無視するようになった。なんで? わたし、なにかしたのかな?』
『一九××年十二月×日 やっぱり、みんなくちをきいてくれない。どうして? 理由を聞こうとしても、取りつくしまもなくて……かなしい』
『一九××年十二月△日 瑠璃ちゃんだけが、わたしを受け入れてくれてる。「年が明けたら、きっといつも通りだよ」って。瑠璃ちゃん、やさしいね。ありがとう』
『一九××年一月十○日 年が明けても、みんなわたしにつめたい。今まで、あんなになかよくお話してたのに……わたしと瑠璃ちゃんを指さして、遠くでひそひそお話してる。こわい。みんな、べつじんみたい』
『一九××年四月○日 クラス、かわったのに。やっともとどおりだとおもったのに。校内で、へんなうわさがながれてるって。学校中のみんなが、わたしを白い目で見る。こわい。かなしい。いや……』
やっと、見つけた。
佳月がこれまで隠してきた、真実の叫びだ。
『いやだ、こわい。なんでこんなことするの』
『いたい。くるしい。だれかたすけて』
『なぐらないで。けらないで。かみのけを、ひっぱらないで』
『わたしを、よごさないで……だいじなひとに、てをださないで』
『ねぇ、なんで? ともだちだとおもってたのに』
『るりちゃん、どうして』
『るりちゃん……ひどいよ』
「かづ、き」
どうして、と掠れる声が問いかけるが、答える声はない。
「瑠璃、お前に聞きたいことがある」
自分でも驚くほど静かに、亮太は瑠璃へ向き直ることができた。
彼女はがたがたと震えていた。さっきまでの陽気さとはまるで別人のように、亮太へ怯えの眼差しを向けている。
しかしそんなことお構いなしとでもいうように、亮太は姉によく似た笑みを湛え、しかし冷たい声で告げた。
「……佳月に、何をした?」
◆◆◆
黒いランジェリーの下、あらわになった白い肌。
滑らかな陶器のようにしっとりと、彼の手に馴染んでいく。
触れるだけで、そのたびに甘い嬌声が漏れた。柔らかい果実の中を暴いてやれば、きらきらと輝く双眼は嬉しそうに見つめ、さらなる快楽を自ら求めてくる。
たまらなくなって身体を抱き寄せれば、もっとと強張るように蠢き、吸いついてきた。擦り寄って肩に預けられた頭に触れ、髪を撫でてやると、ふふ、と幸せそうな声が漏れ聞こえてくる。
誰よりも愛おしい男の、面影を抱き寄せて。
真っ白い清らな肌を露わにした美しい女は、今まで見せたことのない幸福な表情を浮かべた。
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