山嶺へ(三)
神殿のひとびとが寝付き始めている夜更け、私室の扉を開けて、四詩は驚いた。
一矢がこわばった面立ちで廊下に立っていたのだ。いつも連れている従僕はおらず、自分でランプを持っている。
「入れろ」
是も非もなく、四詩を押しのけて彼女はからだを四詩の部屋に滑り込ませる。四詩は扉を閉め、向き直る。
「どうなさいました……?」
一矢は眉間に皺を寄せ、部屋の真ん中で立ち尽くしている。
無言の一矢に、四詩はとりあえず炉辺に置かれた三つ足の椅子を差し出した。
「おかけくださいませ」
一矢はぎくしゃくとからだを動かし、座る。
四詩はちいさな暖炉に残っていた火をふいごでおおきくすると、バター茶の入った薬罐をかけた。
「そなたも座れ」
「もうすこしで茶があたたまりますので、お待ちを……」
「……」
茶は煮詰まると飲めたものでなくなる。一矢はそれに思い当たったのか、ふたたび黙る。
他人の寝室がもの珍しいのか、一矢はきょろきょろとあたりを見渡している。
四詩は薬罐をはずし、茶碗に茶を入れる。雪獅子の刺繍布を張った、壁に作られたちいさな祭壇に茶を供えてから、一矢に茶碗を渡し、向かいに敷かれた絨毯に座る。
一矢が片眉を上げた。
「そなたの椅子はないのか」
「……はあ、ほとんどひとが訪ねてきませんので、椅子は一客しかないのです」
一矢は下唇に力を込めた。
「……左様か」
「……左様です」
ふたりは向かい合ったまま、二口、三口と茶を飲んだ。
一矢はうつむいたまま、ぼそりと言った。
「
「は!?」
四詩は目をみひらいた。
一矢は炉棚に茶碗を置き、四詩をじっと見下ろす。
「聖山を百日、夜明け前から日没まで巡る。潔斎し、麦と塩を断って各地の堂の聖像に水を供養する」
「お考え直しくださいませ!」
四詩は叫んだ。
無言の一矢に畳みかける。
「雪獅子が病まれているいま、一矢さまに万一のことがあったら――」
「ならばこそである」
一矢は瞳を底光りさせた。
「雪獅子をお救いするには、一の巫祝が荒行をするほか道はない」
「……」
「二映は老齢で、三叉は政務がある。行ができるのはわしだけだ」
「……そんな……」
祈りを、行として実践することは、いつくしの嶺では最大限讃えられる。百日行は国の難事に高位の巫祝が行った記録があるが、一矢はまだ一四歳だ。
「一矢さま……」
「二映や三叉にさきに言えば、反対するだろうと思った。そなたに……」
一矢は頬を赤らめ、ふたたびうつむいた。
「さきに言いたかった。実際的なそなたであれば、理解するだろうと思ったからだ」
四詩は眉根を寄せた。
「理解はできますが、納得はできません」
一矢は顔を曇らせる。
「……一矢さまは、おひとりでなんでも決めようとなさる。……」
四詩は一矢をじっと見返し、しばらく考えた。
藤世のことが頭をよぎる。彼女に会うには、あと百日は優にかかるだろう。
「……わたしも行に参加します。わたしひとりのほうが民の不安は少ないと思いますが」
「そんなことはさせられない!」
血相を変えた一矢に、四詩は穏やかに言った。
「……一矢さまは、一度お決めになられたことを翻されたことはありませぬゆえ、説得は諦めております。ですから、わたしも参ります」
「――四詩!」
「ふたりであれば、聖山で御身が凍る可能性は低くなりましょう」
「しかし」
四詩は微笑んだ。
「一番におこころをお知らせくださいましたこと、感謝いたします。この役立たずの四の巫祝にも、お役目をくださり、御身に報いらせてくださいませ」
一矢は顔を真っ赤にし、ふるふるとちいさく震え始めた。
「……一矢さま?」
一矢はぐいと顔を逸らせた。
「なんでもない!」
がたんと立ち上がる。
「……早く、二映と三叉に伝えねば」
「……はい。わたしも説得に加わりたく存じます」
そうして、ふたりは部屋を出た。
二映と三叉は予想通り、猛反対した。そこで四詩は聖山の地図を取り出し、ふたりに示して、雪のなかを安全に行をする過程を説明した。いつ堂を出て、いつ休憩をするのか。塊にした茶葉とバター、ヤクの糞と棗の実だけを持って歩いた場合、自分は以前聖山を巡礼した際、一周に何日かかったか。自分より幼い一矢の場合はどうなるのか。
二映と三叉は、冷静な口振りの四詩をじっと見つめると、とうとう是と言った。
深更、神殿の最奥に集った四人の巫祝は、祭壇に香を捧げて祈ったあと、翌早朝には臣下たちに通達をすることを決め、それぞれの私室に戻った。
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