山嶺へ(二)

 夜を徹して経典が詠唱されている、その低い響きを遠くに聞きながら、四詩はひたひたと回廊を歩いていた。木戸の向こうで雪嵐が荒れ狂っている。

 神殿の奥へ奥へと進み、絨毯をめくり上げて、その下に隠されていた入口から、ちいさな石の階段を下りてゆく。獣脂のランプをかざし、錆びた閂を外して、ある部屋にからだを滑り込ませる。

 ――あった。

 以前見た夢と同じ経路をたどり、箱の前に着く。

 ギッときしんだ音を立て、蓋を開ける。

 夢では藤世が震えながらしゃがんでいた場所に、彼女のすがたは無論なく、その代わり、古びた羊毛の布が敷かれている。

 四詩はランプをそばの長櫃の上に置くと、その灯りを頼りに布を剥いでいった。

「……これは……」

 四詩は、おそるおそる手を伸ばした。藤世につながるなにか、天華の魔を祓うなにかを探していた四詩は、驚きに手が震えるのを感じる。

 指先に触れる、かすかな感触は雪片のように儚い。すくい上げて、ランプの光にかざすと、ほんのわずかなすきま風に、その布はふわりと膨らんだ。

 虫の翅のような、淡い光が生まれる。

 空気のなかをたゆたう繊維は、ゆったりと波打つ間に、真珠母のように遊色ゆうしょくする。沙漠に立つ陽炎、銅を燃やす一瞬の火群ほむら、夏の水辺に現われるかわせみの閃き――……

 またたく間にさまざまな色に変異する極薄の布に、四詩は見とれた。

 布が、元通り箱におさまると、糸は生成りの色になった。なめらかな光沢は絹のもので、糸は限りなく細い。蚕が吐いたそのままの細さのように見える。

 四詩は布をもう一度持ち上げ、目を凝らす。淡い色合いの変化のなかに、確かに紋様が織り込まれている。

 菱形と、扇状の紋様の連続。

 菱形は、古くから剣の象徴だ。しかし、扇の紋様を、四詩はいままで見たことがない。

 どういう意味なんだろう……?

 布は、肩掛けに使われるのと同じような長方形の寸法で、端をたぐり寄せると、別の紋様が現われた。

 三日月をふたつ並べたような紋様――……

 藤世の衣服に、織り込まれているのを見たことがある。

 少女に紋様の意味を尋ねると、夢のなかで彼女は言った。

 たいせつなひとに、再会できることを願う紋様……

 どくん、と四詩の心臓が鳴った。

 この布は。

 藤世の島――しろたえの島からもたらされたものだ。

 その確信で、ふたたび手が震える。

 もう一度、光に布をかざす。

 剣。扇。燕。

 「再会」するために――剣が必要……なのだろうか。

 もっとも古い矢継ぎの錦には、意味不明な記述がたびたび出てくる。

『剣が失われた』

『失ってはならないものが失われた』

『探す術がない』

 嘆きと悲しみだけが横溢する布帛もある。その要因である剣とはなにか、記述のある布帛はない。

 その時代には自明であって、布帛に残す必要もなかった常識が、いまに残されていないのだ。

 加えて、「再会」とは、だれとだれが再会するのか?

 自分と藤世、と考えて無意識に首を振る。この布は、雪獅子が代替わりする時期――四百年以上前に織られたもの。なぜなら、この四百年のあいだ、いつくしの嶺はしろたえの島と交渉を持っていないのだ。交渉を持っていない地の紋様を織り出すことは考えにくい。

 であるなら、自分も藤世も生まれてもいない時代に、再会を願ったふたり――

 同時期に、失われた「剣」――……

 四詩には、布を読み解く手がかりがない。

 夢で、もう一度藤世に会えたら――彼女が、答えを教えてくれるだろうか。あるいは、現し世で出会えたら。生身の彼女を、この地で抱きしめられたら――……

 先日の夢で、竪機で絨毯を織る夢で起きたことを思い出して、四詩は全身が熱くなるのを感じた。いてもたってもいられなくなり、狭い室内をぐるぐると歩き回る。

 旅をして、彼女はここに来ると言った。そうだ、織物に詳しい彼女なら、なにか解決方法を示してくれるはずだ。島で使われる紋様が織り出された布に関して、四詩よりも彼女のほうが答えに近い。

 四詩は箱のもとに戻ると、そっと淡雪のような布をすくい上げた。近くに放り出していた羊毛の布でそれをくるみ、箱を閉めて歩き出す。

 寝室に向かいながら、布を抱き締める。

 早く、夢のなかで彼女に会いたい。



 ところが、それから幾日経っても、夢路に藤世は現れなかった。

 四詩は次第にこころが暗くなるのを感じる。

 それまで頻繁に現れていたのに、現し世で逢うことを約束した夜以降、藤世は現れない。

 毎朝目ざめてから胸が痛む。

 彼女は臨泉都にいたはずだから、そこから旅をすると考えても、あと数ヶ月はかかる。自分は神殿の巫祝であるとは伝えてあるから、この神殿に迷わずたどり着けるだろうとは思うが、あいだには途方もない旅路がある。雪嵐のなか、常春の島の少女が、たったひとりで山嶺の奥にたどり着くことなど、できるのだろうか。もし途中で怪我や病気をしたら。盗賊や暴漢に行き会ったら――……

 巫祝としての暮らしを放り出して、いますぐ街道に迎えに行きたいと思う。しかし、行き違えば藤世は不安に思うだろう。

 彼女に、ここにたどり着くまでの情報は手渡したのだ。あとは、待つしかない。

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