古くからのベンズの村人

 “クライスラー”の名ほど、俺たちの地元で目まぐるしく変わってきたものもない。

 今ではディアゴスティーノ・クライスラーのクライスラー、このクライスラーを聞いた日には、何かが街で動く時だ。下手すればヘルメスで動くビジネスすべてにこの名前が絡んでる可能性があるし、借用書を十枚集めたら一枚はクライスラーのサインがあるかもしれないってジョークが飛ぶくらいさ。

 そしてひと世代前はメルセデス・クライスラーのクライスラー。まぁ、この場合は、“メルセデス”の名前が大きいんだがな。たとえ地元で問題が起きても、彼女が出てくれば皆安心したもんさ。彼女は生まれた時からの肝っ玉母さんみたいな女だったからな。民家が火事になって大人だって手をこまねいてた時に、少女だったメルセデスがひとりで家に飛び込んで赤ん坊をふたり救い出した時なんか、大の大人数人が彼女にひざまずいたもんさ。本人だって顔に火傷を負ってたってにもかかわらず、助け出した赤ん坊の呼吸が浅いことを心配していた。それ以来、誰もが彼女を尊敬していたよ。これは女としての魅力とかじゃあなくて、人としてのそれだろうな。ある種、聖人を見るような感覚にも近かったかもしれない。俺たちには損得勘定や法の縛りで動いてるんじゃなくて、生まれながらに善い行いをしようとする心を持っている、メルセデスは周りにそう信じさせてくれる女だった。そんな彼女だったから、彼女の前でよそ者が顔の火傷の跡をからかったジョークを言っちまった時には、村の男たちに袋叩きにあう騒ぎだってあったくらいだ。

 けれど、あくまでこの二世代でイメージが良くなったようなもんで、それ以前にはこの名前はまったく別の意味を持っていた。

 三世代前、俺たちはよく口にしたもんさ、「クライスラーだ」ってね。……眉間にしわを寄せて。

 クライスラー、特にクライスラーの男たちは厄介ごとのタネだった。今とまるで真逆さ、地元で何かが起これば、まずクライスラーを疑った。事実、大半がそうだった。盗み、暴力沙汰、強姦、果ては殺しでさえも。だから、クライスラーの血筋は刑務所と家を往復する。奴らにとって、刑務所行きは文字通りの“お務め”だ。

 どこで間違っちまったんだろうね。何年も脈々と続いていた赤の他人同士の交配、それがある時変な混じり方をして、あのクライスラーが生まれたんだろう。あの短気で強欲な血筋が。ぞろ目が三回続けて出ることがあるみたいな感じでさ。奴ら自身も言ってたよ「俺たちの血に火をつけたら火薬代わりになるぜ」ってな。まったく笑えねぇよな。

 ただ、違う見方をするなら、そういう奴らだからこそ世の中には成し遂げられることもある。ディエゴのひい爺さんはヘルメスの若い領主と厄介な旅をして手柄を立てたり、大叔父は戦争で活躍してフェルプールの名前をちったぁ有名にしたこともあるからな。そういう側面で言うなら、由緒正しき血統ってわけだ。だがそれくらいのもんさ。それ以外は、本当に言い方は悪いが、クソッタレな奴らだった。

 特にディエゴの親父は酷かった。他の奴らはまだ常識人なんだ。いや、常識人っても俺たちが理解できる範囲でって意味でな。だがディエゴの親父、もう奴の名前も呼びたくないが、あいつはクライスラーの中でも特に変わっていた。他の奴らは目的があって悪事を働く。欲しいものがあるから盗むし、気に食わないやつがいるから暴力を振るう。けれど、あの男は無軌道そのものを楽しんでるんだ。

 こういう話がある。ある日、ディエゴの親父が仲間と賭けをしたそうだ。街で昔は高級娼婦だったっていう噂がある物乞いの老婆に、いくら出せばっつうな。あいつは老婆に10ジルを出してOKをもらったらしい。はした金を集めるためにそんなことをやるだけでも十分イカレてんだが、よりにもよってあいつは老婆と教会のど真ん中でんだよ。ロバみたいなあえぎ声をあげて仲間と大笑いしてたそうな。

 目的? そんなものなんてないさ。あるとしたら、あいつは神なんていないってことを証明したかったのかもな。

 そして実際、俺たちはそう思わざるを得なくなった。

 奴とメルセデスの結婚だ。

 マジで言ったよ、俺の連れは、「もう俺は神様なんて信じないよ……。」ってな。

 あの誰もが尊敬してたメルセデスが、唯一人生で愚かしいことをやったというなら、間違いなくクライスラーの男と結婚したことだろう。きっと彼女は慈悲をこじらせたんだ。

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