運命、未だ交わらず
~8年後~
「お客さん、この街は初めて?」
娼館の一室のベッドの上、長い赤毛の娼婦は事の終わりに男に寄り添いながら囁いた。
隣りの男は煙草に火を点けひと吸いすると、低い声で言った。「ああ……。長いこと国々を回っててね。ここへ流れ着いたのさ……。」
無精ひげがモミアゲまで伸びた栗毛髪の若い男だった。胸板はたくましく、さらにその胸にはびっしりと胸毛が茂っていた。体の所々にある消えない傷が、彼のたどってきた人生を物語っていた。
「まぁ……毎日大変でしょう」
少し演技がかった口調で女が言う。
「なに、流れ流れて生きていくのも悪くないさ」
「へぇ……。羨ましいわ、そういう男の生き方って。女は屋根のないところで生きていくなんて到底無理だもの。縛られて生きるだけよ……。」
男は眉間に皺を寄せ煙草を吹かせてから言う。「そんなことはない。女だって素晴らしいもんさ。そんな男を産むのも女、癒すのも女なんだからな……。」
女は緑色の瞳を潤ませて小さく何かを呟いた。男は微笑んで女の赤毛を撫でる。
「俺には故郷はない。だが還るところはある。それは、旅のゆく先々で出会ってきた女の胸の中さ。女の胸の中は、冷たい荒野を彷徨う俺に、いつも暖かな春を与えてくれる」
「詩人なのね……。」
男と女の情事の終わりの倦怠感漂う空間、そんな部屋の空気を激しく扉が開く音が打ち破った。
「大変だよミラ!」
「ん?」
顔を出したのは青みがかった黒髪の女だった。後ろ髪は腰まで、前髪は鼻先まで届くほどに長かった。
「クレア、どうしたのさやぶからぼうに?」
赤毛の女の口調は一転していた。
「ミラ! 大変! 決闘が始まるよ!」
「マジで!?」
ミラはベッドから跳ね上がり、そして急いで肌着を纏うとクレアに続いて外に飛び出そうとした。
「お、おい君!」
取り残されそうになっている男がミラを呼び止める。
「え、なに? まだ何か用があんの?」
「あ、いや……。」
「着替えたら早く出てってよね、もうとっくに時間過ぎてんだからっ」
ミラは砂時計を指さした。砂はとうに下に落ちきっていた。
「……。」
クレアが垂れ下がった前髪を払うように顔を傾けて言う。「アンタ、またサービスしてあげてたの? もうちょっと客の回転あげなよぉ」
「いやぁリピーターにしたかったんだけどさぁ、このアンチャン流れ者らしくって、とんだ骨折りだったよ~」
唖然としている男に、ミラはじゃあねと手を振って部屋を去っていった。
ミラたちがバルコニーに出ると、そこには同僚の女たちが既に集まっていた。
ミラを見た娼婦が言う。「ちょっとアンタァ、なんて格好してんだい」
ミラは薄い肌着だけを身にまとっているだけだったので、乳房や尻が透けて見えていた。
「いいじゃん、もう夏なんだから。それに見逃しちゃあまずいっと思ってさ。で、誰が誰に決闘を申し込んでるの?」
訊ねられた女が娼館の前の広場を指差す。そこには騎士などではない、農民の老人が立っていた。老人の手には、骨董品屋の物置に置いてあったかのようなみすぼらしい安物の剣が握られ、頭には納屋から引っ張り出したかのような、サイズの合わない兜が被られていた。
驚き、そして呆れたようにミラも老人を指を指して言う。「……あれ?」
「そっ」
「ええ~~」
老人が広場の中心で叫ぶ。
「出てこいサハウェイ! よくも俺を、俺の家族を騙しやがったな!」
老人の叫びを聞いて、老人を取り囲んでいたやじうまのひとりが「よりによってサハウェイかよ」とぼやいた。
「お前のせいで、俺の……俺の娘は死んじまったんだぞ!」
老人に注目していたやじうまたちだったが、背後からの気配を察して一斉に道を譲り、老人を囲む輪がCの字に開いた。
開いた輪の向こうには、屋根のないキャリッジ※に乗ったサハウェイがいた。特注の白いドレスに白いコルセット、肘まである白い手袋を身につけているサハウェイには、かつての娼婦の娘の面影はなかった。白くそびえ立つ、厳めしい、難攻不落の城塞を思わせるものがあった。
(キャリッジ:個人用途で人を運ぶための二頭立ての4輪馬車)
サハウェイが言う。「私をご指名なのかしら? ……高くつくわよ?」
「この、魔女めっ」と、老人がサハウェイをなじる。
「随分ない言い方ね。だいたい、借金の肩代わりに娘さんを売ったのは貴方でしょ?」
「屋敷の奉公人って話のはずだった! それが何で娼館にいたんだ? 何で首くくって死んじまうんだ!?」
サハウェイは哀しげに首を振る。「いくつかの手違いと……娘さんの器量の無さが問題かしらね」
「なんだとう!?」
「奉公先云々は私の知ったことじゃあないわ。そこは仲介人をよく調べなかった貴方の落ち度でしょ? だいたい、娼館に売られて身を立てられない無力な娘のことなんて、どうして私があれこれ気を回してあげなきゃあいけないわけ?」
「き、貴様ぁ! 絶対に許さんぞ!」老人は唾を吐き飛ばしながら腰の剣を抜刀した。生まれてこの方ろくすっぽ剣などを手にしたことのない老人の拙い抜刀は、素人目にも痛々しかった。「俺と戦え! 俺の娘の名誉にかけて! 貴様に地獄に送られたすべての娘たちの名誉にかけて! 貴様を倒してやる!」
バルコニーで見ていたクレアが口笛を吹いて言う。「ひゅうっ、言うじゃんあのおじいちゃん」
「ああ……。」と、隣のミラがうなづく。
確かに、貧者の一燈を思わせる老人の口から放たれた宣言は、痛々しいながらも心を打つものがあった。
「まぁいいわ。貴方の決闘の申し込み、受けてあげる。ただ……当方は女の身ですから、代理人を立てさせてもらうわね」
「代理人……?」
やじうまのひとりが言う。「まさか……。」
「ブラッドリー・ジョーンズ!」と、サハウェイが高らかに声を上げた。
「……ん? う、うわぁ!」
背後に気配を感じたやじうまの一人が振り返りざま叫び声を上げる。群衆が一斉にその方向を見ると、いつの間にか群衆のただ中に、真っ黒な祭服に身を包んだ長身の男が立っていた。
歳は五十代前半、つばの広い真っ黒な帽子の下からは灰色のくせ毛が飛び出ていた。ヒゲも髪の毛同様クセが強く、綿のようにボリュームがあった。タレ目がちなので微笑んでいるようにも見えるが、鋼鉄のような灰色の瞳には一切の暖かみがなかった。初夏だというのに全身を包み込む祭服着ておきながら、男は汗一つかいていない。
やはりやじうまのひとりが呟いた。
「やっぱり“
老人が群衆の中に立つブラッドリーを訝しげに見ながら言う。「神父……様?」
神父・ブラッドリー・ジョーンズは群衆の中からのそりと前に進み出た。
ブラッドリーは地の底から這い出たような、低い声を上げて老人に訊ねる。
「祈りが……必要ですか?」
「な……なんだって?」
「……娘さんの事はお気の毒でした」ブラッドリーはゆっくりと首を振った。「人の身で及ばずながら、私が貴方の望みを叶えて差し上げましょう」
真夏の夜のように暗く湿った声だったが、一方で穏やかで重みがあり、教会での説教に向いている声でもあった。構えていた老人は、思わず心を許しそうになっていた。
「お、俺の望みだと?」
「そうです」ブラッドリーは暖かい顔で微笑んだ。「貴方を娘さんのもとへ送り届けて差し上げます」
しばらく神父の言っている意味が分からず呆けていた老人だったが、すぐにその意味を理解すると、「ふざけるなぁ!」と剣を突き出した。
「それが、それが神父の言うことか!? 女子供を売りさばいてるような奴の味方するたぁ見下げ果てた神父だな!」
「人は……流れる川に泳ぐ魚でしかありません。この世界においてそれがそうあることは、大いなる意志における必然の帰結なのです。不平等が蔓延するのも、娼婦の死が顧みられないことも、貴方の娘さんの死に関しても……。」
「だったら貴様が俺に殺されるのもその必然てわけか!?」
「或いはその逆も……。」
そしてブラッドリーは老人の正面に歩みでた。一見、丸腰のようにも見えた。
二人の間で高まる緊張。既に決闘は始まっていた。
老人は構えて言う。「……武器を持てねぇったって手加減はしないぜ」
「武器……ですか……。」
そう言うと、ブラッドリーが手を広げた。祭服の形状のせいか、ブラッドリーの体が膨らんだように老人には見えた。
すると、いったいどこに隠れていたのか、ブラッドリーの背後から二頭の真っ黒な猟犬が姿を現した。まるで、ブラッドリーの影の中から這い出てきたと言われても信じられそうなくらいに真っ黒で、その出現は突然だった。
「い、犬だと?」
「私の武器ですよ……。私の意のままに動き、獲物の喉を食い破るね……。」
「お、おい、犬ってそんなのありかよ!」
老人は訴えるように周囲を見た。だが、やじうまはもちろんのこと、既に到着していた保安官も顔をそらすばかりだった。
「もし、彼らを倒すか、もしくは攻撃を凌いで私に一太刀を浴びせられるなら、その時はあなたの勝利ですよ……。なにせ、ご覧のとおり丸腰ですから」
「へ……そうかよ。か、かかって来やがれこの犬っころがぁ!」
老人は犬を追っ払うように剣を振り回し始めた。
「おらぁ! この! この!」
しかし、犬は街の野良犬のように逃げ回るようなことはしなかった。唸ることも吠えることもなく、最小限の動きで適切に距離を取り続けていた。、
「くそっ何なんだこの犬ども……。」
老人はまるで自分を襲う意志がないような犬から、ブラッドリーに視線を移す。
「やる気がないってんならいい、だったら飼い主を殺っちまえばいいってことか!」
老人は剣を振り上げて、犬ではなくブラッドリーの方へ挑みかかった。
ブラッドリーに迫る老人。するとブラッドリーが下唇を小さく噛み、人間の耳ではほとんど聞き取れないほどの小さな口笛を吹いた。老人はそれに気づかず、ブラッドリーとの距離を狭め続ける。
突然、老人の腕が強い力で引っ張られた。
「な、なんだ?」
老人は驚いて引下げられた腕を見る。腕が下がったのは、黒犬が彼の手首を噛んでいたからだった。あまりにも気配がなく、また素早い動きだったので、老人は痛みさえ未だ感じていなかった。
「う、うぐぉ! 離せこの!」
老人は腕を振り回そうとするが、犬の噛む力と振り回す力が予想以上で、逆に老人の腕は振り回されてしまった。
「ぎ、ぎゃぁ!」
ようやく骨が軋まんばかりの痛みが腕を襲い、老人が悲鳴を上げる。
老人は苦痛に顔を歪めながら、剣を持ち替えて犬を攻撃しようと腕を振り上げた。しかし……。
「うわっ!?」
老人は突然地面に倒れた。もう一匹の黒犬が老人の足首に噛みつき、首を振りまわして老人の足をすくったのだ。
「く、くそ!」
老人は仰向けで剣を振り回す。だが、犬は再び器用にそれを避け、剣先はまったくかすりもしない。
「う? うぐあああああああああ!」
自分の上半身を襲っている犬に気を取られていたその隙に、足に噛み付いていた黒犬が老人の足首を砕いていた。
「ひっひぃ! ひぃ!」
老人は泣き叫びながら足元の犬に剣を振るが、今度はその犬に注意を向けた隙に、もう一匹の犬が老人の剣を持つ腕に噛み付いていた。
再び老人が絶叫する。剣を持ち替えようと手を伸ばすと、今度はその手に犬が噛み付いてきた。老人は両手を犬にふさがれていた。
片足を壊され、両腕を封じられ、もう老人からは戦意が失われていた。
「ああ……ああ! や、やめてくれ……もうやめさせてくれ……頼む!」
サハウェイが嘲笑う。「あらあら……娘さんの名誉はどうなるのかしら?」
「た、頼む、助けてくれっ。俺が間違ってたっ。アンタは悪くないっ」
先ほどまで勇ましかった老人の声は、今では憐れみをかけられなければ生きていけない年寄りのものになっていた。
「ほんっと、男って勝手よね……。手前の都合で娘を売って、手前の都合で決闘を挑んで、手前の都合で許しを乞うんだもの」寒々しくも老人を嘲笑うサハウェイの口調は、次第に憎悪に染まっていた。「ジョーンズ、後は任せるわ。貴方の好きにしてちょうだい」
サハウェイが御者に命令すると、馬車は向きを変えて彼女の娼館へと戻っていった。
老人は神父に哀願する。「頼みます神父様ぁ! どうか許してくださいぃ! どうか、どうかご慈悲を! ご慈悲を~~!」
ブラッドリーは哀しげにうなづく。「最初に約束した通り、貴方の魂を救って差し上げますよ……。」
「じゃ、じゃあ……。」
「娘さんと……神の国で幸せにお暮らしなさい」
「そ、そんな……。」
ブラッドリーが再び小さな口笛を吹いた。すると一匹が老人の手から剣を奪い取り、一匹が老人の顔面に噛み付いた。
「ぎゃぁああああああああああ!」
老人の顔面の皮膚が、犬に引っ張られゴムマスクのように伸びていた。
イヌ科の猛獣はネコ科のそれと違い、喉や呼吸器といった獲物の急所を即座に狙うようなことはしない。彼らは群れの仲間との連携で獲物の足の腱や首筋などを狙い、行動力を奪い、弱らせ、逃さないよう、さらに自分たちが怪我をしないよう確実に獲物を仕止める。
そして老人はそんな彼らの習性にならい、刻々と体を破壊され続けていた。
途中までは人間の悲鳴だったが、最後には老人の悲鳴は獣の鳴き声と区別がつかないほどに歪なものに変わっていた。
「ご覧なさい! この愚かな老人の末路を!」泣き喚く老人を見ながらブラッドリーが叫ぶ。「
「まったく、見てらんないよ……。」
バルコニーにいたミラは、苦々しく首を振りながら室内に戻っていった。
「女の経営者が出てきたから、この街もちったぁ変わるかと思ってたけど……前より酷くなってんじゃん」と言いながら、クレアもミラの後についていった。
サハウェイがヒョードルの娼館を乗っ取ってから四年が過ぎていた。彼女はやり手の娼館の主として勢力を拡大しつつあり、それは娼館だけにとどまらなかった。飲食店や雑貨店を買収し、地域の保安官を懐柔し、イリアの街に神父を呼び寄せ教会を建設し始めた。彼女はこの自治区の住民の下半身だけではなく、胃袋や心臓をも支配しようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます