ビフォア・ファントム㉘鬱屈した場所
接客が終え控え室に戻ると、娼婦たちは出払っていた。全く人がいないというのは珍しい。どうにも悪い予感のするクロウは、裏庭の方が慌ただしいのに気づいた。
建物を出て複数人の声のする裏庭に回ると、後ろから「ちょっとどいて!」とメグが男を連れて走っていった。
二人が向かった先には既に娼婦たちが何かを囲んでいた。皆一様に、困惑した表情を浮かべている。
クロウが人だかりの一番後ろにいたシーナに訊く。「何があったの?」
だが、シーナはクロウを見たまま何も応えない。
人だかりの中心を覗くと、そこにはホビットのルーシーが、地面に広げられたシーツの上で身をよじりながら苦しんでいた。
「え……彼女どうしたの?」
シーナが言う。「分かんないよ……。ただ、お客とやってる最中に突然こうなったんだって……。」
ルーシーの検診している医者は、暴れるを彼女を他の娼婦に手伝ってもらい何とか押さえつけ、彼女の股間をしばらく見てから年長者とみられるアリアを渋い顔で睨んだ。
「もしかして……ホビットに人間の相手をさせたのか?」
「え? いや……わたしはよく知らないんだけど。……バリー!」
「はい? 僕ですかっ? いや、僕はさっきまでジェイティさんの接待を……。」
アリアがうろたえながら言う。「あ~でも、彼女は結構丈夫で、これまで何度も……。」
「もう結構っ」
うんざりした医者は、助手にルーシーを運ぶように指示し始めた。すると、
「どうした、何の騒ぎだ?」と、人だかりを割って入るようにカールスが現れた。
「このホビット、膣内にひどい裂傷を起こしてる。下手したら子宮にも傷があるかも。今すぐワシの診療所に連れて行って手当しなければならん」
「ここじゃできんのか?」
興奮を抑えながら医者が言う。「道具が足りないっ」
カールスはくそっと舌打ちをすると、バリーの名を呼んだ。
「はい、僕がついていきます」
「経過を知らせろ。どれくらいで戻れるかも併せてな」
堰を切ったように医者がカールスに詰め寄った。「戻れる? 冗談じゃないっ。アンタねぇ、ホビットに人間の相手なんてやらせてたんだろ? 無茶だ、この娘に二度と客などつけんでくれっ」
医者とカールスは同い年だというのに、対面すると体格から何まで違って見えた。自ずと医者が気圧されたようになる。
「仕方あるまい。小さい女が好きだって客がいるんだからな。需要は常に満たさんと」
「この娘はもう無理だ……。」
「それは俺が決める」
「早く連れてってよ! 一刻を争うんじゃないの!?」
激しい剣幕の二人に割って入るようにクロウが叫んだ。
カールスが何ぃ? とクロウを睨む。医者はその合間にルーシーを担架に乗せ助手と彼女を運び出していった。
クロウは悶絶しながら運ばれているルーシーを見た。こうして寝そべっている彼女を改めて見ると、その体の大きさは人間の子供と変わらない。そんな彼女が一日に何人も客を取らされていたという事実、そしてそれを見て見ぬふりをしていた、カールスを含めここの人々すべてに嫌気がさし始めていた。
しかし、そうはいってもここからどうやって出て行けばいいのか。下手をすれば足の指を切られることだってある。カールスにしてみれば、商品は使うことができれば状態はどうたっていいのだ。クロウは闇雲に拳を握り歯噛みをしていた。
「ちょっとクロウ、アンタ私の彼に色目使ったでしょ」
「彼? ……貴方の故郷の?」
「とぼけないでっ」
ルーシーが一命を取り留めたという知らせが娼館に届き、皆が一安心していた、冬が本格的に到来し娼館の周囲の木々が葉を落とし終わった頃、開店前に控え室の掃除していたクロウは突然シーナに不機嫌に話しかけられた。クロウなりに真面目に答えたのだが、それがシーナのカンに触ったようだった。
「とぼけるも何も……。」
「ゴールドバーグさんに聞いたわよっ」
「ゴールド……バーグ?」
ソファに座るマルベリーが、独特の香りのする
「どの男よ」
娼館の女がいちいち客のことなど覚えているわけもない。ましてや一週間前となればなおさらだ。
「青い髪のぉ、眼鏡かけた若いおにいさん」
「え? あ、あ~。何かいたわね」
クロウはシーナの代わりということで若い男を接客させられたことを思い出した。とっとと店を回転させたかったアリアから、その男の相手をさせられたのだ。しかしその男は、女を買ったにもかかわらず服を脱がさずクロウと延々と話しをするばかりだった。稀に女の体ではなくキャバレーのように会話だけを希望して、触ってきたとしてもやはり服の上からの愛撫ていどにとどめるような客もいるにはいた。とはいえ、記憶に薄いといえばそうなのだが。
「“何か”じゃないよっ」
「でも本当にそれぐらいしか覚えてないんだけど?」
「どうだろうねっ。あの人はアンタのことしっかり覚えてたみたいだけど?」
「へぇ、何でだろ?」
「しらばっくれないでよ。アタイが接客できなかった隙に仲良くしてたみたいじゃないのさ」
「お金を払ってもらった以上、接客に上下なんてないわ。彼は仲良くして欲しかった。私はそれに応えた、それだけよ」
「彼と本の話で盛り上がってたんですってね。ご執着だったわよ、あのアト……アト何とか……。」
「アトラディウスね」
それは基本的なスペルはあらかた覚えたクロウが、語彙を増やすために挑戦ついでに読み始めた古典の戯曲だった。そのゴールドバーグという男が気取った言い回しをした時に、クロウがそれをアトラディウスの引用だと指摘したのを彼は驚きと喜びを持って反応したのだ。
「それよっ。どうして彼のお気に入りの作家を知ってたわけ?」
「偶然よ。そこの本棚にあるわ」と、クロウは後ろにある本棚を指差した。
「へぇ、クロウも油断ならないわねぇ」と、マルベリーが高みの見物を決め込むように、いつもの白痴めいた笑いを浮かべながら茶々を入れる。
「やめてよ、マルベリー。あの人から何聞いたか知らないけれど、私はただ接客してただけ。体を使わなかったのはラッキーだったって印象しかないわ」
「あたりまえじゃないのさっ。彼はそんな人じゃないよ」
「そんな人じゃないって……。」
いったい、娼館に女を買いに来る人間に上等も下等もあるものだろうか。クロウは恋で正常な判断を失ったシーナに面倒くささを覚え始めた。
「分かったわよ。貴方の良い人の心を乱してごめんなさいね、
「そのスカした言い方やめてくれない?」
シーナの声が、ガラスの破片のように尖った。
「気をつけなよ、猫ってのは油断ならないんだからね。目を離したスキに獲物を掠め取られちゃうよ」
遠巻きに二人を見ていたエミリオが艶やかかつ陰険な口調で参戦した。異性との恋を経験する前に男の悦ばせ方を覚えた少年の蠱惑的な笑顔、男の急所を正確に這い回る赤い舌がちらりと白い歯の隙間からのぞいていた。その趣味がない男でさえ、いくらかの劣情をそそられそうな笑顔だった。
だが、彼に向けられたクロウの目は猫のように細くなり、手にしていた
「……ぅぐっ」
「お口が過ぎるわよ……。ひとつじゃ足りないなら体に穴ぁもうひとつ増やしてあげましょうか? 接客には便利かもね」
喉に柄を突きつけられたエミリオはもちろん、周りの女たちもどういう体動でクロウが動いたのか全くわからなかった。僅かな動作で大きく動き、気づいたときにはエミリオとの距離が詰まっていた。
クロウはエミリオの喉元に柄を突きつけたまま周囲を見渡した。「くだらないおしゃべりはうんざり。暇を持て余してるからってからって痴話喧嘩を楽しむ貴女たちにも、男一人に自分の未来を託すしかない貴女にもね」
女たちが呆気にとられていると、控え室の扉を慌ただしくバリーが開いた。
そして往々にして、彼がこのように入室してくる時にはロクなことが起こらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます