ビフォア・ファントム㉔風の子守唄

「クソッタレが、無茶苦茶やりやがって」

 クロウは接客が終わった後、娼館の裏にある井戸で体を洗い流していた。背中には引っ掻いたような鞭の跡が残り、その熱さにも似た痛みを癒すために何度も体に冷水を浴びせる。

「まったく、何が教師よ……。」

 先程までクロウが相手をしていた客は、自分がいかに教師として周囲の尊敬を集めているか、どれほど妻子を大事にしているかを語りながら彼女の膣に張り型を挿入していた。そういう行為に劣情を催すタイプの男だったらしい。


 娼館に来る男はなにも独り身の労働者ばかりではなかった。妻子持ちの人間も足繁く来訪しており、そういう男は却ってタチの悪いもので、とうてい家では妻にできないようなことを娼婦たちに要求する場合も多々あった。時に乱暴に、時に口汚く罵り、家では良き夫であり良き父であり、仕事先では良き同僚である男が、その仮面の下で日々蓄積していた毒素を一気に娼婦に吐き出すのである。精液のみならず、その鬱憤をも処理させられる娼婦を男たちはそのためにこそ存在しているのだとすら見なしていた。

 故に戦後に法整備が整い始めた後でも、特に21区のような場所では、娼婦への軽視蔑視は必要悪ということで、法の外の存在としてしばらく無視され続けていたのである。何より、多くの女性と姦通していた転生者の存在が法の整備を遅らせてもいた。法を厳重にするということは、法の価値観に基づきやがては彼の行いを否定する者が現れるであろうことが予想されたからだ。転生者の恩恵に預かっていた戦勝国は、戦後に統治の正当性を失う事を恐れ、彼を否定する言説を黙殺し封殺していたのである。


「クロウさん軟膏持ってきました」と、バリーが水浴びをしているクロウのもとへやって来た。「うわぁ酷いなこれは……。」

 クロウは自分がやらせたんだろうと言いたかったが、それよりも痛みを沈めて欲しかったので、「早く塗って」と背中を伸ばした。

 バリーが軟膏の瓶を開け、指では間に合わないので手のひらに軟膏を乗せてクロウの背中に触れた。クロウが軟膏の冷たさと痛さで声を上げるが、同時にバリーも息を飲んだ。

 ――熱い

 バリーが女の体に触れるのは初めてではなかった。これまでも娼婦たちの看病をする時などに幾度も触れてきた。だが、今触れている女の体は今でとは何かが違った。触れただけで流れ込んでくる感覚の多さ、ただ体温が高いのではない、熱く、厚みがあり、さらには重さがあった。

「ちょっと、なに興奮してるの? さっさと塗ってよ」

「ああっ、ごめんなさいっ」

 熱さはまだしも、厚さと重みがなぜ手を通して伝わったのか。バリーは戸惑うが、だがその感覚は一瞬のもので、再度触った時には他の女と同じ程度の触感だった。

「……クロウさん。すいませんでした」

「謝るくらいならやらせないでよ」

「僕だってこんなことやらせたくないんです。接客が終わるたびに苦しみを抑えてる皆さんを見るのも心が痛みます。でも……カールスさんには逆らえませんから」

「……貴方、そうやって一生カールスの顔色みながら生きてくわけ? それでいいつかアイツに成り代わるつもり?」

「カールスさんは僕のことを跡取りになんて考えてませんよ。信頼さえしていないから、何も権限を与えてくれない。あの人の家族は猟犬だけです」

「ああ、そうみたいね」

「……一応僕も少しですが賃金は貰ってます。いつかそれが十分に貯まったら故郷に帰ろうと思ってるんです」

「売られたんでしょ? 帰るところあるの?」

「故郷は故郷ですからね、折に触れふと思い出すんですよ。だから、例え僕を必要としなくてもいつかはあそこに戻ろうって」

「へぇ、いいところなの?」

「どこにでもある農村なんですけどね、麦畑がすごいんですよ。収穫時になると、辺り一面黄金の海みたいになるんです。風さえも金色に染まってる感じで」

 クロウがクスリと笑う。「詩人なのね。きっと素敵なんでしょうねぇ。その金色の風の吹く場所とかで、一日ずっとたたずんでるだけでどんな悲しみも忘れてしまうかも」

 クロウにそう言われ、バリーの声も少し弾み始めた。「クロウさんにも見せてあげたいなぁ。いつか一緒に行きましょうよ」

「……もしかして誘ってる?」

 クロウの背中に添えられた手が戸惑っていた。「あ、いや……その」

「そうね、すべてが帳消しになるようなことがあって、そしてここから逃げ出せたら、その時は私の手を引いてよ」

「……はい」

「期待しないで待ってるわ」

 期待しないで、ね。クロウはそう小声で繰り返した。


 傷の手当を終えたクロウはバリーとの約束通り、その日はもう客はつけないことになった。とはいえ掃除洗濯などの雑用は例外で、クロウは開店の下準備のため掃除のために各部屋を回っていた。

 娼館に来た初日に、エレナからシーツは特に汚れていなければ洗濯の必要はないと言われていたが、敏感なクロウの鼻にはどれもこれも汚れているように思えたので、シーツをまとめて井戸へ持っていく。井戸に向かっていると、秋風に乗って心地の良い音がクロウの耳を撫でた。

 音の正体は有翼人の少女だった。井戸の前で、エレナが歌を歌いながら洗濯をしていたのだ。だが彼女が口にしているそれは言葉ではなく、規則性のない鳴き声のようでもあり、歌というよりは声を楽器にして音楽を奏でているようだった。

「いい歌ね」

 クロウが声をかける。エレナは返事をせずに、歌ったままでクロウの方に振り向いた。そしてそのまま余韻を残し、ゆっくりとフェードアウトするように歌を終え改めて「……クロウ」と返事をする。

「貴女たちのフォルクソング?」

「ううん。今の気持ちを歌ってたの」

「へぇ……て、どういう気持ちなの?」

 エレナはゆったりと微笑む。「どういう気持ちだろうねぇ。分からないから歌にしてた気がする」

「そっか……。」


 クロウはエレナの横に立ち井戸から水を組み上げ洗濯を始め、そしてエレナも裾の短いパンツから伸びる足を器用に使って、タライの中の下着を洗い始めた。あしゆびを手のようにして洗濯板に布を擦りつけ、そして手で絞るように両足を使ってそれを絞る。

「……器用なものね」

「こればっかりやってるからねぇ。クロウも手際がいいよね」

「こればっかりやらされてたからね」

 

 山のような洗濯物を洗い終わり、次にそれを支え棒に張ったロープに干す。裏庭一面に広がる白いシーツと下着が、秋風に音を立ててなびいていた。秋口にしては強い日差しと程よい強さの乾いた風で、開店前には洗濯物は乾きそうだ。

「あ~疲れたっ」

 クロウは肩を回しながら裏庭に一本だけ生えている大きな木に向かい、木陰で体を休め始めた。無情な男に抱かれた後に寄り添う大木は、体温がないにもかかわらず、クロウの体にはずっと柔く暖かいものに感じられた。一陣の風が彼女の頬を撫で、その風に応えるように猫耳をピピッと数回動かす。

「お疲れぇ」と、エレナもクロウの横に寄り添って木陰に座った。

 目を閉じて体を包容してくる風を感じながらクロウが呟く。「……ねぇ、さっきの歌また歌ってよ」

「え~、でもあの時の気持ちだったからねぇ。今歌うと、別の歌になるかも」

「それでもいいよ」

 エレナもクロウのように薄らと目を閉じた。まるでオーケストラの演奏者が周囲の楽器にあわせるように風の音を感じ、そしてその静寂の交響曲の中で、自分の担当するパートが始まったように歌い始めた。

 その歌はさっきとは違ったものの、やはり耳を優しく慰めるような心地良い音だった。秋風に乗ってクロウの体を包み込み、そしてやがて彼女を浅い眠りにいざなった。エレナは自分に寄りかかってきたクロウから体を退かすことはせずに、クロウの体を自分の翼で覆い、風に舞う埃や日差しが彼女の眠りを邪魔しないようにする。さっきの接客で、どれほど彼女の心と体が傷ついたか、悠々としたエレナでも何となくは気づいていた。


 まどろみの中でクロウは夢を見ていた。それは、幼き日に母が自分に子守唄を歌ってくれている夢だった。彼女の人生の一ページにそんなものはなかったにもかかわらず、その光景はどんな母との思い出よりも彼女にくっきりと確かなものとして思い出されていた。

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