世慣れた男
私の一瞬の抜刀で、モロゾフどころか周囲の人間の空気も冷えて固まる。
「動くなと言っているだろう。カードにかけた指も、一切動かすな」
モロゾフの親指は、カードの束の真ん中を分けるように割って入っている。
「おいおい、テメェ何すんだっ」と、最初に絡んできた酔っぱらいが言う。
私は鼻で
「……これ、半分ばかりに絵札とワイルドカードがぎっしり揃っているな?」
「それが何だよ、偶然だろ?」
「偶然ときたかい。そこまでウブじゃないぞ。お前さん、高速でシャッフルするふりをして下半分と上半分を分けていたな? そしてその後のリフルシャッフルで、交互に自分のところに絵札とワイルドカードが来るようにしてな」
「言いがかりだ!」酔っぱらいは酔いがさめたように声を張り上げる。いや、元々そんなに酷く寄っていなかったのかもしれない。
「だいたい、そっちが用意したカードをそっちがシャッフルするってのもおかしな話だ。最初から
「何だとっ」
私たちを取り囲んでいるのは全員が単なる町人でズブの素人、持っていたとしても短刀といったところか。二呼吸で全員斬れる。だがそうはいっても、ヘルメス侯の膝下で厄介事を起こすわけにはいかない。
「随分と威勢がいいが、これは違法賭博じゃあないのかね?」
「チクろうってのか? やってみやがれっ」
「ほう、口裏を合わせるつもりかい? だがね、丸耳とトンガリ耳、どちらを役人は信用するかな?」
私の脅しにためらう男たち。すると、両者の間にロランが金貨の詰まった
「まぁまぁ皆さん、せっかく楽しく飲んでるのに険悪なのはやめましょう。クロウもだよ、剣をしまってくれ。ねぇおにいさん、白けさせてすみませんでした。ぼくからの景気づけに、ここにある金貨すべて使ってもう一勝負と行きませんか? 貴方がたは、ポーカーで使った全額を支払っていただくだけで十分です」
「ロラン……。」
騙し取られた分もこれから賭ける分も、彼にとってははした金なのだが、それにしても随分と余裕のある振る舞いだ。好意を向けられるのが当然で、そしてその好意の糸の束を手繰り寄せているかのような。
「おお、いいぜ。でもよぉ何で勝負するってんだ? カードはアンタのツレがヒステリックを起こしちまう」かつての酔っぱらいが言う。
「五本指で帰りたかったら口をつぐむことだ、お兄さん」私は刀の鞘を指で優しく撫でた。
「何だとぉ?」
「もうクロウ。じゃあ簡単なのにしましょう。そうですねぇ……。」ロランは店内を見渡した。何かを見つけると顔をテーブルの真ん中に寄せ、「じゃあこうしましょう」と、悪巧みをする子供のような顔をした。
「あのピアノを弾いている男性、彼にこれからぼくがこの火酒を口に含んで吹きかけます。で、そんなことをされた彼は、その後一体どういう行動に出るかを賭けませんか?」
私を含め、皆が皆、訳のわからない顔をする。
「そんなの決まってんじゃねぇか。アンタ知らないだろうがね、奴はピアノなんか弾いちゃあいるが、ああ見えて血の気が多いんだ。そんなことやったら、その綺麗な顔が煮崩れたカボチャみてぇになっちまうぞ?」
「じゃあ、ぼくは酒を吹きかけた後に彼と上機嫌に握手をする、ということに賭けます」
「ばかなっ」男たちの一人が誰ともなく言った。
「どうです? 乗りますか?」
「当たり前だ、そんなの卵を床に落としたらどうなるかってくらい目に見えてらぁ」
ロランは自信ありげに火酒を持ってピアニストの所へ行き、彼の前に立った。ロランは男に何かを伝えた後、火酒を口に含むとグラスをピアニストに渡し、数歩後ろ下がってから男に口に含んだ酒を吹き出した。
「あちゃ~」と、酔っぱらいが言う。私も何を馬鹿なことをやっているんだと呆れてロランを見た。
だが、酒を浴びたピアニストは上機嫌に笑って首を振り、それどころかロランと握手を交わし、そして指をさして何かを念押しした。隣の女も大笑いをしている。
呆気にとられる私たち。
ロランが戻ってテーブルにつくと、男たちは口々に信じられんと呟いた。
「では、約束通り……。」ロランはそう言って、悠々とテーブルの上の金を総取りした。
男たちは何が起こったんだ、と訳も分からず顔を見合わせる。一体どうしたんだ? と問いかけられる前にロランが立ち上がった。
「店主、今日はぼくのおごりです! ここに来ているお客さんのお代は全てぼくが持ちますよ!」
ロランが戦利品を掲げながらそう声を上げると、男たちは賭けの負けも忘れて色めきだった。
「いったいどうやったんだ?」騒いで飲み始めた男たちをよそに、私はロランに小声で話しかける。
ロランも私に顔を近づけて言う。「簡単だよ。ピアニストとも賭けをしたんだ。ぼくが三歩下がった距離から一滴も零さず口に含んだ火酒をグラスに戻せるかどうかっていうね。出来なかったら20ギルを支払うって約束だった。さて、彼には支払わないとね。ぼくの負けだから」
そう言ってロランはピアノストのところへ負け分を支払いにいく。そんな彼を見ながら、私は体中ムズ痒い笑いが起こるのを抑えて火酒を飲んだ。
盛り上がってきたせいで、ただでさえ店内の騒がしい臭いがよりキツくなってきていた。私は煙草を吸うために一旦外に出ていった。そして店内に戻ると、ロランの周りを男たちが囲んでいた。
「……そしてゴブリンはこう言って飛び込むんです。『止めをさしに行くぜ!』とねっ」
男たちはロランの話を聞き終わったあと、コイツァ傑作だ! 口々に言い合い上機嫌にロランの肩を叩く。いつの間にか彼は好意の束を自在に操り、輪の中心になっていた。
私がロランの隣に座ると、さっきの酔っぱらいが「ネェちゃん、アンタのツレ、見直したぜ。エルフっていやぁお高くとまったいけ好かねぇ連中ばかりと思ってたがねぇ。エルフってのはアンちゃんみたいに愉快なやつらばかりなのかい?」と私に話しかける。
「ぼくは誰とも違うのさ」とロランが言う。
酔っ払いは「言うねぇっ」とまた上機嫌になった。
「人気者だな」と、私が言う。
「気のいい人たちばかりなんだよ」
「そうかい」
「……ところで、あの歌手。あまり乗り気じゃないみたいだね」ロランが、ピアノの方を見て言う。
確かに肌の黒い女の歌は手抜きが酷く、高いキーなどはピアノでごまかして声を出そうともしていない。心はもう帰宅していて、家にいる旦那か子供の心配でもしているのかもしれない。
「そりゃあ、こんなに騒いで誰もちっとも聞いちゃいなんだからな。大体、曲を聴きに来る店でもない」
ロランはしばらく彼女の歌声に耳を澄まし、曲が歌い終わるあたりで酔っぱらいたちをすり抜けながら彼女のもとへと向かった。ロランは彼女に何かを話し、そして先ほど酒を吹きかけたピアニストにも何かを話し始めた。するとピアニストはロランに指示されたようにメロディを奏で始めた。様子の変化から、一部の客がピアノの方に注目し始めた。ロランはピアノのリズムに耳を傾け、用心深くリズムを体に合わせていく。
ロランの美声が、店内に響いた。誰しも自分達のおしゃべりに夢中なはずなのに、それよりも遥かに小さい彼の声は、美しく繊細なクリスタルの針が複雑に
客たちは、水を打ったように静かになりロランを見る。歌っているのは、歌手がさっきまで歌っていた賛美歌だった。入店してからこれまでの時間に覚えてしまったのか、しかしそれは女が歌っていたのに比べ遥かに神秘的な響きがあった。そして、ロランの歌に感化された女は負けじと自分の持ち味を生かすように、ハスキーな声で合わせてくる。さっきまでのやっつけで歌っていた歌手とは思えない美声は歌に深みを与え、さらに二人に合わせるように、ピアニストも体中を揺すって魂をぶつけるように演奏し始めた。カウンターにいた私たちとからんでいた酔っぱらいが、感極まって涙を流している。さらに一人、また一人とつられて客が歌い始め、ついには祝日の教会のような有様になってきた。いや、教会でだってこんなにも熱心に歌われはしない。
ロランが歌い終わると、客たちは
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