第10話 あたしの日常・10
授業が終わると、愁は当たり前のように理央の席まで迎えにきた。人懐っこい性格らしい愁はもうすでにクラスに馴染んでいて、笑顔で挨拶をかわしている。同じ家に帰るのだから、当然といえばそれまでだが、他人と関わり合いにならないように生きてきた理央にとってはとうてい馴染めそうにない雰囲気である。そんな場に居合わせるのだから、必然的に理央にまで視線が集まり、なんとなく居心地の悪さを感じていた。そして今日は、春人も無理やり連れてこられたらしい。彼もまた、居心地悪そうに身を縮めた。
「木戸と一緒にいると目立つな……こういうの、嫌なんだけど」
「ね……。あたしもなんだかすごく疲れる……」
「なんでやねん。みんないいヤツやん。しれっとしとればええんよ」
理央も春人も、そこまで神経は図太くない。クラスメートと自分の間に見えない壁がそびえ立っていることはしっかりと肌で感じる。だからといって、それを愁に伝えたところで返ってくる言葉は聞かずともわかる。とにかく、一刻も早くこの微妙な空気から抜け出したい一心で、理央と春人はいそいそと教室を出た。
今日は、今後の怪異退治について相談しようと持ちかけられ、愁の家へと向かっていた。可もなく不可もなく、古くもなく新しくもない、の愁のアパートは、学校から徒歩10分の距離にある。春人の家はそこからさらに10分ほどの場所にあるらしい。駅とは反対方向のため、春人は自転車通学をしているが、今日はふたりが歩きのため、自転車を押しながら歩いている。
校門を出るとき、バレー部や野球部が練習前の外周をしていたらしく、時折追い越しぎわに「木戸、うちの部活入らない?」と声をかけられていた。中には別のクラスの人もいたようで、転入してきてまだ3日しか経っていないことが嘘のようだ。その後も同じ方向を歩いていた人から曲がり角で「木戸くん、バイバーイ」と手を振られていた。ただそこにいただけの理央と春人なのに、なんだかどっと疲れた気分だ。
「あ、ごめん。先に愁の家に行っててもらってもいい? ちょっと寄りたいところがあって……」
理央はスーパーの前で遠慮がちに立ち止まった。冷蔵庫の中には卵が数個と米しかない。このあと夕食をとることも考えると、買い物をしないという選択肢は必然と消える。
「ん? ああ、買い物か。んじゃ、ハルヒトくん、ちと寄ってもええやろか」
「いいよ。僕も飲み物とか買っていこうかな」
春人はスーパーの脇にある自転車置き場にとめ、入り口で待っていたふたりの元へ駆け寄る。カートに籠をのせ、理央はまず調味料の存在を思い出していた。油や砂糖、塩、しょうゆはあったが、ほかのものは見当たらなかった。武蔵からもらっているお小遣いは、もらってからまだ数日しか経っていなかったため十分にあるが、数日分の食費と考えると心許ない。友人関係を持たない理央がもらったお小遣いに手を付けることはほとんどなく、携帯電話の使用料も武蔵が支払っているため、すべて口座に入れてある。だが、貯金のすべてを使い切るわけにはいかない。理央は申し訳なさそうに愁を見上げた。
「あたし、じーちゃんからお小遣いもらってるんだ。お昼代も考えたら1週間で金欠なんだけど、シュウはいくらくらい食費捻出できる?」
「はぁ!? アホやねぇ! 衣食住、全部俺に任せなさい。それくらいの甲斐性はあるで?」
「いやいや、そこはちゃんとしておこうよ。他人なんだから」
「リオちゃんヒドイ……そないに“他人”て強調せんでもよくないか?」
いや、でも、と渋る理央をなんとか言いくるめ、とりあえず1週間分の食材を選び始めた。そのあたりで理央も気づけばいいものを、春人が怪訝な顔をしていることにまったく気づかず、会計を終えてスーパーを出た。
自転車のハンドルに買い物袋を下げてくれた春人に礼を言い、今度こそ愁のアパートへと向かう。家に着くと、理央は買ってきたばかりのインスタントコーヒーをいれるためにお湯を沸かし、その間に食材を冷蔵庫に詰め込んだ。
「瀬戸くん、コーヒーにミルクとお砂糖、いる? 買い忘れたから牛乳と普通のお砂糖しかないんだけど……」
「ああ、うん、どっちも欲しいかな」
「ごめんね? 今度は用意しておくね」
コーヒーカップなんてものは食器棚に存在せず、しかたなく湯呑にコーヒーをいれてローテーブルに運んだ。部屋の隅に置いてある旅行バッグの中からジーンズとTシャツを取り出し、脱衣所で着替えて戻ってきた理央は、ベッドを背にしてコーヒーを啜る。
「あの、さ。木戸と神楽さんって、付き合ってんの? っていうより、一緒に住んでる?」
コーヒーを盛大に噴き出しそうになった理央にティッシュの箱を手渡しながら、愁は意味深にほほ笑んだ。
「そんなふうに見えはります? わけあって一緒には住んでるけど、リオは俺のことなんかちいとも好きやないで?」
「そ、そうそう、全然、そんなんじゃなくって、えっと……」
「……あぁ、うん。わかった。気にしないことにするね?」
春人は気を遣ったようだが、微妙な空気が流れた。
「あーッ! せや、ハルヒトくんは壊れたモノ直しちゃう時空回避もできるんか?」
「え、あ、うん。シュンリは長けてたみたいだけど僕はどうかな。その規模にもよると思う。ま、やったこともないんだけどね」
「そうかー。でも今までより十分動きやすうなったのは確実やね。食われかかっとる魂魄をなんとかしながら怪異を消滅させるんは、難儀や」
「でも、解放したてとはいえ、神楽さんの祝詞はすごいよ。さすがだよね!」
いくら人付き合いが苦手な理央でもわかる必死のフォローに、だんまりを決め込む。たぶん、愁よりも春人のほうが空気を読めるのだろう。能力者になりたての理央にもわかるよう、空間系能力者について説明を交え、自分がどのレベルまで使えているかを話しはじめた。
瀬戸春人の前世、瞬吏しゅんりは、優秀な空間系能力者として名を馳せていたそうだ。空間系能力者は、能力者対怪異の戦闘時に空間を操って、周りの人間を巻き込まないためにすべての生命の時間を止める。それが“空間封鎖”という術らしい。止めた時間と空間内に限り、能力者以外の人間から死傷者は出ないのだとか。戦闘の際に壊れた建物や抉れた大地は、“時空回避”という術を使って怪異出現前の状態に戻すことができ、空間封鎖を解いたあと、“何もなかった”ことになっているという。聞けば聞くほど、便利で実用的な術師だと理央は思う。
春人自身が自分の能力に気がついたのは中学のころだったらしい。塾からの帰宅途中、隣の家で飼っているブタ猫がノロノロと道路を横断しているのを見かけた。そこへ猛スピードで突っ込んでくる車が見えた瞬間、春人はついブタ猫を助けようと道路へ飛び出してしまった。車のヘッドライトが春人を照らし、死を覚悟したときだった。思っていた衝撃も、急ブレーキの音も聞こえず、ぎゅっと閉じた瞼を恐るおそる開いた春人は、時間が止まっているのを見て茫然としたらしい。こんな奇跡はもうないとばかりにブタ猫を抱きかかえ、歩道に戻った瞬間、今まで停止していた世界が再び動き出した。耳障りな急ブレーキの音と周囲の悲鳴が聞こえたころにはもう、春人はブタ猫と共に茫然と立ち尽くしていて、通行人は皆、不安顔で道路を見ている。青ざめている運転手は車から降りて車の下を覗き込んでいた。このときは本当にただの奇跡だと思っていたが、その日を境に不思議な夢を見るようになった。それと同時期、試験中に消しゴムを落とした瞬間だったり、廊下で誰かとぶつかりそうになったりという、春人がハッとした際に時間が止まることが多くなってきた。
やがて春人は、いつも見る不思議な夢と時間が止まる因果関係に気づいた。それからは短時間ではあったが、意識して時間を止めることができるようになったという。
祝詞以外の能力など持ち合わせていない理央は、自分なりに必死で脳内を整理していた。さらに続く二人の会話をコーヒーを啜りながら耳を傾ける。
春人は夢の中で自分の前世である瞬吏の存在を知り、空間を止める訓練を始めた。ただし、時間を止めるという能力を使うと、異常なほどに体力を消耗する。何度も意識を集中させて訓練を重ね、最初こそは数秒だった停止時間も分単位で使えるようになってきたという。
「神楽さんのこと、少し聞いてもいいかな?」
遠慮がちにそう言われ、理央は小さく頷いた。
「シオンが夢に出てきたことはない?」
「うん。怪異は物心ついたころから視えていたし、そのときはまだ両親とも生きていたけど、“能力者”って言葉は一度も聞いたことがない」
「そっか……。シオンほどの能力者の転生だから、プレッシャーもすごいかと思うけど……あまり卑下して潰れないようにね? 神楽さんの祝詞は十分自信持っていいレベルだと思うよ」
春人の励ましは、理央を落ち込ませることはなかった。もしも本当に理央の祝詞が自信を持ってもいいレベルだとしたら、それは亡き母のおかげだからだ。
母はいつも、風呂上がりに数分間、美しいという形容詞がもっとも似合う空気を纏い、冷水を浴びていた。記憶があやふやなくらい幼いころ、理央はそんな母の姿を見て「さむくないの?」と一度だけ訊ねたことがある。そのとき母がなんと答えたかは覚えていないが、亡くなる少し前に一緒に風呂へ入ったときに言われた言葉は鮮明に覚えている。
『心を穏やかにして、毎日こうしてお水を浴びると、明日も元気にすごせるの。でも、誰にも言っちゃだめよ?』
『パパにも? おばあちゃんにも?』
『そう。これは、ママと理央のヒミツ。わかる?』
『ヒミツ! わかった! 理央も毎日やる!』
当時は真冬で、冷たい水を浴びて尻込みしたが、母のような美しい空気に憧れる気持ちのほうが大きく、お風呂上がりの水浴びは毎日続けた。母が亡くなった日も、そのあとも。
母が行っていた行為は禊と呼ばれるものであることに気づいたのは小学校卒業の少し前だ。そのころにはもう、理央は難しい言葉ばかりの祝詞を完璧に祝ることができるようになっていた。
自然と理央の顔に笑みが浮かんだ。
「褒めてくれてありがとう。母が、おしえてくれたの」
湯呑を両手で包みこみ、理央は幸せそうに笑った。
母は、知っていたのだろうか。呪いともいえるこの体質のせいでバケモノに襲われるようになることを。そして、キレイな魂魄を正しい道へ導く手伝いをしていくことを。ひとりきりで生きていくのだとばかり思っていたが、あたたかくて心強い“同志”ができることを。
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