第9話 あたしの日常・9
屋上から飛び出したふたりは、春人が探知した場所へ向かって移動している。恐るおそる下を見ると、普段は多数走行している幹線道路の車も、道行く人々も、ざわざわと揺れているはずの街路樹も、すべて止まっていた。これが“空間系能力者”の力なのかと理央は感心する。とてもとても静かな世界だった。
「あたし、人の形をした怪異に会ったことないんだけど、たくさんいるの?」
理央は、愁の背中から落ちないように注意しながら訊ねる。もしもそんな怪異がいたとしても、理央にはたぶん、攻撃されるまで気づけないだろうと不安を抱いた。日々、「あぁ、これは魂魄だな」というモノは視えているが、放っておいても数日後には消えているため、あまり意識したことがない。
「んー。たまーにおるかな。ただの魂魄が怪異になるときもあるから、浄化するか消滅させるかは相手さんしだい、ってとこ。今回はどうやろな……。お子さんちゅーのは、良くも悪くも影響を受けやすいんや」
愁の言葉の意味はうまく理解できなかったけれど、魂魄が怪異になるという言葉に引っかかる。もやもやした気持ちを抱えたまま移動すること数分。木々がうっそうと茂り、小さな池がある公園のすぐそばに、それはいた。まだほんの5歳くらいの子どもが、道の端で泣きじゃくっている。今までの理央なら確実に視えないフリをしていた魂魄。どうせ何もしてやれないのなら、変に期待なんかさせないほうがいいと思っていた。その後姿が見えなくなったのは、還るべき場所へ行ったのだと勝手に思い込んでいたが今は違う。もしかすると能力者によって消されていたのかもしれない。子どもの魂魄の周りに黒い影が蠢いている。
「……あの子も怪異みたいに消しちゃうの?」
「せやね。うまく還ってくれはるなら別やけど」
「どうしたら還せる?」
「相手さん次第、としか言えんな」
愁は複雑そうな表情で手のひらに小さな赤い玉を作り出した。理央のズキンと心が痛む。子どもの魂魄ならばこの程度の大きさの攻撃で消滅させることができるということなのだろう。静かに魂魄へと近付いていく愁を、理央は思わず引き止めてしまった。なんの力も持っていない自分がこの魂魄に何をしてやれるというのか。けれどもう、視て見ぬフリはできなかった。まだ漠然としか理解していないが、還るべき場所へ導くのか、永久に無となるのかでは、まったく意味が違うことくらいは初心者の理央にでもわかる。
「ま、待って!」
「あと8分が限界やで。ハルヒトくん、ぶっ壊れてまう」
「説得、してみる」
「リオが!?」
「うん。あんまり自信ないけど……。どうやって還せばいい? 祝詞でいける?」
理央は、亡き母からいくつかの祝詞を覚えさせられていた。オバケに脅かされて怖い思いをしたときに祝るもの、オバケにいじめられた誰かを助けるときに祝るもの、迷子になったオバケが還りたがったときに祝るもの。大きく分けてそのみっつ。理央におかしなものが視えることは、両親だけが、信じてくれた。
「ん。きっと、リオの方法が正しい。あかんかったら援護したるから、安心して行ってこい」
ゆっくりと地面に下ろされた理央は、そっと子どもに近づいた。今、この魂魄にできることは、塵となる前に還るべき場所へ行くよう説得することだ。お願いだから抵抗しないでと祈るような気持ちで声をかけた。
「ねぇ、キミ、ここで何をしてるの?」
「ぼく……ママをさがしてるの。おねえちゃん、ぼくのママ、しらない?」
「どこではぐれたのか覚えてる?」
「ここ。まってるのに……ぼくずっとまってるのに……」
瞳に涙をいっぱい溜めた少年の頭をそっと撫で、ちらりと辺りを見渡す。電柱のそばには手向けられたらしき色あせた花があった。気配を探ると事故の残像が残っており、どうもここで母子は絶命したらしい。そして母親は――もうこの辺りにはいない。すでに召されたのだろうか。それともはぐれた子どもを捜し歩いているのだろうか。
「シュウ。この子のお母さん、どこにいるかわかる?」
「残留思念もないからたぶん、もう先に……」
「そう……。ねぇ、キミのお母さん、先に天国へ行ってキミのことを待ってるんじゃないかな」
「ほんとう?」
不安そうな顔を向ける少年に理央は優しく微笑んだ。理央が両親を亡くしたのは、この子と同じくらいの年齢だったが、突然いなくなってしまったことに戸惑い、どうして自分も連れていってくれなかったのかと泣き叫んで周りの人を困らせた。けれど少年はまっさらな気持ちで母を探し続けていたのだろう。たったひとりきりで。
「きっと上で、キミがくるのを待ってるよ」
「じゃあはやくいかなきゃ! おねえちゃん、ありがと!」
少年はにっこり笑って理央を見上げた。黒くもやのかかった、魂魄のなれの果てに見えるモノは少年を食おうとしているのか、徐々にその数を増やしていく。たぶんあまり時間はないのだろうと思った理央は、少年と向き合うようにしゃがんだまま両手をそっと握った。
「心配しなくても大丈夫。早くお母さんに会いに行こうね」
「うん!」
「じゃあ、目を閉じて、お母さんのことを思い出して?」
少年は微かに口元に笑みをのせ、言うとおりに目を閉じた。理央も目を閉じ、静かに呼吸を整える。
「ひ ふ み よ い む な や こ と も ち ろ ら ね……」
(お母さん、この子のお母さんのところへ導いてあげてね……)
理央の祝詞に反応し、少年は金色に輝いたかと思うと、小さな光の泡となって天に昇っていった。握っていたはずの手には、もう何も残っていない。ちゃんと還すことができたのだろうかと理央は不安げに空を見上げた。
そして気がつけば、少年のそばで蠢いていた魂魄が半分以上いなくなっている。残りの半分は逃げ出そうと右往左往している。
「シュウ、さっきまでここにいたのは怪異なの? 魂魄なの?」
「浄化してほしくて集まったんやろか。リオの祝詞で魂魄帰還ができたものは、怪異寄りではあったけど魂魄やね。今おるのはあかんヤツ。これは俺がやるな」
愁は目を閉じて右手を天に掲げた。春人が閉じた空間が微かに揺れる。
「闇に紛れる迷える魂魄 光に導かれ帰還を命ず」
詠み終えたのと同時に小さな突風が吹き抜けた。1体を残し、愁が“あかんヤツ”と称したものは金色の光の泡となって浄化された。理央がホッとしたのもつかの間、残った1体に赤い玉が放たれた。アレは、見逃してはいけないモノだったのだろう。それでも、ちくりと胸が痛んだ。
「帰還と消滅、完了。ハルヒトくん、2分で戻るから待っててな?」
『了解。お疲れ』
「ほな俺らも戻ろか?」
愁は身動きひとつせず空を見上げている理央の顔を覗き込んで、息を飲んだ。理央の瞳からパタリと雫が零れ落ちる。
「なんで泣くん!?」
「……あの子が……浄化されてよかった……ほかの、魂魄も……」
「せやね。リオの祝詞、カンペキやったで」
愁はそっと理央を抱き寄せ、よしよしと頭を撫でる。
「ようがんばった。あと数分遅かったら、あの子、間に合わなかったかもしれん」
「うん……よかった……」
理央の腕が自然と愁の背中に回される。腕の中で声をあげて泣く理央を抱きしめたまま愁は苦笑いした。まだ理央に教えるわけにはいかない。あんなに小さな子どもでさえも、怪異に呑みこまれてしまえば母の記憶すら失い、怪異の一部と変化する。そうなればもはや消滅させるしか方法は残されていない。幸い理央は、魂魄と怪異の違いを大ざっぱにでも理解していたからこそ、今回は魂魄の帰還を志願したのだろう。ただ――まだ理央は知らない。魂魄の状態で存在する怪異がこの世界にはいることを。
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