2-10


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 トイレには誰の姿も見えなかった。最奥の個室のドアが一つ閉まっているだけだった。洗面台の前に立ったぼくは、手とあごと染みになったポロシャツの部分とを水道水でゆすぎながらツバサの名前を呼んでみた。「ツバサ?」

 予想通りツバサが応える。「誰? コヘイ?」

「そうだよ」

「何してるの?」

「手洗ってる。コーヒー溢しちゃってさ」

「そこ、他に誰かいる?」

「いないよ」

 それより平気? 続けて訊こうとしたらツバサが言った。「あのね、コヘイ」

「ん?」

「実はね」

 ふっとツバサは黙り込んだ。「実は?」と手の水をきってぼく。目の前の鏡で顔を見て、ポロシャツの肩口であごを拭った。

「実はね、ツバサのシンセキなの、あの死んじゃった女の人」

 ぼくは振り返った。「そうなの?」

「そうなの。一個年上の。でもそんなに近いシンセキじゃないよ。パパのイトコの子供だから。パピコってやつ?」

 ツバサは自分のことをツバサと言うだけでなく、時々今みたいな極端な言い間違いをするのだけど、ルシのやり方に倣って基本的には突っ込まないことにしている。

 でもパピコである意味正解かも、と思いつつぼくは言った。「そのこと、みんなは知ってるの?」

「わかんないの。一応ルシにだけは言ってあるけど……」

 だったらミクと太一は知らないな、とぼくは思った。なぜなら余計なことは口にしない、それがルシという男だからだ。でもそれを聞いて、ルシが部屋の使用を許したわけがわかったような気がした。ぼくは言った。

「そうだったんだ」

「うん。昨日二丁目の蟹でね、ばったり会ったの。二十年ぶりに」

 そこで一度、ツバサは深呼吸をした。「お互いにね、ものすごおくびっくりしたの。だって二十年ぶりに、新宿の二丁目でだったから。でしょ?」

「だね」蟹=クラブか。

 突然ツバサが話題を変えた。「ほら、ノリって子いるじゃない」

「ノリ?」

「看護師でニューハーフの。いつかその子とコヘイとツバサで3Pしたよ。忘れちゃった?」

「あー」思い出した。「憶えてるよ。すっごいよく憶えてる。あの子がどうかしたの?」

「うん。ノリがね、職場の先輩だよって紹介したのが、偶然みっちゃんだったの。みっちゃんってあの死んじゃった人なんだけど」

「そうなんだ」

「実はみっちゃん、ノリが中学の頃の、バドミントン蟹の先輩でもあったのね。狭いよね、セケンって」

「狭いねえ」またクラブか。

 ぼくはノリというニューハーフのことを思い浮かべた。髪の毛が薄くならないように睾丸を取り除いていたことや、声以外はどこからどう見ても女にしか見えなかったこと、そしてぼくの『純潔』を奪った人物であることを。確か本名は蟹沢典雄かにざわのりおだったはずだ。なるほど、一連の蟹発言はこれも関係しているのかもしれない。

「ねえコヘイ、ツバサの話、少しだけ聞いてくれる?」

「いくらでも聞くよ」

「ありがと。そこ、誰もいないよね?」

「大丈夫」

「誰か来たら言ってほしいの」

「わかった」

 ぼくは洗面台に寄りかかった。また一度深呼吸をしてからツバサがしゃべり始める。「あのね、実はね。みっちゃん、子供堕ろしたばっかりだったみたいなの」

「マジで?」

 マジなの。ツバサは言った。「産むつもりだったのに、流産しちゃったみたい。しかもこの先子供作るの、もうかなり難しいらしいの。それが原因で、フィアンセとも別れちゃったらしくて……」

「そうなんだ」

「あとね、何年か前に、妹が突然行方不明になっちゃったみたいなの。以来両親の仲がすっごく悪くなって、先月とうとうリコンしちゃったみたい。それからーずっと慰謝料とかの問題で揉めてるんだって。お互いに弁護士とかまで雇っちゃってね。その他にもいろいろとあったらしいけど、なんかそんなようなことが、短い間に、ダダダダダッと続けて起こっちゃったらしくって、それで、みっちゃんちょっとヤケになってたみたいなの」

「そっか」

「言っとくけどこれ、コヘイだから言うんだよ? みんなには言わないでね」

「わかってる」

 こんな風に、ツバサとぼくの間には、いくつかの秘密が存在する。ぼくが既に処女じゃないということもそのうちの一つだ。

「ツバサ、みっちゃんにラクになってほしくってね。それだからヘロインを射ってあげることにしたの。ほら、あれって他のやつと違って、なんにもしないでも気持ちいいでしょ? 何時間でもボーッとしてられるっていうか。そのこと言ったら、みっちゃんすごくすごくやってみたいって言ってたの」

 そう、ツバサはぼくらの中で、唯一ヘロインもやる人間なのだ。むろんぼくを含めた他のみんなもヘロインを一度か二度はやってみたことがあって、全然悪くなんてなかったし、どころかものすごくよかったりもしたのだけれど、ツバサが言うところの『キヅキ』に到達する前に、その一度か二度でやめてしまった。そういう意味では、やっぱりぼくたちは、日本語しかしゃべることのできない日本人で、ツバサは英語もしゃべることのできる、イギリス人とのハーフなのだ。国によって主食の違いがあるように、ドラッグについてもそうしたお国柄がちゃんと存在するのである。とそうは言っても、ルシだけはコカインに走ってしまったわけなんだけど。

 でもね、とツバサは言った。「みっちゃんヘロイン初めてだったし、その前にバツ食べてて、お酒もけっこう飲んでて、家に来てからはスピードもちょっとやってたからね、すごーく少なめにしたんだよ? 普段ツバサがやる量の、三分の一くらい」

 ──突然、堰を切ったようにツバサが泣き始めた。その泣き声がトイレの中で反響して、どこかまったく違う世界からのそれのような、不思議な音となって耳に届いた。

 えぐえぐと泣きながらツバサが続ける。「なのに、それなのにあんなことになっちゃったの……信じてくれる? ジコだってこと」

「当たり前だろ」とっさにぼくは言ったものの、本心じゃないのは明らかだった。なぜならぼくは、ツバサの言うことを真に受けたわけじゃないし、やっぱりツバサには、決して少なくはない責任があるとそう思っているからだ。けど、そんなものを今ここで追及してどうなる? そんなことは今さら関係がないじゃないか。それにツバサは、ぼくの友だちなのだ。だからもうこうとしか言えないじゃないか。

「ツバサは少しも悪くないよ」と。

 言った途端ふいに泣き声が途切れ、沈黙が流れる。一瞬嘘がばれたのかと思ってひやっとしたが、ツバサがまた一度深呼吸をしただけのことだった。

「昔ね、ツバサたち、すっごくナカヨシだったの」またしゃべり始めたツバサの声がワントーン低くなったように感じたけれど、きっと気のせいに違いない。「シンセキだってこと以外に、家が近所だったってこともあったしね。よくお互いの家で遊んだのを憶えてるよ。名前はちょっと忘れちゃったけど、突然行方不明になっちゃったその妹も一緒に三人でファミコンしたり、お菓子食べながらアニメ見たり。十歳のときにツバサの家が引っ越すまで、本当に仲がよくてね、ほとんど姉弟きょうだいみたいだったの」

 もう一度、ツバサは深呼吸をした。

「みっちゃんは優しくってね、いろんな相談にのってくれたの。学校のことだったり、友だちのことだったり、恋の相談なんかにまでのってくれたり。さすがに相手が男の子だってことまでは教えなかったけど、みっちゃんだったら言っても笑わなかったって思う」力なくツバサは笑った。「なのにねコヘイ。ツバサ、すっごくヤなやつなの。そんな風にナカヨシだった優しいみっちゃんが死んだってわかったときもね、ツバサのことしか考えられなかったの。捕まりたくないとか、刑務所には行きたくないとか。今だってそんなことばっかり考えてるの。ツバサのことだけ。しかもみっちゃんに怒っちゃったりもしてね。なんで死んじゃったりなんかしたのって」

 ツバサはまた泣き始めた。ぼくは落ち着くのを待った。ツバサが言った。

「……ねえコヘイ。ツバサ、やっぱり殺されちゃうのかなあ?」

「急に何言ってんだよ、怖いよ」それは本当に予想していなかった言葉だったから、びっくりしてぼくは言った。

「だって死ぬのは一人って限らないじゃない」

「……それってもしかして、予感の話?」

「もちろんだよ」

「おいおい、ツバサまで何言ってんだよ。ミクに影響されすぎだって。ミクだって本気で言ってるわけじゃないんだからさ。それになんだよ、殺されるって」

「だってみっちゃんはツバサに殺されちゃったでしょ? だからバチが当たっちゃってね、ツバサも誰かに、殺されちゃうんじゃないのかなあ?」

 ツバサの声は大きく震えていて、今やもう完全に冥界か魔界からでも聞こえてくるようだった。

「飛躍しすぎだよ。だとしても、一体誰に殺されるんだよ」

 ツバサは言葉に詰まった。ぼくは続けた。

「だいたいツバサは殺してなんかないじゃないか。さっき自分でも事故だって言ってたじゃないか。ぼくもそう思うし、ミクだって同じこと言ってたよ。今はちょっとバッドに入ってて、被害妄想でそう思っちゃうだけだってきっと」

 何も応えないツバサにぼくは続ける「それに大丈夫だって。万が一、たとえ万が一何かあったとしても、ちゃんとルシが守ってくれるから」

 すぐにツバサが言い返してくる。「ダメ、今回だけはルシでも無理かも」

「そんなことない。ルシなら絶対に守ってくれる」

「そうかなあ」

「そうだよ」力強くぼくは言った。「そう言えば、ルシのことまだ……」

「愛してるよ」

 さらりとツバサは言った。ツバサがルシを好きなこと、これも二人だけの秘密だった。そっか、とぼくは言った。

「……ふう。でも話してるうちに、なんか落ち着いてきたかも」事実落ち着いた声でツバサは言った。「ありがとねコヘイ、いろいろ聞いてくれて。お礼にまたいつか、できれば、ごっくんしてあげるね」

「よせよ」なるべく明るい声でぼくは訊いた。「それよりも、お腹はどう? 平気?」

「コヘイにそこにいられたら出ないの」

 ぼくは笑った。「だよね。じゃあ先行っとくよ」

「そうして」また深呼吸をしてツバサは言った。「多分、もうちょっとかかるから」

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