第107話

御門

 空気が湿り、空を凄まじい勢いで真っ黒な雲が流れていく。髪の毛が重い。雨になるのかも知れぬ。

 じっと御所の方向を見つめる木本藤四郎は、苛々と次の事態に無意識に身構えていた。

 なにか起きる……。

 それは、確信であった。

 気懸かりなのは、検非違使とともに御所へ消えた時太郎のことだった。あの時ちらりと見た時太郎の表情が、どうにも忘れられない。目を合わせた瞬間、藤四郎の背筋が氷柱を入れられたように冷たくなったのを感じていた。

 ぴくり、と藤四郎は目を上げた。

 御所の大極殿の大屋根の向こうの〈御舟〉と呼ばれる塔から、じわりと黒い叢雲のようなのが湧き出していた。

「〈御門〉が──! 外へお出ましになった──!」

 それは、絶叫であった。御所のどこからか叫んでいるようであった。

「なに? 〈御門〉が?」

 思わず藤四郎は一歩前へ出た。

 目を細め、じわじわと動いている黒雲を見つめる。

 あれが〈御門〉だと?

 微かに周囲を取り巻いている武者たちが身じろぎをして、装具がかちゃかちゃと小さく音を立てた。

 ずるり、と雲は、まるで生き物のように大極殿の屋根を滑り落ちてくる。と、その動きが急に早まり、するするとした水のような動きになった。

 藤四郎の胸に、戦慄が走った。

 あれは敵だ!

「う……討て──っ!」

 大音声で叫ぶ。

 ざあっ、と武者たちが背中の箙から矢を番え、ぎりぎりぎり……と引き絞る。

 ちょう──!

 数十本の矢が一斉に放たれる。矢は見事な放物線を描き、ぐさぐさと黒い雲に吸い込まれていく。

 が、雲はまるで平気のまま、ずるりずるりと御所の塀を越え、都大路に集合している二輪車うまに迫ってきた。

 ついに、一騎の武者が雲に呑みこまれた!

「ぎゃあっ!」

 魂消るような悲鳴が上がる。

 ぐわしゃん、と二輪車が横倒しになる。武者の姿が雲に呑みこまれ後には、鎧兜だけが抜け殻となって残された。

 あっという間に、人間だけが姿を消していた。

「ひいぃ──!」

 藤四郎は恐怖に喚いていた。

 なにか、この世の物ではない怪異を見た。そんな惧れが、藤四郎の手足を硬直させる。

 一騎の武者が、野放図にも二輪車を蹴立て、すらりと騎乗で刀を抜き放つ。

 ぶんっ、とばかりに黒雲に切りかかった!

「う!」

 武者の顔が驚愕に歪んだ。

 ぐいっ、ぐいっと黒雲に突っ込んだ刀を抜こうとするが、どうにも抜けない。

 ぱきん! と音を立て、刀は真っ二つに折れてしまう。呆然と武者は残された刀を見つめている。

 ぐう──っ、と黒雲は凝集し、一つの塊となって持ち上がった。

 奇妙だった。確かに塊となっていると思われるのに、その縁はぼんやりと霞んでいる。実体があるにかかわらず、まるで、ふわふわとした煙のように見えた。

 塊は〝ある形〟を取ろうとしているようだった。

 藤四郎には、それは人間のように見えた。

 手足、頭、胴体が見分けられる。顔に当たる部分に一つの巨大な目が現れ、あたりを睥睨した。

 ──我は〈御門〉なり──

 ごぼごぼとした声が辺りに響いた。それは声を発することに慣れていないのか、ゆっくりとした喋り方であった。だが、確かにそう聞き取れた。

 ──我に逆らうか……? そのつもりなら、地獄を見せてやろう──

 殺戮が始まった。

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