第28話

  二

 ここは、河童淵。その名称の通り、河童たちが仲良く暮らしている。

 中央にはこぢんまりとした静かな沼があり、沼には細い川の流れが注ぎこんでいて、また別の方向に繋がっている。川の上流には、滝があった。

 沼の周囲は切り立った崖で、ほとんど垂直な崖面は人間の接近を困難にして、河童淵の存在を隠している。

 沼の水面には所々、岩が突き出していて、そこには思い思いに河童が腰かけ、のんびりと胡瓜や真桑瓜や西瓜や香瓜メロンを齧っている。高い岩からは、河童の少年たちが勢いよく水面に飛び込み、水飛沫を跳ね上げていた。

 日当たりの良い場所には小さな畑ができていて、そこには胡瓜や真桑瓜、西瓜、香瓜、赤茄子トマト甘味唐辛子パプリカなど、様々な野菜が栽培されている。

 野菜を世話しているのは河童の女たちだ。河童の女は男と違い、色は白く、頭の皿もほとんど見分けがつかないほど小さい。

 男は灰色がかった緑色の肌で、子供のうちは濃い色をしている。年令を重ねるうちに、灰色に肌の色が薄まっていく。年寄りの河童は、髪も白く脱色して、まっ白な色合いになっている者も多い。

 時太郎は、水の中にいた。

 時折、こーん、こーんという音が水中から聞こえてくる。

 河童の〈水話〉なのだ。この〈水話〉を使って河童たちは水中の様子を〝見る〟ことができる。

 こーん、こーんという単調な音が、きゅきゅきゅという急調子に変化した。おそらく、水中の獲物を探しているのだろう。

 ──時太郎のやつ、また喧嘩ふっかけてきたな……。

 ──馬鹿なやつ……〝土掘り〟のくせして、河童の力に敵うわけねえのにな!

 けけけけ……と〈水話〉で河童たちは会話をしている。

 明らかに、水中にいる時太郎に聞かせる狙いだ。どうにも堪らなくなって、時太郎は水中から顔を出した。

 ざばりと水から上がると、いつもの自分の場所に腰を下ろした。ここは昼間中、日が差して暖かい。

 河童は暑さが苦手で、あまりここには来なかった。そのため、時太郎専用の場所となっていた。

 頭の中に〝土掘り〟という言葉が木霊していた。

〝土掘り〟とは、河童が人間を馬鹿にするときの呼び方である。河童淵に近い村で、人間が一生懸命に畑を耕している姿から、そう呼んでいるのだ。

 時太郎は腰かけている場所から、沼の水面を覗き込んだ。水面に、自分の顔が写っている。

 ぼさぼさの蓬髪。眉は太く、四角い顎の形をしている。両の目元にはっきりと判る痣があり、それが時太郎の表情に形容しがたい迫力を与えていた。一年中、ほとんど裸で暮らしているため、肌は真っ黒に日焼けしている。

 いったい、自分は河童なのか人間なのか……。

 生まれたときから時太郎はずっと、この河童淵で過ごしてきた。周囲の大人の河童の話では、父親の三郎太が十何年前かに、赤ん坊の自分を連れてきたという。

 だが、詳しい事情は、誰も知らないらしい。父親に尋ねても、言葉を濁して話したがらない。

 おれは河童だ!

 時太郎は強く思った。

 河童の〈水話〉を聞き取ることができるし、河童ほどではないが、人間には真似できないくらい水の中で息を止めていられる。泳ぎだって得意だ!

 水面の下で、銀色の鱗が煌いた。それを見てとった瞬間、時太郎の右腕が反射的に動いていた。

 ぱしゃん、と水音がしたと思ったら、時太郎は右手で魚を捕まえていた。

 びくびくと動く魚に時太郎は歯で齧りついた。ぐいっと食い千切り、もぐもぐと口を動かす。

 たちまち一匹を平らげ、残った骨をぽいと水面に投げ棄てた。ぽちゃりと音がして、ゆらゆら魚の骨は水面に沈んでいく。

 ごろりと仰向けになり、頭の下に両腕を組んで枕にする。

 ぽかんとした青空が広がっている。その青空に、にゅっとばかりに、女の子の顔が現れた。

 細面で、きゅっと吊り上がり気味の大きな瞳が時太郎の顔を覗きこんでいる。髪の毛は頭の皿を隠すように天辺で束ねていて、どこかで摘んできたらしい百合の花を飾っていた。

 お花であった。河童の女の子である。

 肌は人間の女の子のように白く、血色のいい頬が薄桃色に染まっている。河童の女の子は、見かけはほとんど人間の女の子にそっくりだ。背中に小さな甲羅があるが、着物をまとえば判らない。

 胸と腰を覆う、僅かな布切れがお花の身につける全てである。だが、年長の河童の女たちは、そんなもの身につけていない。ほとんどが裸で暮らしている。

 お花のような、若い女の子の河童たちは、人間の娘の身につけるものに興味津々で、それらを真似しているのだ。

 お花は、にっと笑いかけてきた。

「どうしたの、時太郎。面白くなさそうな顔してんのね」

 時太郎は上半身を起こし、けっと肩をすくめた。

「面白くなさそうな顔って、どんな顔だよ! 面白い顔って、こんな顔か?」

 手で頬を掴み、ぎゅっと引っ張り、目を寄り目にさせる。

 くつくつとお花は忍び笑いをした。

「また喧嘩したんでしょ。あんたも懲りないわねえ……」

「ほっとけ」と呟いて、時太郎は立ち上がった。お花は時太郎の腕を掴んだ。

「ね、お山へ行って見ない?」

「お山? 何しに?」

 お花は、辺りを見回すと、そっと囁いた。

「〝土掘り〟が来てんのよ」

「え?」と時太郎は問い返した。

「何のために? お山は約定で〝土掘り〟が入っちゃいけねえ、ってことになってるんだろ?」

「それが、見かけない連中なの。この辺りじゃ、見たことない顔よ。あたし、見たのよ! ほら、この百合……」

 お花は、頭に飾った百合の花を見せ付けた。

「これを摘みに行った時、見かけたんだって! 絶対、あの連中は、怪しいわ!」

 お花の話に、時太郎の好奇心は、むらむらと入道雲のように膨れ上がった。面白そうである。

「うん」と時太郎はお花に向け、うなずいた。

「行こう!」

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