19.襲撃者
いつもと変わらず忙しく、それでいて鬱屈した日だった。
今朝方、伝書鳥が速達を運んできた。今頃フリック達は戦いの最中だろう。
勝利の神でもあるセウェルに向けて、アルトは事あるごとに祈りを捧げながら、黙って執務室で本を読んでいた。
夜にはルーティがお菓子を運んできたが、あまり食べる気がしない。そういう時はロイヤーとシュロットへの差し入れにするのが習慣になっていた。
二人とも大量の書類を前に、揃って疲れ果てている。
「手伝う?」
「いえ、とんでもない。この程度、大したことはございません。じきに終わります」
シュロットは言った。
「お気になさらず、お休みになって下さい。このところずっと、寝付けないでいらっしゃると、乳母さんから伺いました」
ロイヤーは言った。
そう言われても心配なものは心配だ。
「僕、伯父さんに何回も、仕事を減らしてもらえるよう頼んだのに、あんまり聞いてもらえなかったんだ……ごめんね」
「そんな。頼んでくださっただけでもありがたいですよ。ね、シュロット」
「うむ。その通りです」
「むー。僕だって役に立ちたいのに」
ふくれてみせると、反対に二人は笑顔を見せた。
雰囲気が変わったなぁ、とアルトは思った。特にシュロットなんて、あんまり笑う人じゃなかったのに。
ベッドに入って眠る時も、瞼の裏には二人の笑顔が浮かんできて、ちょっと嬉しかったアルトだった。
────欠け始めた月が、中天へと登っていく。
ひどく、耐え難い胸騒ぎがして、アルトは薄っすらと目を開けた。
廊下で、ドサッ、ガチャン、という異音がした。
(えっ、人が倒れた……衛兵が!?)
アルトはパッと飛び起きた。
寝室は月明かりで煌々と照らされている。
靴を履き、ベッドの下の剣を手に取った。
心臓がばくばく鳴って、外に聞こえるんじゃないかと思った。
畳んであった上着を羽織り、執務室の方へ逃れようとした時、扉がすぅっと開かれた。
恐怖のあまり、しゃっくりのように息を飲み込んでいた。早く行かなければいけないのに、目が離せない。
黒い布で顔を覆った男が二人、素早く押し入ってきた。もう一人は入り口で待機していて、足元には衛兵が倒れていた。
「おっ、おい、起きてるとは聞いてないぞ」
「騒ぐな」
二人とも短剣を携えている。鈍く輝くそれは、どう見てもアルトに向けるためのもの。
王族である限り暗殺の危険はつきものだが、いざ来られるとやはり怖い。
無我夢中で背を向けて走り出した。執務室へ入ったあたりで、首根っこを掴まれた。
「誰かああああああ助けてえええええ!!!」
もがきながら剣の鞘で所構わず相手を叩くと、力が弱まった。これを好機とアルトは更に暴れたが、もう一人が低く告げた。
「無駄です。屋敷の人々は眠らせました」
アルトはピタリと硬直した。
ちらと寝室を振り返って、腕組みをして立っている男を見た。
その言葉は何より重かった。
全てを諦めさせるには充分すぎる言葉だった。
標的がすっかり大人しくなったのを見て、捕まえている方が短剣を思いっきり振りかぶった。
──だめ。
脳裏に浮かんだのはいつもの悪夢。
姉を起こそうとする自分の無力な姿……。
──まだ諦めるには早い。この手で戦うと決めたんだ。
時間が非常にゆっくり感じられた。視界の隅で、暗殺者の動きが、はっきり見えた。
彼は、必要以上に腕を大きく振るっていて、顔をギュッとしかめていた。
(……もしかしてこの人、素人)
考えるより先に体が動いた。アルトは渾身の力で足を後ろに蹴り上げて、男の局部に叩きつけた。
屋敷中が起きてしまいそうな凄まじい悲鳴が耳を劈いた。アルトは解放された。
床に落とされる僅かな間に、もう一人が猛然と駆け寄るのが見えた。まずい、この人は素人ではない。
立ち上がるのももどかしく、少しでも扉の近くへとにじり寄った。だがぎりぎり間に合わない。死に物狂いで体勢を整えて、目前に迫ったそいつに向かって、勇ましく抜刀。
「はあっ!!」
一瞬でもいい。あと一瞬でも隙を作れれば……!
だが、けたたましい音がして、気がつけば得物は跳ね上げられて床に転がっていた。
全身がきゅっと縮こまるような危機感に襲われた。
失敗した。大人相手に実戦で勝とうなんて、思い上がりだったのだ。
竦んでいるうちに、男は無駄のない動きでアルトの胸ぐらを掴み、喉元にピタリと刃を当てた。そして――
「遺言をお残しになる猶予を差し上げましょう、アルト様」
低い囁き声だった。アルトは愕然とした。
「……!!!」
「そこに転がっている者とは違い、私は一突きであなたを殺せます。最期を迎える前にお早く」
「あ……」
手が離され、アルトは力が抜けたようにすとんと跪いた。
あまりに多くの感情が駆け巡っていた。
「ゆ、遺言」
「お早く」
ありえないほどの悲劇。ありえないほどの幸運。頭がくらくらする。
相手は何故か、苦難と憐憫の色を浮かべて、アルトを見ていた。手元の刃物は、いつでも刺せるように低く構えていた。
ああ、セウェルさま。危ない時には助けて下さると仰ったセウェルさま。僕にこの猶予を与えたのがあなたの思し召しなら、もう少しだけ力を貸してください。
痛いほど高鳴る心音を感じながら、アルトは早口で言った。
「誰か僕の家族を助けて。その……財産も領地も、父上が目覚めた時には父上のものだから。そ、それと」
言いながら、怯えたように、立て膝でじりじりと壁際へ移動した。そして、懇願するように、両手を組んだ。
「さいごに、お祈りだけさせて」
容赦なく間合いを詰めてきた相手だが、親切にも待ってくれている。誰も起きてはこないという自信の表れだろうか。
アルトは深呼吸して、ゆっくり目を閉じた。体中が小刻みに震えている。
どうか、どうかうまくいきますように。
アルトは息を吸い込んだ。
それから、壁に向かって、勢いよく背中を叩きつけた。
ガコン、と音がして隠し扉が押し開けられ、アルトの姿は闇の奥へと消えた。
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