未開惑星に人間が降り立つにあたって、まず問題となるのは、その惑星の大気組成である。


 最低限必要なのが酸素であり、これが大気中に占める割合が必要十分量に満たない場合は、降陸にあたって酸素供給装置などの装備が必須となる。逆に、一定量をこえると呼吸困難を引き起こすこともあるため、多ければ良いというものでもない。もっとも、長期的には容易に調整が可能であり、酸素量の調節は居住適正化作業テラ・フオーミングにおいて基本的な作業のひとつである。

 我星ガイアの大気にはほかにアルゴン、ちつ、ネオン、ヘリウムなどが含まれているが、毒性を有する物質が多く含まれているのでないかぎり、酸素以外の物質の大気中に占める割合は重要な問題とされない。植物を繁茂させるためには二酸化炭素が必要であるが、生成が簡単なため、存在しなかったとしても将来的な移住の可否を判断するにあたっての障害とはならない。逆に多すぎる場合は、その有害性が問題となりうる。


 大気に関連して組成以外に重要な要素が大気の量、すなわち気圧であり、これは惑星の重力も大きく影響する。気圧が我星の標準大気とかけはなれていると、惑星上の活動に与圧服が必須となる。惑星重力の大小は短期の探査活動などではある程度無視できるが、長きにわたって居住する場合は大きな問題となる。

 ほかにも宇宙線、温度、水、気候、有害微生物、自転周期など、惑星降陸に際して懸念すべき事項はいくつもあるが、とくに大気は重要であり、これを軽視すると、宇宙艦艇のハッチを開けたり与圧服を脱いだりした途端に死亡してしまうことにもなりかねない。実際、事前調査の不備により、調査隊の尊い人命が失われる不幸な事故は過去にも発生しているのだ。


 したがって、シュティ・ルナス・ダンデライオンが親友からうけたまわった任務は、責任の重量という点において、脱出艇をこの宙域まで導いてきた操舵手パイロツトのそれを下回るものでは、けっしてなかった。ふたりと一羽の安全が、彼女のそうけんにかかっている。


「大気組成は窒素五六パーセント、アルゴン一九パーセント、酸素一八・五パーセント。気温摂氏換算一六度、気圧九八〇ヘクトパスカル…」


 地表に投下された探査キットから送られてくる多量の情報が、脱出艇のディスプレイに次から次へと表示されていく。彼女は洪水のように溢れるそれらの情報を慎重に整理分析し、自身の記憶層に収納された事典と照らし合わせて、降陸にあたっての人体への影響を検討していった。彼女自身はあまり意識してはいないが、これは高度な知識と科学的思考力を要求される作業であって、凡庸な人間であれば頭蓋骨から蒸気を噴出させてこんとうするであろうこと疑いなかった。


「ほんとに奇跡的だね」


 と、眠りについているはずの操舵手が横から顔を出して、ディスプレイをのぞきこんでいった。彼女のいう奇跡とは、惑星環境が我星本星と非常に似かよっていることを指している。まだ分析は初期段階だが、このあとも不都合な事実が出現しなければ、無装備での降陸も可能かもしれない。


「ちょっと、本当に寝といてよ。ちゃんとやっとくから」


 黒赤髪の惑星調査担当員が、まるで子供が横取りされそうになった玩具を守るような態度と口調でいったので、横槍を入れたほうは年長者の範を示して苦笑しながら矛をおさめ、わかったわかった、とつぶやいて自らの座す操舵席へと戻っていった。


 アイリィにはちゃんと眠っていてほしい、と情報の氾濫と戦う惑星調査員は真剣に思っている。単に友人への想いというだけではない。惑星におりたつにせよ、別の可能性を求めてあらたな航海に出るにせよ、数多くの困難が、大小の壁となって立ちはだかるだろう。このあとも長きにわたって、多才な親友に甘え続ける時間が続くにちがいないのだ。客観的な査定はともかく、自己評価として、シュティは自分の無力さを知っていた。

 だから、シュティは自分が活躍できるときは、なるべくひとりの力で努力するつもりだった。いざというときに頼れるように、親友には心身をやすめていてもらいたかった。むろん一方的に甘え抜くつもりはないが、事態解決への貢献度の天秤が、濃茶髪の親友にかたむくのはわかりきっている。だからこそいまのうちに、反対側のパンに可能な限りの重量を加えておきたかった。


 検討課題が気象や微生物にうつると、情報解析の難度は二段、三段飛ばしで階段を駆け上がっていく。いかに電子コンピ機械ユータの助力があるとはいえ、高次の方程式や複雑な化学式を、手作業で処理しなければならないのだ。情報収集分析艦に搭載されているような専門の解析機器があれば楽にすむはずの作業を、しかし苦しみながらも着実にこなしていく生物科学少佐は、無能ということばの守備範囲には存在していなかった。結局、彼女の自信のなさは、なんでも器用にこなす親友を基準にしてしまっていることが原因の一つなのである。もっともその背景には、自慢の親友を過剰に評価したい、という微妙な深層心理が存在しているのかもしれない。


 そのようなわけで、脱出船長が、睡眠過剰な友人の半分未満の仮眠を終えて目を覚ましたときには、すでに降陸計画に安全の朱判が押されていたのである。


「さすが、仕事が早いね」


 と軽く言うだけではにかんだ照れ笑いを年下の親友が浮かべるものだから、アイリィは褒め甲斐もあるというものであった。もっとも、食糧の確保、生命を脅かす生物の有無など、実際に地表に降りてみないとわからないことも多いから、褒められた方も功を誇ってばかりというわけにもいかない。



 いずれにせよ、これで話は実行の段階にうつることになった。


「さて、どこらへんに降りようか」


 降陸場所を定めるにあたって意見をもとめられた生物科学少佐は答えた。


「海から遠くない川のへりか、大きな湖の岸がいいよね。水が確保できるし、魚みたいな食べられる生き物がいる可能性も高いし」


 その答えはアイリィの考えと一致した。穏やかな気候、ほどよくひらけた平地、といったほかの条件を考慮してえらんだのが、観察したかぎり惑星上で一番広い湖の岸辺であった。愛鳥に名前を付けたときにネーミングセンスをつかい果たしてしまったらしい黒赤髪の生物科学少佐が、湖をその形状から〝ながぐつ池〟などと命名してアイリィを困惑させたが、とくに計画の実行に支障はきたさなかった。


 降陸目標が決まってしまえば、あとは操舵手の技倆うでの問題である。大気圏への突入に危険をともなう時代は、技術の進歩によって過去の領域に追いやられているが、管制なしで宇宙空間から狙った場所にピンポイントで降陸するのは、なかなかの難事業であるのだ。そもそも、死への激突をちらつかせる重力の魔手にあらがうために、船体の制御にも腐心しなければならないアイリィである。


 むろん、このまま惑星のはるか上空を漂い続けるわけにもいかなかったので、ふたりは腹を括らざるをえなかった。


「よし、行くよ。準備はいいか?」


 となりで親友が小さくうなずいたが、表情から緊張の色彩を隠しきれていなかったので、アイリィはやわらかな笑顔をつくっていった。


「ま、地表に着いてふたりとも生きてたら、今後ともよろしく頼むよ」


 黒赤の髪につつまれた白い顔がすこしだけくずれるのを確認して、アイリィは操舵桿を動かした。舟が衛星軌道からゆっくりと離れていく。惑星が、おそらくは誕生以来初めてとなる客人を招き入れようと強烈な加速度をかけ、脱出艇はその速度を順調に上昇させていった。



 地表との距離を急速に縮めながら、大気の鎧の抵抗によって、舟は白熱の炎をまとって輝いている。それが、生命の聖神による祝福ブレスであるのか、冥界の女王にこびを売るためのしにしょうであるのか、ふたりにはまだ判断がつかない。

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