ep3:群青の深海、きっと声の届く時<4>

 通話を続ける安藤遠也の顔から、迷いやそれに似た感情はなくなっていた。

 ――後悔していない。

 その言葉の響きが何故かとても尊く、眩く感じられて――俺は今まで、後悔ばかりしていたから。

 七年前の自分に向かって、「後悔していない」なんて言えるほどの勇気も自負もない。むしろ過去の自分を責めたてるだろう。

 何故って、過去の俺が何も考えずに言葉を振りかざしたせいで幾人もの友人を失い、傷つけ、傷つき、結果喋るのが怖いだ

 なんてコミュニケーション不全を起しているのだから。

 そんなことを言ったって、七年前も今も、俺は、俺のままだ。どこに責任が投げられるわけでもない。

 そんなふうに誰かのせいにしたくてたまらない俺には、そう、過去の自分にすら責任転嫁してしまいたい俺にとって、彼の言葉は、強すぎる。急に苦しくなって、俺は咄嗟に頭上を見上げた。

 とっくに夜を迎えた空は、深い群青色で。

 少し滲んだ視界に映るその色は、見たこともない深海を思わせる。

 深い、深い海の色。頭上に広がる夏の夜。


「こっちは心配するな。どっちにしろ俺は俺なんだ。

 至らないところもあるけどさ、俺は気に入ってるよ。今の自分」

 七年前の安藤遠也へ、現在の安藤遠也が諭すように言った。


「だから、いつまでもお前、そんな場所に居るなよ。早く卒業しろ」


** **


 ――一九九九年、三月五日。

 佐名木市立北中学校卒業式、当日。

 HRまで、あと少し。

 HRで一度教室に集まって、説明を受けて体育館へ移動。それから式が始まる。

 朝の、まだ冬の気配の強い空気。だけど少し温かい日差し。

 図書室に他に誰も居ない。

 長岡永子。安藤遠也。

 遠也は永子のデッサンをしている。

 スケッチブックに描かれる少女は少し、華やいだ表情だった。

 ――不意に。

 チャイムが鳴り響いた。

 遠也は顔を挙げ時計を確認する。

 スケッチブックをたたんで、「もう時間か」と呟いた。

「教室戻るか。永子」

「ねえ、遠也」

 立ち上がり、動きかけた少年を引き止めるように、呼びかける。

「何」

「あのね、あたしね」

 今年。一九九九年。世界は終わるのだと思っていた。

 だから、今となっては遅すぎたのかもしれないけれど。

「あたし……遠也のことが」

 だけど、今からだって間に合うはずだから。

「遠也が、ずっと前から」

 世界は終わるのかもしれないけれど。

 もし終わるのだとしても。

 その瞬間に、隣に居たいから。

 言葉を伝えて、うつむいた顔をあげて、少女は少年を見た。

 少年は小柄だった。永子のほうが、やや身長がある。

 遠也の目は泳いだ。

 何かを見据えるように一点に定まる、そこは永子の目線よりやや高い。

 スケッチブックの向こう、驚いたような顔は一瞬で、すぐに表情は硬くなって。

「……ごめん」

 永子はスケッチブックの向こうの彼の向こう、窓の外を見た。

 朝の気配の空は、一瞬にして黄昏に染まっていた。)

  

** **


 ふいに、窓の外を目にする。

 少女は追憶する。


「……ああ、そうか。思い出した……。

 あたし、告白、したんだ。それで、ふられたんだ。

 こんなの嫌。あたしは、こんなの嫌だ。

 このまま卒業なんてできないよ」


** **


「ここは、あたしの……」


 ――あたしの、願望の世界なんだ。


 唐突に。

 永子が囁いた。

「え、なに?」

 わたしは思わず問い返す。

「みらい。あのね、あたし、思い出した」

「なに? 何を?」

「あたし、卒業式の日に、告白したんだ。それで……」

「永子?」

「こんな現実は嫌だ。さいごの時は二人で居たいのに。それがあたしの願い。

 二人で。さいごまで。終わりまで……」

 永子の目が何かにまっすぐ向いている。

 わたしはそれを追いかけて、すぐに行き当たった。

 窓の外。

 黄昏色だった空が、今。

 めまぐるしく、変化している。

 青、黄色、赤、紺、水色。青、黄色、赤、紺、水色――

 単純な一色では言い表せない。

 複雑な色から色へ、ぐるぐると。

 夜明けと黄昏までを早回しか、巻き戻しでもしているみたい。

「みらい。ねぇ、帰りたくないよ。あたしは、帰りたくないよ。卒業式だもん。

 高校も、一緒じゃないから……離れ離れになっちゃう。

 好きって言って、ごめんって言われたら、それっきり……離れ離れになっちゃう。

 それなら、あたしは、このままが良い。帰りたくない……このままがいい」

「永子……」

 水漏れのような囁きはきっと、永子の本音。

 それはとても些細なことで、とても重大なことで、だけどとてもつたなくて。

 かける言葉は見つからない。彼女の気持ちはわからないから。

 彼女の思いが時を停めたの?

 うん、少し、解る気がする。

 過ぎていく時間、一瞬、思い出、永遠。

 戻れない楽しい時間、大切な日々。

 だけどそれを引き止めてしまうのは、とても拙いこと。別れ難いのは、解るけど。

「永子。……ねぇ」

 かける言葉は、見つからない。

「佐崎。代われって」

「あ、うん……」

 安藤君が携帯電話を差し出す。

 永子を顧みて、逡巡の後、わたしはそれを受け取った。

「もしもし……?」

『みらい?』

 向こうから遥君の声が聞こえてほっとした。

『何か、変化、あったか?』

「うん……うん、空が、変。空がぐるぐる回って、変……」

『空?』

「あのね、永子がね、ここは願望の世界って。思い出したんだって。七年前のこと」

『願望の世界?』

「遥君。……わたしたち、ここから出られる?」

『俺は、現に外に居るんだ。出られるよ。みらい』

 遥君の言葉に、声に少し安心して、ほっと息を吐く。

 ふと見ると、隣に座る永子の傍へ、安藤君が寄り添っていた。

 二人は短く言葉を交わす。

 何を話したのだろう。二人はどこか安らいだ表情をしていた。

 わたしは、二人の表情を見て、なぜか安堵してしまう。

「みらい」

 永子が囁く。

 指差す先で、空が、夜が、明けていた。

 まばゆい朝の日差し。

 図書室はしんと冷え切っていて、清廉とした空気に満ちている。

「……解ったよ」

「あたしたち」

「どうしてここに閉じ込められていたのか」

「あたしの願望と」

「俺の逡巡が」

「重なったの」

「時間が閉じた」

「停滞の狭間」

「動かない時間」

「気付けなかった」

「だけど気付いた」

「ねえ、みらい」

「……川橋にも、伝えてくれ」

「巻き添えにしてごめんね」

「でも、ありがとう」

「ようやく動くことができる」

「時間は、開いた――」

 安藤君が言った、と同時。

 教室に――学校中に、チャイムが鳴り響いた。

 ごく平凡で、ひび割れた電子音のチャイムが、卒業式の開始を告げる。

「それじゃあ、ね」

「俺らは、卒業式に行かないと」

 二人は手を繋いで、教室のドアを開けた。

 ――びゅぅ! 

 途端にすごい勢いで風が吹き込んできてわたしは咄嗟に目を閉じる。

 ばさばさ、ばたばた、何かが吸い込まれていくみたい。

 髪がなびく。服がはためく。何かが身体にぶつかっては、どこかへ飛んでいく。

 わたし自身が飛ばされないように、必死に身を固くする。

 掴んでいられるものがなくて、代わりじゃないけど、携帯電話を強く握った。

『みらい? ――みらい?』

 怖かったけど、電話の向こうに遥君が居たから、大丈夫だった。

 風は吹き込んで、教室の中の空気をかき混ぜるようにして、やがて収まる。

 恐る恐る目を開ける。

 別の場所に来たのかと思った。

 寂れた教室。

 明かりは無くて、窓の外は夜。

 本棚に本は入っていない。掲示板にも何も貼っていない。

 時計のあった場所には、丸い跡が残っているだけ。

 もちろん、誰も居ない――。

 群青色の、空っぽの図書室。

「あ……」

『……みらい? どうした?』

「ううん……」

 埃の積もった机の上。

 わたしはそれを見つけた。

 大きな、古ぼけたスケッチブック。

 開いてみると、そこには絵がたくさん描かれている。

 たくさん、たくさん。白いところを見つけるのが難しいくらい。

「……」

 わたしは思わず、笑ってしまう。

 スケッチブックの中に、よく知った顔を見つけたから。

 永子の顔。

 それから――遥君の横顔。

『みらい? 何があった? どうなった?』

「ううん。大丈夫。遥君、大丈夫だよ。二人とも卒業した。

 今、外は夜で。わたしは図書室に居るよ」

 スケッチブックを閉じた。

 蝉の声が聞こえる。

 夏の空気は夜でも生ぬるくて、でもそのことが、少し嬉しい。

 戻ってこられたんだ。

「――みらい!」

「えっ?」

 遥君の声が、すごく近くから聞こえてびっくりして振り返る。

 図書室のドアの向こう。

 遥君の姿があった。

「遥君!」

 わたしは急いで鍵を開ける。

 古いドアがスライドして、わたしたちはようやく、再会することができた。

「みらい! みらい、よかった……。ごめん。勝手に行動して、……ごめん」

「ううん。心配したけど、無事でよかった。……遥君。なんだか、久しぶり」

「ばか、一日も経ってねぇよ……」

 走ってきたのか苦しげに呼吸を繰り返しながら遥君は笑った。

 遥君がこんなに喋るのも、そんな表情で笑うのも、すごく久々な気がする。

「みらい。行こう。青葉を探しに」

「――うん!」

 頷いて、遥君が差し伸べた手を取った。


** **


「……どうも、お騒がせしました」

 合流して公園へ戻って、借りてきた携帯電話を安藤遠也へ返した。

「いや、面白かったからいいよ。嘘でも本当でも、変な体験だったし」

 彼は寛大にそう言って、二人の説明を信じているのかそうじゃないのか、少しすっきりした顔をしている。

「そんじゃ、俺はもう行くけど。きみたち二人とも、夜道気をつけて帰れよ」

「はい、あの、さようなら!」

「おー、バイバイ」

 夜の公園を後にして、大きなスケッチブックを提げた安藤は、ふいに懐かしい気持ちに囚われていた。

 もしあれがどっかの誰かの妙な企画であれ、はたまた本当に摩訶不思議体験だとしても。

 過去の自分と対話するなんて思ってもみなかった。

『過去の自分』との対話だと意識して喋ることで、今抱えている迷いを振り払えたような気がする。

 中学の頃捨てたと思っていたスケッチブックが帰ってきたことにも驚いた。

「……永子、か」

 自宅への帰り道、懐かしい名前を呟いてみる。

 もう七年も経つのか。

 身長が彼女を追い越すまで、恋人にはなれないと思っていた。

 告白を断ってしまったとき、永子は走り去ってしまったから、誤解を解くタイミングを掴めないまま卒業してしまったのだ。

「…………」

 それでも連絡先の交換だけはしていた。

 安藤は立ち止まって携帯電話のアドレス帳を開く。

 メールアドレス。――いや、電話番号。

 かつての少年は、通話ボタンを押した。

 先刻まで過去の自分と通話していたその携帯電話で。

「あ、もしもし? 突然、ごめん。覚えてる? 俺、安藤だけど……」

 声が、深海を思わせる群青の空に、響いて響いて溶けていく。

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