第20話 GAME OVER



 魔女ナイアガラは蘇生すると同時に眩暈めまいを覚える。


「う……」


 ふらついた彼女は干乾ひからびた地面に視線を落とした。

 腐った甘藷かんしょを思わせる色。

 嘔吐感がこみ上げ、眩暈が更に酷くなる。


「っ」


 ナイアガラが倒れ込むと、彼女を包んでいた光の粒子が逃げるようにして霧散した。

 

「おっと」


 細腕を掴まれた魔女はそれが男のものだと気づき、反射的に即死魔法の詠唱を始める。


「待て待て。俺だ」


 聞き慣れた声に魔女は詠唱を中断する。


 そこに立っていたのは彼女より頭一つ背の高い男。

 くたびれた毛皮のコートと、それ以上にくたびれた容貌の持ち主、勇者ジンファンデルだった。

 おかしなことに彼の全身には七色の宝玉がびっしりと貼りついていた。

 遠目には異形の珊瑚さんごのようにも見えただろう。


「ジン。……」


 混濁する記憶の中、ナイアガラは幾つかの声を思い出していた。


 神を名乗る女の声。

 怒れる赤髪の男の声。

 カルガネガを消し去った少年の声。

 それに、怒りで我を忘れたナイアガラ自身の声。

 最後に髭面の――――


「……!」


 そうだ、と魔女は思い出す。


 自分は死んだのだ。

 確かあの少年を魔法で嬲り殺していたところで背後から――――


 否、と魔女はかぶりを振る。

 その後自分は自動蘇生リザレクションで息を吹き返した。

 「本当の死」を迎えたのは羽兜の女に強力な毒魔法を放った直後。

 遅延詠唱を破棄したことが直接の死因だった。


 直前に火災旋風が巻き起こったことも覚えている。

 あの辺りに生き残っていた者で、魔法的な防御を持たない者は残らず消し炭にされてしまっただろう。

 ――――あの髭面の男も。


(……)


「思い出したか」


「思い出したくはなかったがの」


 ナイアガラは辺りを見回した。

 銃弾に胸を食い破られた夜坂北光よるさかほっこうと、大量失血によって青白く変色したセキレイの死体が転がっている。

 既に凝固の始まった血の池からはむっとするような鉄臭さが漂っていた。


「あれは……!」


 四肢のうち三つを失った銀のゴーレムの姿が目に入る。

 銀氷天ぎんぴょうてんはパイロットである北光の死と同時に機能を停止していた。


「あのデカイのは心配するな。使い魔が死んだらしい。もう動かねえよ」


 彼の言う通り、オペレーターであり事実上のブラックボックスでもあるミュスカデは電子の海に姿を隠してしまっていた。

 ジンは知るべくもないが、現在の銀氷天に不正なハッキングを試みた場合、機体内に残る固形燃料が一斉に炸裂する仕組みになっている。


「ん~……」


 ジンファンデルは身体に付着した宝玉を引っぺがそうとしているが、それは皮膚にもコートにもべったりと吸着していた。

 むにいい、と宝玉のくっついた頬を引っ張ったジンは指を離し、肩を落とした。


「取れねえ」


 ナイアガラの知る限り、ジンの習得した「敵の技」に味方を蘇生させる類の技術は無い。そもそも彼のMPは現在ゼロだ。

 さりとて他の世界から来た面々がナイアガラを蘇らせる理由は無い。

 そしてこの空間に立っているのはジンファンデルただ一人。

 つまり――――


「……勝ち残りはおぬしだけか」


「ああ」


 勇者はそれが些事だと言わんばかりに肩をすくめる。

 つまり魔女は神を名乗る女の提示した「勝者特権」によって蘇ったのだ。


(……)


 ナイアガラはこの結末にさほど驚いてはいなかった。

 なぜなら勇者ジンファンデルは『異能』を持つ者に対して恐ろしく強いからだ。


 呪術、護法はもちろん、怪物モンスターの操るよこしまな術、亜人の操る人間離れした特技スキル

 そのすべてを勇者ジンファンデルは模倣することができる。


 多くの場合、『異能』とは絶えざる修練によって会得したものではない。

 生まれ持った技能であったり、感覚的に体得した技であることがほとんどだ。

 魚人マーマンは自分が泡のブレスで追い詰められるとは夢にも思わない。

 翼竜ワイバーンは風を操ることができるのは自分だけだと思い込んでいるし、火竜の鱗は必ずしも炎を防ぐようにはできていない。


 この殺し合いの参加者はいずれ劣らぬ『異能』の持ち主ばかりだったのだろう、とナイアガラは推察する。

 赤髪の男のように戦闘経験豊富な者も少なからず参加していたに違いない。

 だが彼らは自分の『異能』への対処法についてどれほど考えを巡らせていただろうか。

 自分の異能を操るのは自分だけ。――そんな風に考えていたのではないか。


 その心の隙に、勇者は刃を差し込む。

 自分自身の能力と対峙させることで相手の困惑を誘い、複数の「敵の技」を組み合わせた奇抜な戦法で息の根を止めるのだ。


(……勇者、と呼んでいいのかの。これを)


 ジンファンデルは勇ましい男だ。

 ナイアガラは渋々ながらそれを認める。


 仮に彼女が『敵の技』を使えたとして、ああも大仰に「模倣」を振りかざして戦うことはできない。

 なぜなら「模倣」は「本物」の下位互換であり、決して「本物」に敵うことはないからだ。

 魚人マーマンに泡のブレスで勝つことはできないし、火竜に火の息吹ブレスを放つなど愚の骨頂だ。

 大抵の人間はその行動に疑問を抱くし、バカバカしさを感じるだろう。


 その気おくれが、ジンには無い。

 彼はあまりにも堂々と「本物」に向かって「模倣」を突きつける。

 その振る舞いを目の当たりにした対峙者は多くの場合困惑し、失念してしまうのだ。

 彼の技は所詮「下位互換」であり、その場で覚えた「付け焼刃」に過ぎないということを。

 言い換えれば、『模倣されようと工夫されようと、己の経験を信じ、普段通り力押しすれば勝てる』という事実に気付けなくなる。


 ジンファンデルは『異能』を頼る者には勝てない。

 だが『異能』に甘えた者に対しては無類の強さを発揮する。

 ここへ集められた者のほとんどは後者だったのだろう。

 ナイアガラはこの結末にさほど驚いてはいなかった。


 仮にこの場所へ集められたのがリースリングやシュナン・ブラン、カルガネガのように「戦士」ばかりであったならジンはとっくに死んでいただろう。

 ジンは体術や剣術を習得ラーニングすることができないし、よしんばできたところで体系化された「武術」は自身がその技を受けた場合の対処も教授されるのが常だからだ。

 剣術の達人に同じ剣術は効かないし、格闘家に模倣した技を仕掛ければ易々とさばかれてしまう。


 更に戦士と呼ばれる職業人は己の腕以外に頼る技術を持たないため、攻撃の選択肢が狭い。

 彼らにできることは敵の技をひたすらにかいくぐり、武器を振るって「たたかう」か「技」を使うことだけ。


 おかしな話ではあるが、その愚直さこそがジンの天敵だ。

 実際、彼は混乱状態に陥ったリースリングやシュナン・ブランに襲われ、何度か命を落としたことがある。

 当のリースリングやシュナン・ブランが異能や魔法に脆く、それらを前にすると悲観的になるのとは対照的だ。


 戦士、魔法や異能を操る者、勇者ジンファンデル。

 この三者は俗に言う「三すくみ」の関係にある。

 例えばあの髭面の男などはジンに対して有利に――――


(髭……? 妾は何か……)



 ――――その時だった。 

  





『願いは聞き届けましたよ、ジンファンデルさん』






 矢庭に響いた女の声にナイアガラは美しい眉を歪める。

 神を名乗るあの女だ。


(あの女……どこから声を……?)


 周囲を素早く見回したナイアガラは、崩落した古城の陰に見慣れない生き物を認める。


 ――――黒猫だ。

 瓦礫の一つにちょこんと腰かけた緑目の黒猫がナイアガラとジンファンデルをじっと見つめている。


(……)


 猫。

 この状況にひどくそぐわない生き物だ。


 ナイアガラは瞳を細めたが、ジンは見当違いの方向を見つめている。


「ああ。助かったよ。さすがカミサマ」


 どうやら気づいていないらしい。

 あるいは、気づかないふりをしているのか。


「人を蘇らせるなんてすごいな。俺にはとてもできない」


『いつも一言二言多いようですね、あなたは』


 まあいいでしょう、と彼女シーは声を和らげる。

 些末な者の悪あがきには苛立ちよりも愛おしさを覚える。


『では元の世界へ戻してあげましょう』


「待ってくれ」


『は?』


「やることが残ってる」


 ジンに制され、彼女シーはほんの一瞬、考えを巡らせた。

 まさかこの男は本気で自分に歯向かうつもりではないだろうか、と。

 いやさすがにそこまで愚かではないだろう、と彼女はすぐに考え直す。


『手土産でも持ち帰るつもりですか?』


 答えず、ナイアガラ、とジンは呟く。


「とりあえずMPくれ。このままじゃ何もできない」


「ん。うむ。……」


 元の世界へ戻れるのは生き残った二人だけ。

 その前提をナイアガラは忘れたわけではない。


 ジンに魔力を注ぎつつ、ナイアガラは思考を巡らす。


(これからどうするつもりじゃ……?)


 魔女の力を以ってすればリースリング、シュナン・ブランを蘇生させることはたやすい。

 消滅したカルガネガの帰還方法についても、ジンの持つ宝玉を調べれば何か分かるかも知れない。

 だが合計「五人」で元の世界へ戻ることは許されない。

 元の世界へ戻れるのは「二人」だ。


 あの神を名乗る女を力ずくで屈服させることができれば話は別だが、死を経て冷静さを取り戻したナイアガラはそれが極めて難しいという事実に気付いていた。

 何せ向こうは異世界へ転移する術を持っている。劣勢を察すれば瞬く間に逃げ出してしまうだろう。

 さりとて強烈な術を用いれば命を奪ってしまうかも知れない。

 そもそも――――


(奴は今どこにおるのじゃ……?)


 この神を名乗る女は今まで一度もナイアガラの前に姿を現したことがない。

 透明になっている様子は無いし、遠隔地から声だけを飛ばしているようにも感じられない。


(……分からぬ)


 魔女の操る千の魔法も「敵」を見定めなければ発動することはできない。

 彼女シーの居所が分からない限り、ナイアガラは当初の『ルール』に従わざるを得ない。


 リースリングやシュナン・ブランのことを諦めるか。

 それとも自分たちの命を諦めて彼らを元の世界へ戻すのか。


(……)


 がりりと魔女が奥歯を噛むと、彼女シーがほくそ笑む気配が伝わった。


「よっし。ありがとな」


 魔力を注ぎ終えるとジンは軽く手を開閉した。

 その目に微かな喜悦と自信が戻って来る。


「あと、こいつの仕組みをちょっと調べてくれるか」


「ん」


 ナイアガラが予想した通り、ジンは掌に生み出した緑色の宝玉を投げる。

 魔女は目を凝らし、宝玉に渦巻く魔力の「素」を見極める。

 

古陽マナに似とるようじゃの」


「仕組み、分かりそうか?」


わらわを誰だと思っておるのじゃ。どうにかしてやる。……カルガネガをこのままにはできんからな」


「ああ。あと、俺もいい加減こいつを剥がしたい。普通に消そうとしたら俺まで巻き添え食っちまう」


 こんこん、と自らに吸着した宝玉を拳で叩いたジンは「よろしく」とだけ告げてナイアガラに背を向けた。


 一方、彼女シーは得心していた。

 ジンやナイアガラの世界には秘精ヌミノースが存在しない。

 吸着した宝玉を引き剥がせるのはこの世界だけ。

 それがジンの言う「やり残したこと」なのだろう。


「なあ、神様」


『何でしょう』


 ジンは己の斜め上方を見上げたまま、ぼりぼりと頭を掻いて呟く。






「そろそろあんたを殺そうと思うんだが……いいよな?」






 財布をくすねた者に剣を突きつけ、返却を要求する時と全く同じ口調。

 申し訳ないな、けど仕方ないよな、といった心苦しさの滲む声。


 数秒、彼女シーは呆気に取られた。

 だがすぐにふつふつと泡立つような笑いがこみ上げる。


『殺す? 私を? ふふっ……』


 堪えられず、彼女シーはぷぷっと噴き出した。

 危うくそれを見られる寸前、彼女シーは闇へと身を潜める。


『聞きたいのですが、ジンファンデルさん?』


「んー?」


 彼女シーは必死に笑いを堪えながら続ける。


『私がそんな取るに足らないことに付き合うと本気で考えているのですか?』


「別に付き合ってくれなくてもいい」


『?』


「こっちから勝手にやらせてもらう」


 見当違いの方向を見ているジンの姿に彼女シーは哀れみを通り越して滑稽さを感じた。

 彼に問うてみたい。

 相手の位置すら分からない全盲の者に「殺す」などと宣言され、恐れを抱くのか、と。


 もしジンが彼女シーの立場なら、きっと罪悪感混じりのむず痒い嘲笑が浮かぶはずだ。

 現に今、彼女が浮かべているものと同じ笑いが。


『うっふふ。「こっちからやる」? あなた、私に実体があるとでも思って――――』


「思ってる」


『……』


「あんたが本当に実体を持ってないのなら、闘技場に女神の像なんか用意するわけがない。普通にお空の上から話しかければいいだけだ」


『曲解ね。アレを用意した目的は、生まれも育ちも宗教も異なるあなた方に分かりやすく神の存在を伝えて差し上げるためです』


「いいや、違う。あんたは闘技場のど真ん中に像を置いて転移したばかりの俺たちの注意を引きつけた。そして俺たちがそっちに気を取られている隙に安全な場所へ逃げ込んだ。……だろ?」


『……大した妄想ね』


「妄想じゃないさ」


 ジンは稲穂秋鈴いなほしゅうれいの言葉を思い出していた。

 彼は彼女シーの整えた舞台の不完全性から精神の不完全性を見破り、彼女シーの神性を否定した。


 ジンは違う。

 彼はより情意的な観点から彼女シーの不完全性を見つめている。

 勇気を知る者は恐怖を知っている。


「あんたはビビってたんだ。転移したばかりの誰かにいきなり攻撃されることを」


 老いた男が子を持つ親を諭すような、厳めしくも投げやりな声が響く。

 ぼろろ、と古城から剥がれた石礫が地を叩いた。


「つまりあんたには実体がある。俺達と同じ空気を吸ってるし、切られりゃ傷つく肉がある」


 確信を持った口調に彼女シーは押し黙る。


「そもそもあんたは遊び半分、面白半分で俺たちを集めて殺し合いをやらせた。あんたにとって俺たちの命は娯楽だ」


『……』


「娯楽には臨場感が欠かせない。あんたはできるだけ間近で――――『特等席』で俺達の様子を眺めたかった。ところが」


 ジンは右へ十歩歩いたところでくるりと方向転換し、左へ十歩歩く。

 その間も見当違いの方角へ向けた目はそのままだ。


「実体を持ってるあんたは俺達にうっかり近づくと巻き添えを食う可能性がある。あのでかい炎とか。シャールドンの水の剣とかな。『透明』になってもダメだ。空を飛んでもダメ。さりとて自分の肉体を透過させたり、視覚や聴覚だけを俺達に追従させるなんて具合の良い魔法をあんたは使えない。だから始終俺達にくっついているしかない」


 さりげなく含まれた侮蔑の言葉にすら彼女シーは反応しなかった。


「あんたは俺達の様子を確認できて、必要であればいつでも逃げられる場所に隠れていた」


「はて。そんな場所があったかの」


「『靄』だ」


「……『靄』? 妾達を連れ去ったあの『黒い靄』か?」


 秘精ヌミノースを光の粒子に還元したナイアガラが首をかしげると、ジンは深く頷いた。


「こいつは俺達がここへ来た時からずっとアレの中に隠れてた」


 そこで初めてジンは黒猫を見やる。

 黒猫は尾をくねらせ、じっと勇者を見返している。


「靄の中ならいつでもよその世界へ逃げ込めるし、必要な時は俺達と会話することもできる。しかも他の奴の居る場所に移動することだってできる。一石三鳥だな」


「しかし……妾達を監視する位置に『靄』があればお主でなくとも誰かが途中で気づくじゃろ」


 あの黒い靄は明らかに自然現象ではない。

 少なくともナイアガラ達の世界にあのような不気味な現象は存在しない。

 いくら戦闘行動に必死になっているからと言って、あの靄が辺りをふよふよ浮遊していたら犬だって不思議に思うだろう。


「擬態だ。こいつは『靄』を別のモノに変えてたんだよ。それが俺たちを追尾していた」


「それは――――」


「それは闘技場に初めからあった『モノ』で、参加者の意識が女神像に集中している間に安全な場所へ逃げ込んだ『モノ』だ」


 んぐ、とナイアガラは口を噤んだ。

 眼球だけが古城の方角へと動き、黒猫の姿を捉える。

 猫は今や獅子を思わせる堂々とした佇まいで瓦礫に尾を打ち付けている。


『ふふ。想像力が豊かですね、ジンファンデルさんは』


「よく言われる」


 彼女シーは思わぬ方向へ話が進んだことに少々面食らってはいたが、恐怖や脅威まで感じたわけではなかった。

 所詮、浅知恵。

 子供の浅い見識で語られる真実の何と滑稽なことか。


 彼女シーはなおも鷹揚に振る舞う。

 神とはそういうものだからだ。


『では確かめてご覧なさい。私が本当にあなたの考える『靄』の中に居るのかどうか』


「ああ。そうさせてもらう」


 ジンファンデルは宝玉の吸着した片手を突き出し、空いた手でその手首を掴んだ。

 てのひらに三匹のブラックマンバが現れ、螺旋状に蠢く。


「お前が居るのは――――」


 勇者は顔を上げ、黒猫を睨む。


「そこだ」


 ジンファンデルは手の中に凝縮したブラックマンバを――――






 ――――自分の背後に伸びる「影」へ向けて放った。






『!!』


 地面に直撃するはずの黒蛇がジンの影にどぷんと吸い込まれた。

 影の表面は墨のごとくゆらめき、溜息ほどの薄い黒煙が漏れている。


 ジンが飛び退くと、数秒前まで彼が立っていた場所には濃い影が残されていた。

 もちろん、彼自身には本物の影が追従している。


「昼間は黙りこくってたあんたがどうして夜だけやたら饒舌だったのか、考えてたんだよ」


 ごぼぼっ、ごぼっと黒い影が泡立ち、新たな煙を噴き出す。

 猫の方を見ていたナイアガラが事態に気づき、愕然とした。


「夜は影が見えづらいからなァ。俺は焚き火を前にしてたから、影に張りついた『靄』が少々動いたところで気づけない」


「か、影じゃと……!? あの猫……ではなかったのか」


 ナイアガラの言葉にジンは猫を見やる。

 にゃーん、と無害な鳴き声。


「最初はたぶん女神像の影に潜んでたんだろ。で、俺たちが集まり切ったところで猫の影に張りついて外へ出た」


 棚引く黒煙が薄れ、消える。


 やがてジンファンデルの影にはぽこぽこと泡が立った。

 表面がやけに粘ついた、不気味な泡が。


「その猫、わざと今まで生かしてたんだろ? 俺みたいにあんたが実体を持ってることに気付いた奴は最後の最後であんたが猫に化けてると早計して恥をかくわけだ。で、あんたはここぞとばかりにしたり顔で囁く。「ほらご覧なさい、私は神です」とな」


『……』


 ジンファンデルはたっぷりと言葉に毒を塗り、泡立つ影にそれを放った。

 



「あんたさ。器……小さいんじゃねえかな」




 ぼごん、と。

 黒い靄の中から女の白く長い指が覗く。

 続いて傷一つない手の甲が二つ現れ、やがて生白い腕が。


 姿を現したのは目もくらむほど鮮やかなレモン色の女性だった。

 大きなアゲハ蝶を二匹重ねたようなデザインのドレスは淑やかながらもどこか仰々しい。

 ドレスの切れ目やはだけられた胸元、肩口からは濃いルビーレッドの肌着シュミーズが覗いており、形の良い耳やほっそりした手首にも同じ色の宝石が連なっていた。

 首元には若緑色のショールが棚引き、亜麻色の長髪と共に揺れている。


 20代前半の顔立ちと佇まいには気品がある。

 貴族の夜会に紛れ込んでも違和感なく溶け込めるだろう。


 どことなく傲慢さの滲む雰囲気は魔女ナイアガラにも似ていたが、決定的に違うのは温度だ、とジンは直感する。

 ナイアガラはスープのように冷えては温まってを繰り返す女だが、目の前のこの女はただただ氷のごとく冷たい。

 目つきは鋭く、唇には哄笑の名残が見て取れる。

 この女は数秒前までジンを嘲笑っていたに違いない。


「これでも一応勇者やってるからな。お前みたいな奴を放ったらかしにして『還る』わけには行かない」


「……」


 彼女シーの肉体は無傷だった。

 ブラックマンバに噛みつかれた痕は無く、髪も衣服もまったく乱れていない。


 彼女シーの精神は無傷ではなかった。

 それは誰もが感じていた。

 


「遊びは終わりだ、彼女シー


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