第54話 希望と絶望


 体が、頭の中が、すべてが熱い──気づけばリリスの意識は何も見えない暗闇の中に落ちていた。すべてを焼き尽くしてしまうような熱さが思考をさえぎり、今までの記憶をあっという間にぼやかしていく。熱湯の中をたゆたうような感覚に包まれ、声にならない悲鳴をあげながらリリスは必死に耐えた。


 ここで意識をつなぎとめておかなければ、もう二度と戻れないような気がした。そう考えてみて、はたと気づいた。いったい自分はどこに戻りたいのだろう。


 不意に、熱さに侵されていく視界の裏にひらめいたのは、何よりも美しい青だった。たとえるなら嵐の後に雲間からのぞく、どこまでも澄みきった水色。リリスが何よりも好きになった、大切な大切な空の色だ。


そうして次々と思い出されていくのは、何より大切になってしまったひとのもの。泣き虫な自分の涙を、いつだって優しくぬぐってくれた武骨な手。光に透かすと絹糸のように輝いた銀の髪。大切なものを扱うようにそっと抱きしめてくれた腕。命がけで自分を守ってくれた大きくて広い背中。どんなときもリリスを安心させてくれる、低くて柔らかな声。


 今までずっと灰色だった世界に、豊かな色をつけてくれたひと。彼がたくさん自分にくれたものはどれも大切で、愛しくて。ただ逢えなくなることが、こんなにも怖くて切ないのだとおしえてくれたひと。だからこそ、今まであまり人と深く関わらないようにしてきた自分が、初めて自分から関わりを持ち、すべてを知りたいと思った。


 ――そして今、リリスを護るために罠だと知ってもここへ駆けつけ、窮地に陥っているであろうひとのことを思うと胸が痛くなる。おそらくランディの口ぶりが本当なら、今頃彼は王宮付き魔法使いたちに捕まってしまっているはずだ。いくら半妖魔であっても四組の魔法使いたちに勝てはしないだろう。


 あのひとの力になりたいと思ったのに、自分は足手まといにしかなっていない。彼はどんなときでも命をかけて護ってくれたが、いつだって自分は護られてばかりでしかなかった。


 自分を護ってくれる背中を見るのはもう嫌だ。大切なひとが傷つくのは見たくない。護られてばかりではなく、彼の隣に立ち、彼の力になりたいと思った。そのために、世界で最後の一人になっても、あのひとを選ぶ覚悟を決めた。いつも不器用で一生懸命な感情を精一杯向けてくれた、優しいひとを。だから、早く彼がいる世界へ戻らなくてはいけない。こんな暗闇が広がるところではなく、セレスのいる場所――リリスの大好きな、抜けるように青い空がある場所へ。


 だがその願いは、あざ笑うかのごとく押し寄せてきた熱の波に押し流されていく。意識はさらさらとリリスの手から零れ落ちるばかりだ。必死で押しとどめようとする意思に反し、ひときわ激しい熱により意識はどんどんおぼろげになっていった。


 ああ、待って。私に彼のそばへ戻らせて。

 この手で、セレスを傷つける全てのものから彼を護らせて。

 それ以上はもう何も望まない、だから――。


 薄れていく意識の中で、ただリリスはただひたすらにそう願った。渦巻く熱量のなかで、その望みだけが最後の砦となって意識をつなぎとめていた。いったい、どれだけ自分を焼き尽くそうとする熱に耐えていただろうか。不意に耳へ届いたのは、いつだって全力でリリスの力になると言ってくれた、大切な親友たちの声だった。


『こっちへきなさい、リリス。彼があなたの目覚めを待っているわよ――……』

『早くおいで。僕らが道をつくってあげるから……』


 ありったけの力を振り絞って上を見上げると、黒一色で塗りつぶされていた世界に一筋の光が差し込んでいた。それは唯一無二の二人の友人たちが示してくれた、たった一つの救いの手だった。あの光を目指していけばきっともとの世界に戻れる。熱から逃れるように上へと登っていくと、光はだんだん大きくなっていく。あともう少しだと必死に光を目指すと、少しずつ体を焼く熱が弱まっていった。そうしてたどり着いた光の中へ、思いっきりリリスは飛び込む。とたん、ぱあっと広がった白い光が視界を満たした。


 一瞬何もわからなくなったが、ほどなく体を覆っていた熱がなくなったのを感じて意識がもどる。だがなかなか体になじめず、視界も感覚もぼんやりとしている。早く彼の存在を確認したくて、音にならない声で何度もその名を呼ぶ。


 そうしてやっと焦点が定まった目に映ったのは、渦を巻く鋭利な風の刃。空気を切り裂いて進む音が耳の中に響く。それを理解するまえに、空色と銀色が視界にひらめいた。


 上がった悲鳴は自分の口から出たものか、傍らの二人がこぼしたものか。目の前に広がる、ひたすら鮮やかな紅い色。いったいこれが何なのか考える間もなく、開けた世界にはっきりと映しだされたのは、ゆっくりと倒れていくひとの姿だった。


(――あれは、だれ? 地面に広がっていくものは、何?)


 頭が真っ白になって、状況を理解することを拒絶する。目の前で倒れた人が、銀色の髪で空色の瞳をしていても、絶対にセレスなのだと信じたくはなかった。


 できるなら誰か嘘だと言って欲しい。為す術もなく地面に広がっていく赤いものは、一体なんだろう。何もかも認めたくなくて、それでも目の前に広がる光景を無視することもできなかった。操り人形のようにふらりと立ち上がり、彼のそばへと駆け寄った。


 もう、何もかもがわからない。それでも、どうしてと訊くまでもなくリリスは彼が目の前で倒れているわけを理解する。背中に生えた大きな翼も、彼の体も痛々しいほどに傷だらけなのに、意識を失っていた自分はまったくの無傷だ。それが何よりも全てを物語っていた。


 自分はまた護られたのだ。あれだけ護りたいと、力になりたいと願った、そのひとに。


 急に滲んでいく視界をどうすることもできなくて、そばまでたどり着くと崩れ落ちるように膝を折った。見上げる瞳はやはり優しい色で、ただ泣くことしかできないリリスに柔らかく笑いかけ、ゆっくりと手を伸ばす。それはあともう少しというところで届かなかった。


 こんなときまで涙をぬぐおうとしてくれる彼は誰よりも愛しくて、切なかった。涙で定まらない視界の中で揺れる手はリリスの涙でぬれたが、セレスはどこか満足げにさえ見える笑みを浮かべていた。それを見て、ようやくリリスは全て現実なのだということを理解する。こんなにも簡単に大切なものが手のひらから零れ落ちていってしまうなんて思っていなくて、ただ強制的に頭へ叩き込まれた事実に衝撃を受けた。


 何とかして彼の体から流れ出す血を止められたなら。消えていく命をとどめられたなら――そうどれだけ願っても、命の灯はどんどん弱くなっていく。ただ小さな子供のように頭を振って泣くことしかできず、リリスはそんな自分が何よりも情けなかった。そうして次の瞬間、吐息のように零された言葉に全ての言葉を失った。


「もう、二度と目覚めないんじゃないかと思って怖かった。最後まで護ってやれなくてすまない。さよなら、だ――……」


 その言葉を最後に、伸ばされていた手はぱたりと地に落ちた。ゆっくりと閉じられていくまぶたが目に映り、必死でリリスはセレスに取りすがる。それでも二度とその瞳が開かれることはなく、握った手のひらは握り返されないままだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る