第16話 蓮の花は泥沼の中にありて、日の本に咲く

 「瞳孔の反応の停止と心臓の停止を確認しました。6時21分、ご臨終です」と、医師は頭を下げた。氷上映の臨終であった。

 慌ただしくベットから霊安室への搬送の手続きが進んで行く。氷上兵庫は、淡々とその遺体が霊安室へ設置されて、葬儀屋が来るのを待っていた。姉夫婦は一旦家へ帰り、兵庫のスマホを持って来てくれるように頼んだ。

 白い布の掛かった遺体を見やり、最後に残ったタバコ1本を吸いに、喫煙所へと行く。歩いている内に、小高い丘の病院から松伏町の集落の家々と木々と広大な田んぼの光景が視界に入ってくる。メンソールのタバコに火をつけ、静かに喫煙をする。ふと兵庫の知覚は言葉を兵庫の内部にもたらす。

 「ああ、この無数の生命の中の命の一つとして自分はあるんだ」と思う。そう思わせたのは、田んぼのこれから苗を植え、秋には稲穂を実らせる、無量の稲作をイメージしたからだった。奇しくも東日本大震災の起こった日、3月11日の快晴の日であった。

 その後、バタバタと葬儀屋が来て、遺体を家に持ち帰り、男手で安置し、少し一段落する。葬儀の形式の打ち合わせなどは姉が取り仕切った。夜には創価学会の縁故の在る人たちで枕経という呼び名の読経をすることになった。

 枕経が済み、公明党の県議になった人とちょっと話した。何を話したらいいかよくわからなかったので、母親の手のひらの記憶を話した。

 「ああ、お袋の手って若い頃の苦労が祟って、ガサガサのひび割れた手でさ。でもそれもいつか治って」などと話した。兵庫の子どもの頃からの母親の手の記憶は、無残にひび割れた手であって、優しくて豊穣の母の手では無かったことが、フラッシュバックされた。

 次の日も雲一つ無い青空が広がる。近所のスーパーにサラダ煎餅を買いに行く。太陽が兵庫を照らして、兵庫に何かを考えるようにと言われているような気がした。

 スーパーで無料配布の求人誌を四冊手に取り、持ち帰った。

 「ああ、月曜で求人誌の発行日だったな」と思う。

 バイクで野田市川間から、野田橋を越えて、広域農道へ出て、広大な田んぼの中を走る。孤独な魂と無量無辺の生命の萌ゆる地を、雲一つ無い青空と静かにしかしエネルギッシュに光る太陽と。その中をスクーターで走る兵庫だった。

 次の日、朝飯は作ってくれた姉は、疲れてぐったりと横になっている。

 「昼は天丼食べてくる」と言って、兵庫はスクーターを出す。燃料計を見ると驚いたのはガソリンが全く入っていない事に気がつく。やはり母親の死で、バイクの燃料まで気が回らなかったんだな、と思いガソリンスタンドでガソリンを入れる。もう長い付き合いの女性の店員に母親の死を告げる。ねぎらいの言葉を貰って、兵庫はスクーターで春日部駅西口のイトーヨーカドーに向かう。駐輪場にスクーターを停めて、喫煙所で一服し、てんやで天丼を食べる。文具屋の前の自動販売機で一服し、酒々井書店に向かう。とりとめなく雑誌を眺める。「米朝激突」などと書いてある総合誌、誰が消費するんだろう、と言う位現実離れした情報の載っている男性ファッション誌、プラモデル誌、アニメ誌と見て、最後にNHKのラジオテキストを見る。心はうつろで、テキストを手に取って向学心をとも思う気力無く、本屋を離れる。やはり雲一つない青い空と太陽の下にいるのだった。

 「あーこれ、日本神道で言うなら天照大神が降りてるって言うんだろうな」と思ったし、

 「日蓮仏法だと、南無妙法蓮華経が主体になっているのを諸天善神が微笑んで応援してくれている」って言う事なんだろうと思った。

 帰って、近所の自動販売機で缶コーヒーを買って、タバコを吸いながらコーヒーを飲み北向きの青い空を眺めて、思考はうつろだった。近所のおばさんが、訃報を聞き、挨拶する。兵庫は静かな思い出と覚悟を語り、それで自宅へ戻った。母親が亡くなったのを記録として残しておきたかったから、小説にしようと、パソコンに向かう。タイトルは何にしよう、母親の命は法華経だから蓮華であるべきだ、と考え、母親が生きたのはこの濁悪の世は泥沼だ。泥に中に根を張り、美しく太陽の下で咲くのが人間の命だ。人間は自分の意思で生まれてきていないのならば、天が定めた使命があるからだろう、とも考えた。

 そこまで考えて、母親の死に顔を思い浮かべる。シワのない、緊張も苦しみもない微笑さえ見いだせる穏やかな死に顔だった。ふっと兵庫の脳裏にインスピレーションが言葉で湧く。

 「天が確かにお母さんの魂をすくったよ、だから心配しないで前を向いて歩いて行って」と、言葉が閃く。青い空と太陽は兵庫にそう思わせた。7年前の3月11日は、東日本大震災で、東北の海岸地域は地獄の様相で、多くの人が肉親を亡くした。奇しくも同じ日に兵庫は冷静に母親の死を受け入れ、見送っていった。そう出来たのは、長年、「生とは、死とは、幸福とは」と考えて、一つの結論があった。

 「死は生のはじまり」と。

 花が球根の場合、その年に咲き、やがて花は枯れ落ち、翌年また、のびのびと育ち花を咲かせていく。兵庫は家の庭に植えた青いアイリスの花の趨勢を見て、そう思う様になった。そんな死生観をネット上に記録して、未だに心の傷が癒えない東北の人達に、自分はこういう考え方です、と伝えたかった。兵庫は考えた。

 「小説のタイトルは、蓮の花が泥の中に咲くんだよな」と思い、

 「その花を美しく見せるのは太陽の光だ」と統合する。

 そうして、3月11日からの、思考の流れを記録していった。自分と同じ思いをしている人が居るかもしれないし、未だに肉親の死を受け入れられない人達にも、この言葉が届いてくれないかな、と思う。

 やがて、掌編を書き上がる頃、太陽は西に、赤い残光を残しながら沈んでいった。


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