第88話「勝利という実感」
一歩踏み出すことがどれだけ困難な状況かは客観的にみてもわからないだろう。まったく隙というものがないのだから素人ではタイミングなど計れるはずもない。戦い慣れていれば隙をつくことができたのかは今の俺では想像することさえできない。
なぜなら、経験というものは一朝一夕で得られるものでもなく悪魔という神話においてはまさに悠久の時を生きる者。有限の命と限られた時間を生きる人間とではフィールドが違う。どれだけ走り続けても同じスピードならば永遠に追い付くことは出来ずにこちらが先に息切れしてしまう。
それにも関わらず、俺は正面から今ある全力をもって悪魔へと攻めの一手を放ったのだ。悪魔少女とて俺の行動など読んでいたに違いない。回避するかと思いきや一歩も動かず落下を始めた金貨から視線を外すことなく見つめていた。
俺の事など眼中にないという事はよくわかっている。勝敗は金貨の表か裏かどちらかで決まる為、俺の妨害など障害にはならないと思っているのだろうか。どちらにせよ、目的は倒す事でも金貨に細工することでもない。
金貨が地面に落ちた瞬間を目撃されなければ良い。即ちシュレディンガーの猫をやるという事だ。
金貨の表か裏かは目撃して初めて結果として成り立つのであって、金貨が地面に落ちた後も互いに金貨を確認できなければ勝負はつかない。
それならば金貨を二人とも確認できないように、どこか遠くへ投げてしまえば良いのではないかと思う者もいるだろう。だが、それは最も恐ろしい選択だ。
互いに金貨の所在が分からなくなったからゲームは終了というわけではない。
敵に先に見つけられたら、その時点で敗北が決定する。なぜならば自分に確認するすべがないからだ。
勿論、相手が正直に金貨の表裏を応え結果的に勝利することもなくはない。それは運で片づけられることではない。相手のゲームに対する執着に賭けることになる。
それでは不十分。最初からこの勝負は勝つためには何でもするというその一心だった。たとえそれが姑息な手段であったとしてもだ。落ちてくる金貨に合わせて頭を上から下へ動かす以外には微動だにしていない悪魔少女。
目が合う。
金貨は刹那の時間の後に地面に落ち表裏を確定させる。
勝負は一瞬。
ロングコートを跳躍の最中脱ぐと悪魔少女の頭から多い被せるように被せる。
これだけの事をしても抵抗することはなく、立ち尽くす相手に俺は動くことができなくなっていた。
相手の視界を奪った後で金貨を表をし、勝利宣言すればいいと考えていた。
それなのに抵抗もせず、金貨の表裏を確認しようとするそぶりも見せない少女に不安がこみ上げてくる。
力づくで払いのけられることだってあるのだから、金貨を確認するまでは生きている心地がしない。
ここからでは、草木が邪魔で確認することができない。本来ならば二人で落下地点へ確認しに行くのだがそれは俺の目論見で一時的に叶わずにいる。
不気味だ。
もうすでに何時間も経ってしまったかのような錯覚を覚える。
時間が止まったかのような錯覚。
俺は知っている。時間など数秒と経っていないというのを知っている。悪魔の少女が動かないのは俺の今こうして視界を塞ぐようにロングコートを被せたのが意味のない行動だという事を心のどこかで感じていた。それを知っている。
そうでなければこの状況が不気味で仕方がない。
この悪魔は笑っているを知っている。
視界を封じたとしても表情が変わるのは伝わってくる。
(俺は負けたのか……)
声を出せずにもがもがと言って盛大に笑っているのがわかる。
敗北から来る感覚。
血の気が一気に引いて膝から崩れ落ちる。コートは少女の頭に被せたままなので、悪魔少女は専ら布をかぶったお化けのような格好だ。
俺は金貨の表裏を確認していない。
それにも関わらず敗北したかのような絶望に苛まれてしまい、視界がぐらついて立ち上がることができない。
早く確認しなければいけない。正確には表であることを確認しなければならない。
そうでなければいけないというのに、身体が動かない。
悪魔少女はそもそもなぜ笑っているのだろうか。
視界が塞がっているのだから俺が表にしてしまえば勝敗はひっくり返るというのに、なぜ笑っていられるのだろうか。
雨が一層強くなり、俺のフル回転していた脳の熱も冷めていく。
冷え切った脳に笑い声が響いた。
そして、信じられない一言を……。
「君の勝ちだよ。小細工は意味をなさないってね」
少女の口からはまさかの敗北宣言。
俺も悪魔少女も金貨は確認していないはずなのだが、どういうことなのだろうか。
兎にも角にも俺は勝負に勝ったようだ。
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