水面を渡る

 大学時代の四年間をこの町で過ごした伸治も、この病院には初めて入る。ただ、瑞希の家に近い場所のため、デート帰りに瑞希を送りがてら、近くを通ることは多かった。川と林が近くにある、静かな建物だった。


 空調の効いたロビーにはほとんど人がおらず、どこか寒さを感じるようにも思える。総合病院とはいえ、町の中心部からは少し離れているためか、受け付けに座る女性の係員も、どこか暇そうな様子で手を動かしていた。


 狭い間隔で並べられたベンチの片隅に、若い女性が座っていた。伸治は少し迷ったが、この場にいる若い女性は彼女だけだ。思い切って声をかけた。



「すいません、麻奈さん……ですか?」



 声をかけられたその女性は、慌てて立ちあがって伸治に応えた。



「あ、梅村さん、ですね。はじめまして……」


「はじめまして」



 伸治が瑞希に送ったメールに対し、返信をくれたのはこの麻奈だった。


 瑞希の妹だという。伸治は初対面だ。


 瑞希と同じく、印象的な切れ長の大きな目は、確かに血の繋がりを感じさせる。


 肌は白いながら血色がよく健康的な印象を与え、顔の輪郭も丸く、快活さを感じさせるのが瑞希とは違うところだ。髪は軽い茶色に染めているようだった。



「それで……瑞希は?」



 伸治は性急に問いかけた。麻奈は頷き、案内しますと言って廊下の先へと向かった。



 病室の白いベッドの上に、点滴のチューブに繋がれて、瑞希は横たわっていた。


 その顔は見るからにやせ細り、白い肌は土気色に濁っている。艶やかだった黒い髪は長く伸びていたが張りがなく、肩の上に生気なくただ落ちていた。



「瑞希……」



 伸治は瑞希の顔を覗き込んだ。やつれてはいるが、確かに瑞希だった。


 伏した目元が今にも開きそうな気さえする。しかし、その姿はあまりにも弱々しく、頼りない。


 しかし、伸治の思考はそこで、感情の奔流を妨げた。



 ――ここに横たわっている女性は、自分の知っている瑞希なのだろうか?



 伸治にはその確信が持てない。


 この瑞希は、果たして伸治のことを知っているのだろうか、また、知っていたとして、その伸治は本当に自分なのだろうか――?



 十三年前と全く同じというわけにいかないのはわかっている。しかし、今こうして変わり果てた姿を目の当たりにすると、昨日のパーティ会場で直面した疑念が、またもや首をもたげてくる。



「ここ一ヶ月ほどは、ずっと昏睡状態なんです。これまでも何度かこうなることはあったんですけど」


 伸治の考えを余所に、麻奈は瑞希の病状を説明し始めた。


 生まれつき心臓の弱かった瑞希は、二十五、六歳ころから入退院を繰り返すようになったのだという。そして今は、これまでで最も長く、半年近く入院が続いているということだった。



「すぐにどうにかなっちゃうようなことはないらしいんですけど……それでも、ある程度の覚悟はしてます」



 瑞希が心臓に病気を抱えているということは、伸治も聞いていた。


 子供のころ、入院のため学校にいけなかったこともあったのだという。伸治と付き合っていたころには、入院するようなことはなかったのだが、たまに薬を飲んでいるのは知っていた。



「梅村さんからのメールに気がついて、すごく迷ったんですけど、お姉ちゃんのお知り合いの方にはなるべく知っておいてもらおうと思って」



 麻奈の話を聞く伸治の心にはしかし、胸が潰れるような想いも、かきむしるような感情も、涙も湧いてこなかった。


 黒い髪の女性がベッドに横たわって昏睡する様子。それを伸治は、ただただ、ひたすらに冷静に眺めていた。



 漠然とした虚無感が心の中にあった。


 十三年前に伸治の未来を予言し、あの「光景」を見せた瑞希自身の、十三年後の姿がこれだというなら、なんと皮肉な話だろうとは思う。一方で、今ここに横たわっているのが、自分の知る瑞希と同一の存在ではないのでは、という疑念も未だ拭えない。


 もし――今ここにいる瑞希が十三年前の瑞希でないとしたら、今自分はなぜここにいるのだろうか。


 伸治があの「光景」にたどり着き、今この時間の中で瑞希の前に存在しているのは、他でもない瑞希のおかげだったはずだ。ならば今、あの光景を見た自分自身がこうして、対面している瑞希は、一体誰なのだろう――

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