第13話

力輝が秋宮へ戻ると、途端に宮中は騒がしくなった。しばらく姿を見せない間、いったい何をしていたのやら。それと関係があるのかもしれない。今度は、白帝と竜田姫の姿が見えなくなった。毎日のように足しげく離宮へ通いセンを構っていてくれた二人が来なくなると、独りすることもなく、濡れ縁から釣り糸を垂れて日がな一日過ごすしかなかった。


「よう。太公望。釣れたかい?」


気付けば知らない若者が、傍らに立ってセンを覗き込んでいる。虎皮を羽織った勇ましい姿の少年は、空の魚籠ビクを持ち上げてにかっと笑った。


「お前、魚釣り下手なんだなぁ。まさか針先が縫い針ってことはないんだろう?」


貸してみろよとセンの持つ竿に手を伸ばした。


「えっと、以前お会いしました……か?」

「え? あぁ! 悪い悪い。俺だよ。力輝だよ」


そこで力輝は漸く気が付いて、顔だけ虎に戻って見せた。

いきなり姿を変えて見せたので、センは『わぁ!』と驚いて後ろにのけぞる。それをみて力輝は虎顔のままうれしそうに笑った。


「そんなに驚いてくれると、俺も化けがいがあるな」


針先に器用にえさを付けながら、『最近はみんな知ってるから化けても面白くない』などとぼやく。


「力輝さまはどこに行っていたの?」

「さまは止めろよ。力輝でいいよ」


センの他人行儀な呼び方に、力輝は人に戻した顔をしかめる。


「ちょっとね。知り合いを頼りに月まで行ってきたのさ」


センは月と聞いてまた驚いた。

どれほど高く空を登れば月に届くというのだろう。センには見当もつかない。それを、『ちょっと隣町まで行ってきた』というような軽さで言うのだから、さすが霊獣といったところか。


何を話しても大げさに驚いて見せる--突拍子もない話だから無理もない--センに、力輝は気を良くして月の事をあれこれと話してくれた。


特に白嶺の話に触れると、力輝が幸せそうに微笑む。

『好いた人なの?』と、尋ねると、力輝は照れくさそうに『内緒だぞ』と少し怖い顔をして見せた。恋に関して、彼は少し天邪鬼になってしまうのだろう。

センは誰にも言わないと約束をした。


「ところで、センは弓を使ったことはあるか?」

「はい。少しなら」


センは考えつつも少しはあると答えた。

人里にいたころ、兄のまねをして兎や鳥を射たことがある。侍や猟師が使う弓からすれば玩具のような弓だ。それでも目のいいセンは、鶉や栗鼠を数匹射ることが出来、わずかばかりの銭を得ることもあった。


「凄いじゃないか。そんな小さな的に当てるなんてなかなかの腕だぞ」


褒められたセンは少し赤くなり、はにかんだ笑みを浮かべた。

センが弓を使ったのは暮らしのためであり、その独学の技術を褒められることなど無かった。


「安心したよ。それなら羽廾殿と狩りに出ても大丈夫だよね」

「え?」

「牧狩りで腕比べをするんだよ」


かつては弓の達人と名を轟かせた羽廾を相手に、まだ年端もいかぬセンに腕比べをせよと言うのである。


「はぁ!?」


素っ頓狂な声を上げ、なんと言ったものか言葉を探して何も言えないセンをそのままに、力輝は針にかかった魚に喜び立ち上がった。


「お、これはなかなか良い型の鯉がかかったぞ」

「無理! 相手は弓の達人なのでしょう?」


ようやく声が出てセンは慌てて断る。

一方力輝は聞いているのかいないのか。釣竿をしならせて、大魚を何とか釣り上げようと格闘していた。雑魚用の細い竹竿は、大きな鯉の引きに苦しげに軋む音をあげている。その今にも魚がバレて逃げていきそうなようすに、センは会話の途中に竿を気遣う。


「竿が折れてしまうよ……」


竜田姫から借りた竿を壊したくなかったのだ。

しかし、力輝は諦めようとしない。動き回る魚に合わせて竿を操りながら、力輝は顔をしかめる。


「簡単に無理なんて言うな。やっても見ないうちに」


狩りの腕比べの事なのか、鯉を釣り上げる事なのか。

両方かもしれない。力輝は言葉を続ける。


「自力で抗ってみて、手に余るようなら知恵を借りて、それでもダメだったら手を貸してもらう。手を尽くすってそういうことだろ?」


暴れまわる魚から少し目を離してセンを見る。


「センはここにいるって決めたんじゃないのか?」


無理かもしれない。

でも、やる前から諦めるようじゃ、自分の場所を得ることなんかできないぞ。


「分かってるよ」


でも、見込みのないものを信じてダメになるのが怖かった。

まるで時々、この世界は自分へ出て行けとでも言うように不幸を重ねる時がある。


「なんだい。人の身で、単身こちらの世に乗り込んできた君らしくもない」


巧みに糸を操りながら、鯉が疲れて抵抗しなくなるまで力輝は待っている。視線を魚に合わせたまま微かな笑みを浮かべた。

雨女がいたとはいえ、未知の世界に来る決意を一瞬で固めたセンの話を力輝は知っていた。その肝の据わった判断を言っているのである。


例え仕損じても命を取られるわけじゃなし。

ならば、万が一つにも勝機があるなら賭けてみるのも良いじゃないか。ダメならダメで、次を作ればいいのだ。


「たもを取ってくれる?」


いつの間にか静かに引き寄せられ、大人しくわき腹のうろこを光らせている鯉を見て、センがたもをおろした。網に掬われ濡れ縁に引き上げられた鯉は最後の抵抗とばかりにしぶきを飛ばしてはねている。その口より釣り針を外しながら力輝はつぶやいた。


「こんな小さな釣り針が、大魚を吊り上げることだって出来るんだ。頼りない細い竿だって、信じて精一杯知恵を絞れば折れることはない。自分にできることをすればいい。一緒にやろう」


--そうかもしれない。


たもに抑えられた大きな鯉を見ながら、センは表情を引き締めてうんと頷いていた。

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