第28話「フィンランド・ロヴァニエミ(8)」
老人は語り始めた。ゼンが、俺にわかるよう噛みくだいて伝えてくれた。
「1911年、南米アマゾンのジャングルで、十数名からなる探検隊が、あの怪物と遭遇した、ディアーボだ、
隊はほぼ全滅した、だが奇跡的に無傷で生き残った者がいた、信じられない強運の持ち主だった、
彼はもともと財力にかけては世界でも有数の家の出で、第一次大戦に世界がなだれ込もうとする不穏で薄暗い時代に、スポンサーも募らず私財のみで好奇心を満たすためだけの南米周遊へ出かけるような男だった、要するに人生に退屈しきっていたのだ、
その彼が、怪物に襲われながらサバイブしたことで、生きる目的を見出した、つまり残りの人生をかけて、怪物の正体を突き止めようとしたわけだ、
それが、私の、祖父だった」
ひと息に喋るのが苦しいのか、老人はときおり小さく咳き込む。それでも、彼は話を止めない。
「祖父はあらゆる手を使って怪物のことを調べようとした、だがたいした情報は集まらなかった、時代が悪かったのだよ、あの時代には金と権力を使っても、手に入る情報などたかが知れていた、何よりディアーボについて極秘裏にでも確認されている事実そのものがあまりに少なかった、
祖父の執念は、当然その息子である我々の父に引き継がれることになる、だがうまくはいかなかった、父は変わり者だった、祖父が息を引きとるその直前まで祖父の命に従っているように見えた父は、祖父の死後、はじめて本当の姿を見せた、
といっても血と殺戮を愛する偏執狂などというわけではもちろんない、彼はただ、純粋な、芸術家だった、
才能の有無は別にせよ、無垢なる一介の、アーティストでありたいと願ったのだ、
父は、40代半ばにして、まるで生まれて初めて玩具を与えられた幼児のように、楽器に没頭した、彼は音楽家を夢見ていた、小さい頃からひそかに愛でてきたというヴァイオリンを、誰の目も気にせず一日じゅう奏で続けた、
当時10歳を少し過ぎたばかりだった私は、父のヴァイオリンの調べをよく覚えている、いま思い返してみても決して巧いとは言いがたいものだったよ、
だけどね、なんというのかな、愛が込められていたよ、陳腐な言い回しになるが、確かに、父の演奏には深い愛が伴っていた気がする、それが誰に向けての、何に向けてのものなのかはもうわかりっこないがね」
小屋を囲む北極圏の大森林、その遠くどこかから鳥の声が響く。透きとおる水のような澄んだ鳴き声だ。老人とゼンにも、この声は聞こえているのだろうか。
「父はそれから数年のうちに、ひどい病に冒され、あっという間に衰弱してこの世を去った、だが亡くなるその日まで、彼は幸福だったと私は思う、没頭できる何かがあり、それが他者の犠牲の上に成り立つ類のものでないのなら、それだけで人生は充実に満ちたものになる、これは私の持論だよ、
一方で、兄は父とはまったく対照的な人間だった、端的に言えば、実につまらない男だよ、経済戦争に勝つことが生のすべてだと思っている、これ以上稼ぐ必要などないのに、ほんの半日余暇を楽しむことさえできない、浅薄な男だ、
だがその彼も、子供の頃は、よく遊び、よく笑う、どこにでもいる一人の少年だった」
実につまらない男だ、と批判しながら、老人の口調は淡々としていた。兄に対する複雑な感情を、どうにか抑え込んでいるのかもしれない。
考えすぎだろうか?
「父の死後、ほどなくして私は家を出た、そこから先は想像に任せるが、まぁ今とほとんど変わらない、自由気ままに、俗世から離れて、自然とともに暮らしている、それが楽な世界だとは言わないがね、自然はときに、いや常にと言っていい、無慈悲で残酷なものだからね」
老人の最後の言葉に、俺は、親父のことを思い出し、重ねた。自然は残酷だ、と言いながら自然とともに生きた親父は、このロヴァニエミよりも広大で過酷なアラスカの大風景のどこかで命を落とした。
「私が生家を飛び出したとき、7つ離れた兄はすでに成人していて、父の生前からいくつものビジネスを手がけていた、
突然出奔した私を、兄は初め放任した、ありがたい、と私は思った、だがそれはただの勘違いだった、
兄は待っていただけだった、私が自然の中で生きる喜びに浸りきるのを、
そこに浸りきった私はその幸福を取り上げられることを何より恐れるに違いない、兄は初めからそう見抜いていた、そしてある日、私のもとへ彼の使者がやってきた、その日から私は、兄の忠実なしもべとなった、
私をしもべにしたことに深い理由などおそらくない、あの頃すでに、兄は童心を取り戻していた、だがその童心はかつてのように無垢なものではなかった、ねじれ、汚れきった雑巾のような心さ、すべてを自分の思いどおりにしたいという、それだけだよ、
彼は私を管理下に置いたそのすぐあと、最高の遊び道具を見つけた、それがあのディアーボというわけだ、兄がどう知ったのかはわからない、祖父の書庫に隠された古びた調査記録を見たのかもしれないし、何代も前から一族の屋敷に住まい実務の一切を取りしきる執事の誰かから聞いたのかもしれない、だがそんなことは、さして重要ではないのだよ、
重要なのは、兄は、私財をすべて投げ打ってでも、ディアーボの正体と、やつらがやってきた世界をつきとめたいと考えているということだ」
老人の話には奇妙な矛盾があった。自然の中で気ままに暮らしていると言いながら、実際は兄から管理されているという。だがその矛盾を、俺も、ゼンも、指摘しなかった。
彼の中のささいな矛盾などどうでもいいと思った。早く、話の続きが聞きたいという、渇きにも似た衝動があった。
「だが祖父のときと条件は同じだった、情報が致命的に少なかったのだ、どれだけ金を投じようとも、存在しない情報は集めようがないからね、ちらほらとディアーボの出現情報はあったものの、確認が難しい区域であることがほとんどで、そのために目撃者も生存者もなかなか確保できなかった、怪物に取り憑かれた兄だったが、数十年もの歳月を捧げながら、祖父の時代から比べて、たいした進展を得ることができないでいた、
きっかけは、あの、6月のマナウスの事件だった、くりかえしになるが、それまでディアーボの情報は非常に限定的だった、やつらは呆れるほど気まぐれで、出没する頻度も、その場所も、また姿を見せた際にとる行動の、いや行使する暴力の度合いも、さまざまだった、
ただひとつそれらしいとわかってきたのは、何の法則性もないということだ、やつらは徒党を組むでもない、現れるときはいつも単体だ、そして姿かたちにも共通して見られる特徴はなく、探索者にとっては絶望的なことに、出現場所にもまったく規則性はない、これまではそう思われてきた、
唯一共通点があるとすれば、連中は驚くほど好戦的で、とくに人間を獲物として狙い、捕食するわけでも連れ帰るわけでもなく、その場で、幼児の思いつきのように、ただ暴れて、おもちゃでも壊すように、破壊した、ということだ、
つまり、稚拙だが圧倒的な暴力だけが、ディアーボという怪物の共通項だと、情報を握る者たちは考えてきた、
だがね、どうやらもうひとつ、共通する特性があるようだと、一部の人間は気づいた」
場所だろ、ゼンが下から射抜くような目を向けながら、老人に言った。
ふいを突かれた老人は一瞬、ほんのわずかに顔をこわばらせ、視線だけをゼンへ向けて、それからため息をつき、頷いた。
「そう、場所だ」
俺は交互に二人の顔を見た。どういうことだ、場所って?
穴、だ。
老人が、ひとり言のように呟いた。
穴?
「世界最大の密林を擁するブラジル、ベネズエラ、驚くべき原生林を麓にたたえるマウント・富士、未開の区域もまだ多く残る中国南西部の山林地帯、そして国土の70%が森林に覆われたこのフィンランド、
これらに共通するのは、人の手がまだ入り込んでいない大自然、そして、穴だ、ブラジルやベネズエラに比べ、中国やフィンランドの該当エリアは、知られていないものの、極秘の調査で自然の造形にしてはあまりに深い穴が点在することが確認されている」
俺は、樹海の縦穴を思い出した。
ゼンもそうに違いない。
アイリに案内された人無し穴、鎧の怪物が黒いディアーボとともに落ちていった洞穴の奥に空いた穴、ゼンと俺を異形のバケモノが群がる地獄のような砂漠へと導いた縦穴……
俺の中で、何かが繋がった気がした。
「お前たちは、面白い」老人は、唐突に話題を移した。唐突だが、そうと感じさせない奇妙な自然さもあった。
「私の人生は、私の周囲の人間は、ひどくつまらない」
老人は、重苦しい口調でそう呟いた。
「パワーを手にした人間がとる行動は決まっている、そのパワーを存分に行使して欲望を叶えようとするか、あるいは、圧倒的な力を制御できない自分を恐れ、怯み、そして持て余して逃げ出すか、そのふたつしかない、
だがお前たちは違う」
お前たち、と言いながら、老人はまっすぐに、俺を見た。
「パワーを手に入れても、何も変わらない、変わる必要がないと自覚する人間もいたのだ、
そうと知る日が、死ぬまでに来るとは思わなかった」
老人は席を立ち、壁際の棚から紙とペンを手にして、ふたたびテーブルについた。そして静かに、何かメモをとり始めた。
やがて書き終えたのか、ペンを置き、その紙を俺にそっと差し出しながら、友人たちは、と老人は言った。
「お前の友人たちには、ここへ行けば会えるだろう」
その言葉に反応して、俺は自然と手を伸べ、老人から小さなその紙きれを受け取った。受け取るとき、かすかに自分の手が震えているのがわかった。緊張と期待から来る震えだった。
紙を手にした俺を、老人は真剣な顔つきでじっと見据えていた。それから、行きなさい、とでも言うように、入り口のドアを目で示す。その目には、有無を言わせない凄みがあった。
ゼンが、先に席を立った。俺の肩を一度叩き、無言のまま入り口へ向かい、そのままドアを開けて外へ出てしまった。
俺は視線をゼンの背中から、目の前の老人へと移した。老人は先ほどとまったく変わらない表情をして、俺を見ている。
彼がもう一度、視線で入り口を示した。もう行け、と言っているのだ。せり上がるいくつもの質問を飲み込み、俺は立ち上がって開いたままのドアへ向かった。
ドアの外で、ゼンがこちらを向いて立っている。俺と目が合うと、ゼンはあごをわずかにしゃくり上げるジェスチャーをした。その仕草に促されて、俺は室内の老人を振り返った。
凄みを宿した眼差しで、老人は俺を見ていた。だがふっと、彼の表情が穏やかになる。
老人はシワだらけの顔に、薄く微笑みを浮かべながら、フィンランドの言葉で、ありがとう、と俺に向かい呟いた。
「キートス、日本から来た若者よ、お前と友人たちの、幸運を祈る」
俺は一度だけ頷き、彼に背を向けて、コーヒーと埃のにおいが立ち込めるその小屋を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます