第269話・無常風とのこと
「ちょ、ちょっと待ってくれ?」
手をかざすように、ムツマサの言葉をせきとめる。
「いまマミマミの本名を言ったんですよね? たしかこのゲームって……登録されているプレイヤーの本名しかNGにならないはずじゃ?」
昨夜、ハウルがオレを普段言っている
そうだとわかっていることなのだが、確認しないわけにはいかない。
「シャミセンさんがおっしゃったとおりだ。どういうわけかマミマミの本名がNGワードにかかっている」
ムツマサが苦悶を見せた。
「それなのになぜ****の名前が言えない――いや、言えなくなっているんですか?」
ジンリンが、それこそ彼女自身が考えてもいなかった状況に、当惑の色をむき出しにした。
「クエストと関係しているというわけではない――か。NODでおきている事故を装った殺人はクエストってわけじゃないだろうし」
「当たり前でしょ! さすがに
けげんな顔を浮かべていると、妖精は柳眉を逆立てるようにオレをにらんだ。
「いい? 昨夜、コクランさんが言っていたことだけど、たしかにVRギアから発せられる微弱な電波を用いて脳から発せられる痛感を痛みとして与えることはできるけど、人体に影響を与えていない」
「それはわかるけどな、ケンレン……いや、コクランの考えはそれこそロボトミーだろうが?」
「あのねぇ、それはまだ医療が発展されていないときで、いまじゃかなりの日進月歩をしているはずだと思うけどなぁ」
「ってことは、技術的には可能ってことだったのか」
「あくまでボクの仮説でしかないけどね、痛感設定ができている時点でかなり可能だったんだと思う。ほら腕全体を怪我したとかならともかく、藪の中を歩いているとこしょばゆいことってない?」
ジンリンが言いたいことがなんとなくだったがわかった。
「つまり大まかな部分ではなく繊細な部分まで痛感があるってことは、それを言い換えれば――電波を通じて人を操ることも可能だったってことか」
ムツマサを一瞥すると、彼は困窮した顔色を浮かべていた。
「もちろん彼がそんなことをするとは思えないけどね」
「そりゃぁまぁそうだろうな――んっ?」
ある違和感が拭えず、オレは、
「ジンリン、VRギアのテストプレイをしたさい、どんなことがあった?」
と妖精を見据えた。
「テストプレイのとき? 実際ちゃんとプレイができるかとか、痛みがあったのかとか――」
ジンリンは自分の言葉に「はて……?」と違和感を覚える。
それを狙い撃ちするかのように、オレはジンリンを指差し、「それだっ!」と声を張り上げた。
「つまりお前がテストプレイをしていた時点で、すでに痛感設定はデフォルトとしてあったってことになるっ!」
「『臨場感を与える』って意味ならわかるけど……ちょっと待って? ボクやニネミアがプレイしていたのはフィールドを動き回ってモンスターを倒すやつだったけど、攻撃されても痛みとかはなかった」
オプションで痛感設定が入っていたのかと聞くや、
「いや、それはなかったかな。キャラ設定とかログアウトの部分はあったけど」
と、ジンリンは片眉をしかめるように返した。
「ただ高いところから飛び降りて着地に失敗したら最初のところに戻っていたけど……」
ジンリンが自分の言葉に引っ掛かりがあったのか、言葉をとめる。
「そういえば、あのときに妙な――それこそ気付かないうちに薮蚊に刺されたみたいな感じで、後になって痒みがあったんだよね」
「痛感設定があったんじゃないか」
なんだ……と、嘆息をついていると、
「ううん、ちがうの***。その痛みってゲームの中じゃなくて『ログアウトした後だった』んだよ」
それこそ理解が追いつけず、ジンリンは目を見開いていた。
「後になってって? ――ちょっと待てっ!
「可笑しいよね? ゲームの中での痛みが現実で、後になって感じるって」
「いや、そういう現象はすでにある。ほれ筋肉痛などがいい例だな」
ムツマサの言葉に、オレは首をかしげる。
このはなしと筋肉痛がなんの因果があるんだろうか?
「筋肉痛のメカニズムは、まず疲労物質の蓄積からはじまる。この疲労物質が痛みの元だ」
「でも、たしか疲労物質は徐々に分解されていくから、すぐには筋肉痛を感じないし、一両日あとに来る場合は疲労物質は関与していないはずじゃ?」
ジンリンがそう付け加える。
「んっ? それじゃジンリンが感じた後々の痛みはそれとは関係ないってこと?」
「いや、筋肉痛っていうのは運動によって小さな断裂を起こした筋肉を回復させるためにおきる現象だからね。最初の痛みは筋肉にたまった疲労。後になって感じる筋肉の痛みは新しい筋繊維が合成されているってことになる」
話を聞きながら、ふと妙な感じがした。
「つまり、お前が後になって感じたのはその痛みだったってことか?」
「今になって思えば……だけどね。つまり筋肉に疲労がたまっていたことにたいする回復を、ボクは蚊に刺されたみたいなものだと勘違いしていたってことじゃないかな」
しかし、どうも腑に落ちんな。
「そういえば***、塾長……キミのおじいさんがよく**ちゃん――」
んっ? ジンリンがなにかを言ったようだけどNGワードに引っかかったようだ。
「っと、いつもの癖で本名を言ってた。あっとハウルさんがよく柔道の稽古をしていた時のことだけどさ、結構スパルタだったよね?」
「あ、そうか。ジンリンもあいつにとっては昔なじみになるから、結構見学に来てたんだよな」
そんで、その後一緒に銭湯に行くというのがいつものパターンだった。
「それがどうかしたか?」
「普段から運動している人はさっき言っていた筋肉痛のメカニズムがが一日のうちに起きるの。逆に言えば運動していない人は疲労と回復に誤差が起きるってことだね」
「……ってことはあれか? そもそも筋肉の回復に個人差自体がないってことか」
痛感はなくとも運動量における筋肉の疲労はあったってことか。
「……なんともおぞましいな」
運動量にもよりけりだろうけど、感覚があるから疲れみたいなものはあったのだろう。
疲れるのはせいぜい脳かコントロールを持っている手くらいなものだ。
もしくはそれを動かすための腕の筋肉か……。
「ムツマサさん……ひとつお
「脳は【大脳】・【間脳】・【脳幹】・【小脳】・【脊髄】と大きく五つの部位に分かれている。さらに大脳には大脳皮質・大脳基底核。脳幹には中脳、延髄といった感じに分かれていて、それぞれに人の運動をつかさどるネットワークがつながっているのだがね」
ムツマサは虚空からパイプを取り出し、それを口にくわえた。
ふぅ……と、ため息とともに紫煙を吹き出す。
「神経のネットワークというものは、人の運動をつかさどる大脳皮質にある運動野から発せられるニューロンから中脳、橋、延髄、脊髄を通じて筋肉に伝わり、腕を動かしたり目を閉じたりしている」
つまりそれを刺激すれば動かすことは可能ってことか。
「物を見たり、触れたり、人の話を聞いたりといった知覚は、まずそれを感じ取った神経からニューロンが脊髄を通り、視床を通って大脳の感覚野に伝わるわけだね」
コクランが言っていたのはこの連動があるからだろうな。
「プレイヤーが痛みを感じたりしているのは、そういったネットワークがあるから、痛覚を脳に与えていたってことになるわけだな」
なるほど、それならそんなに難しいことじゃない。
細かい部分はいかずとも痛感による設定は難しくはなかったということだ。
「しかし、VRギアから発せられる電波は、あくまで人の知覚をつかさどる感覚野に刺激を与えているだけに過ぎない。そもそも玉帝がこのようなVRMMORPGを作ろうとしていたのは、『障害を持っている人に色を見せようとしていた』からなんだ」
ムツマサは、ちらりと周りを見渡すと、木で作られた手頃なまるい椅子を見つけるや、それに座った。
「
「いや、これはあくまでわかりやすくで例えたんだがな。よく牛は赤い色を見ると興奮するといわれているが、あれは迷信だ。そもそも人間は色を識別できているが、他の、嗅覚が優れている動物の視界はモノクロといわれていて色の識別はできていない。ならばどうやってものを見分けていると思う?」
オレはけげんな顔を浮かべながら、「嗅覚ですか?」と答えた。
「うむ。動物の嗅覚は人間の何倍もあるといわれているからな。それで間違いはない」
「はて、それと玉帝がしようとしていたことって」
首をかしげながらも、その答えはなんとなく判然としていた。
「なるほど、嗅覚や視覚、味覚なんかに障害があるひとは、感覚野に通じるまでのあいだ、特に視床にいたるまでに弊害があるってことか」
「まぁ一概に同じ障害でも症状は様々だからね。VRMMOの中で知覚を感じるってことは、それに対して作られた電波を、感覚野に直接与えていると思っていいかな。もちろん倫理の範囲内でだがね」
それをマミマミ……いや今はそれすらオレの勘違いかもしれないが……。
「人の記憶を盗むなんてことは可能なんでしょうか?」
と、ムツマサにたずねる。
「記憶は主に大脳辺縁系にある海馬が一時的な記憶を保存し、長く貯蔵するものは大脳基底核に蓄積される。つまり簡略的な記憶は海馬を刺激すればとなるのだが……特定の記憶を奪うということはまず不可能に近い」
「でも、現にオレやビコウ、セイエイや何人かのプレイヤーがその影響を受けている」
話をしながらも、オレはジンリンに視線を向けていた。
彼女が妙に、それこそメランコリックな空気を漂わせていたからだ。
そんな彼女に、「どうかしたのか?」と声をかけると、
「あ、ごめん***。ちょっと考え事してた」
と、あわてた表情でオレのほうに視線を向きなおした。
「なにかわかったことでもあったのか?」
「いや、ちょっと自分でも現実味がないというか、いやボク自身がそれを経験しているからやっぱり現実感が増しているというか」
なんとも煮え切らないが、
「言っちゃ悪いけどな、お前の存在自体現実味がない」
と言い返しておく。
「あぁ、いやそれはボク自身わかってるから」
落胆するな。こうやってまた馬鹿話できるんだからさ。
「で、現実感が増しているってどういうことだ?」
「っと、あのさぁさっきボクは痛みを後になって……ログアウトした後に感じたって言ったよね? それとVRギアを所有しているプレイヤーが突然投身自殺したって話が妙にかみ合っているんだよ」
えっと、たしか感覚が後になって――。
「ちょっと待て……ということはあれか? 脳がそれを後になって運動するようにプログラミングされているってことか?」
オレは唖然とした顔でムツマサを睨んだ。
「そんなことが可能なのか……」
「いや不可能に近い。脳の細胞は約百四十億個で構成されている。大脳にある感覚野から痛覚を感じさせることは可能だが、それこそレコードの予約のように後になって運動野を動かすなんてことはムリな話だ」
「――人がなにかを覚えようとしたときも脳の血流って流れるのか?」
「んっ? そりゃぁそうでしょ。脳の血流って言うのは神経が働いているなによりの証拠だからね。ほら、テレビで脳の動きを映像化したモニター画面を映すときがあるじゃない?」
たしか、そういう部分は活発に動いているみたいなところだったっけか。
「それが動いてなかったらそもそも……」
ジンリンは、最初オレに対してあきれたといった顔だったが、次第に、それこそ狐につままれたような顔を浮かべた。
「もしかしてそれを合図に、***は人の記憶からそれをしないようにせきとめていた?」
「人の記憶を消していたのではなく、記憶を脳に蓄積させていなかったということか」
ムツマサのほうをみると、彼は膝を強く叩いていた。その表情は激憤を覘かせていたが、同時に自分の娘がどうしてそんなことをしているのかという疑心を孕んだ
「そりゃぁ誰もその時のことを覚えているわけがねぇよ」
「そういえば、前に魔女と遭遇したときに録画していたプレイデータは?」
「ありゃぁダメだ。まったく映っていなかった」
それこそまるでフレームレートが可笑しくなっているんじゃないかってくらいで、エンコード中にエラーが起きていたのかとかいろいろと考えられるが、まったく録画ができていなかった。
「つまり魔女に関しては――んっ?」
考えに耽っていると、メッセージを受信したという電磁音が鳴り響いた。
◇送り主:メイゲツ
◇件 名:いま大丈夫ですか?
メイゲツからのメッセージ。さっきのセイフウと同じで、件名に用件が書かれているだけだ。
「行ってあげたほうがいいね」
さっきもお誘いのメッセージだったし、時間も時間でもしかしたら午後はログインしない可能性がある。ここはジンリンの言うとおり行っておいたほうがよさそうだ。まだ話し合いたいことがいっぱいあるんだけど。
「シャミセンさん、こちらもできる限りのことは調べています。それともうひとつ……これだけは約束してください」
ムツマサはオレを睨むように、
「決してムリだけはなさらぬように」
といって消えた。
「オレ、そんなにムリしてる?」
それこそ【GM】から心配されるくらいに。
オレ自身はそんなにムリはしていない気がするんだがなぁ。
どちらかといえば、ビコウやケツバたちのほうが心労は半端ないと思うんだが。
「……たぶんキミのいままでの行動を考えるとってことじゃないかな?」
ジンリンは苦笑を交えながら答える。
まぁいちおう耳にとどめておこう。
「魔法盤展開っ!」
【WFXFTZVW】
テレポートの魔法文字を展開させ、行き先をセイフウに選択するや、オレの身体は光の渦となって、セイフウたちのところへと転移したのだった。
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