第35話 「報告・連絡・相談」 妖怪「ホウレンソウ」登場



    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



 高畑家において、「家族そろって晩ごはん」を守る為、父として、夫として、高畑ハジメはなるべく早く帰宅するように心がけている。その為なら、定時前に朝早く出社して仕事するのは苦ではない。息子シンイチと妻和代(と最近息子が拾ってきた変なデブ猫ネムカケ。そういえば変な名前だ)の事を考えれば、ちゃんと毎晩一緒に晩ごはんを食べ、今日あったことを話すという家族の基本は当たり前だ。


 ところが、仕事というのはそれを無視する。わざと妨害してくるのかと思うほどだ。

 社会人の基本は、「報告・連絡・相談」である。頭文字を取って、よく「ホウレンソウ」と呼ばれる。複数のメンバーが集まり、複数の責任範囲が重なり合い、上長や社と責任を分散して動く組織人としては、事故を未然に防ぐホウレンソウは欠かしてはならぬ習慣だ。無人島に一人で住まない限り、群れで生きる者に互いの顔が見えていることはとても大事だ。家族における晩ごはんとは、会社におけるホウレンソウと同じ役割を果たしているかも知れない。群れとして暮らす、それは人類の知恵なのかもだ。



 とにかく今日の仕事は報告することだらけで、ハジメはいささか疲れていた。何枚と何通の報告書と報告メールと申請書とリマインドメールを書いただろうか。

 今夜も晩ごはんにギリギリ間に合うように、幾多の報告書の荒波をのりこえて、ハジメはなんとか帰宅した。

「ただいまー」

 どたどたとデブ猫ネムカケを抱え、シンイチが廊下を走って出迎えた。

「おかえり! 今日の晩ごはん何か分かる?」

「ん?」とハジメは鼻をひくひくしてみせた。

「むっ。これはカレーだな」

「当た……」

「待て。しかも……これはビーフカレーだ!」

「超ビンゴ! 父さん鼻が利くう!」

「まあね!」

 シンイチはハジメの鞄を持ってやり、食卓の席に先に飛び込んだ。

「お帰りなさい」と和代は振り返る。同時に、ハジメのケータイがブブブ、と鳴った。

「あら、お仕事?」

「ただいま。電話じゃなくて、メールが来たみたいだけど。……一瞬待って」

 ハジメはケータイで文面を確認し、その場でケータイメールを返信した。

「おっかしいな。確認したはずなんだけど……」

 確認の件は、全部終えて出てきたはずだ。だから家に帰れると思ったのに。

「よし、送信! いただきますにしよう! ビーフカレーの匂いが家の外までしてたぞ!」

 シンイチは思わず突っ込む。

「なんだよ父さん、その時から分かってたんじゃん!」

「ばれたか」

「ずるいぜ!」

 三人揃って笑顔でスプーンをカレーに突っ込もうとしたそのとき。またもケータイがブブブと鳴る。和代は顔を曇らせた。

「また仕事のメール?」

「いいよいいよ。食べよう。カレーを冷ますのは犯罪だ」

 ホカホカと湯気が出るスパイシーな香り。スプーンで触れた牛脛肉の硬さと柔らかさのバランスが絶妙で、ジャガイモのギリギリ角のとれる煮込みのタイミングも絶妙だ。和代、いい仕事をしているぞ。

 ブブブ。ブブブ。さらに続けて二回鳴った。その度にハジメの動きが固まった。それでも無視してカレーを口に運ぼうとするも、ブブ、ブブ、ブブブブと、さらに四件のメールが新着する。

「むむむむ」とハジメは進退窮まる。

「もう! 先食べちゃうよ!」とシンイチは待ちきれず先に食べ始める。

「やむなし!」とハジメは鞄から小さなノートパソコンを取り出し、メールを見ざるを得なくなった。「ごめん」と家族に言いながら計七件のメールを読み、それぞれに返信をすることにした。

「メールっていつでもどこでも追いかけて来るわねえ」と和代はため息をつく。

「しょうがないよ。先食べてて。この返信片付けないと、ちょっとヤバイみたいだ」

 メールをひたすら打つハジメの鼻先に、シンイチはスプーン山盛りのカレーを、馬にニンジンの如くぶら下げる。

「やめなさいシンイチ。カレーがパソコンに落ちたら大変でしょう?」

 和代がやんわりと怒る。

「はーい」

「ビール、一回冷蔵庫にしまうわよ」と和代はハジメに声をかける。

「すまぬ」

 ようやく七件目の処理を終え、ハジメは冷蔵庫に走り扉を開けた。もう仕事は終わりだ、あとは任せた、黄金色の液体は仕事終わりの合図だ。

「あれ? 栓抜きは?」とハジメが辺りを見回した瞬間、またもやブブブ。二件のメールの新着である。

「そのケータイ、お風呂につっこむ?」と和代は笑顔で皮肉を言う。

「それはやめておくれ」

 パソコンを閉じるのはまだ早かったようだ。メールの返事を書いている間にも、返信の返信が帰ってくる。チェーンメールの自転車操業だ。

「よし! もうビール飲む! 連絡は明日にする! 俺、家に帰ったんだし!」

 ハジメがぶち切れ、ビールの栓をしゅぽんと抜いた瞬間、今度は電話がかかってきた。

「……出たほうがいいと思うけど?」と、和代は呆れ顔。ハジメは顔をしかめて表情だけで抵抗する。

「ハイ」

 七コールまで逡巡した上で、ハジメは電話を取った。

「ハイ。お世話になっております。ハイ大丈夫です。あ、ちょっと待ってくださいね。話せる所に移動します。大丈夫ですよ……」

 カラリとハジメは居間のサッシを開け、小さな庭へ出て話の続きを始めた。カーテン越しに、どうやら謝りまくる彼の姿が見える。

「シンイチ、先食べちゃいなさい。しばらくかかりそうだから」

「おかわり!」

「えっ、もう食べたの?」

 和代は皿を受け取りカレーをもう一杯よそった。テーブルに残された、栓だけ抜いて気が抜け続けるビールと、冷めはじめた夫のカレーを見てため息をつく。

 その電話が終わって、その間に着いたメールにも返信し、その返事にまた返事を書き、ハジメがカレーに手をつけられたのは、シンイチが風呂から上がってネムカケの毛づくろいをして、ストレッチをして、サッカーのイメトレをして、すっかり眠くなって寝室に行ってしまってからだった。

 報告、連絡、相談。ホウレンソウは、会社というシステムの中では重要なことだ。しかし通信手段の発達によって、ハジメは二十四時間監視体勢の「連絡し続ける病」に侵されているかのようだった。


「ただいま……」

 今日も疲れ切って、ハジメは晩ごはんに間に合うようなんとか帰宅した。昨日よりも、声に力がなかった。

「お帰りー! 今日の晩ごはんは! なんと……」

 どたどたと廊下を、ネムカケを抱いて走ってきたシンイチは、思わず言葉を失った。

「?」

「……ホウレンソウだ」

「ほうれん草?」

 ハジメの肩に、妖怪「ホウレンソウ」がもっさりと勢い良く茂っていた。


 妖怪「ホウレンソウ」は、土から生えたほうれん草によく似ている。太くて濃い緑色の茎と幅広の葉を持ち、風に揺れている。風は家の中に吹かないから、勝手に揺れているのだろう。本物のほうれん草と違うのは、根元にニヤニヤ笑う「顔」がついていることだ。

 ハジメの後姿を見ながら、シンイチはこの事実をどう言おうか悩んだ。母の和代が妖怪「ねたみ」に取り憑かれたときは、「ねたみ」のパワーが強すぎた反動か、あの時の大騒ぎを彼女はケロリと忘れている。今父に取り憑く「ホウレンソウ」は、まだ二十センチ程度の小物。母のときは自家中毒を起こさせるほど巨大化させた。だがこのサイズでは、「自覚」が取りのぞく為の第一条件だろう。ついにシンイチは、自分がてんぐ探偵であることを、家族に話さざるを得ない日がやって来たのである。

「シンイチ。ほうれん草なんか、ないじゃないか」とハジメは食卓を眺めて無邪気に言った。

 シンイチは緊張した。

「父さん。話がある。……あと、母さんにも」


    2


 今日の晩ごはんは、昨日ハジメが食べられなかったカレーの余りと、新たにつくったハンバーグだった。どちらもシンイチの大好物で食べたいのは山々なのだが、その前にシンイチは重大な話をしなくてはならない。

「何だ? 話って? それに母さんも、って」とハジメはビールの栓を開けながらシンイチに尋ねた。

「えっと、まずは『父さんは妖怪に取り憑かれてる』って話」

「はあ? 何かのゲームの話?」

「ちがうよ。それと、母さんはかつて妖怪『ねたみ』に取り憑かれたけど、それは退治されたって話。その時の記憶は、今の母さんにはないようだけど」

「……映画かテレビと、ごっちゃになってるの?」と和代は聞いた。

「いいや。母さん、いっとき佐々木さんのブログを毎日チェックしてたでしょ。あれ、何でやらなくなったの?」

「アレ? そういえばそうだったわね。なんでだろ」

「あのとき母さんは佐々木さんを異常に妬んでて、それは妖怪『ねたみ』に取り憑かれたからだったんだ」

「オイオイ面白そうな事を言うなあシンイチ。じゃ父さんは何に取り憑かれてるの?」

「妖怪『ホウレンソウ』」

「ほうれん草。ポパイか何か?」

「違う。……報告・連絡・相談の略だよ」

 架空の話と高をくくっていたハジメは、ここに来てようやく真面目な顔つきになった。

「……妖怪『ホウレンソウ』ってのは何か。連絡しまくり病になるってことかい?」

 その瞬間、ブブブとハジメのケータイが鳴った。メールの着信音だ。

「いいか。これを無視するぞ。父さんは、妖怪連絡病を引き起こす、『ホウレンソウ』に取り憑かれてるって?」

「うん。信じられないかも知れないけど、オレは人知れず妖怪を退治する、『てんぐ探偵』なんだ」

 ハジメは笑い出した。

「それ、なんだよ! 新しくはじまる三十分特撮ドラマ? 深夜アニメ?」

「心の闇は、それが取り憑く本人には鏡越しに見える。……これが、父さんに取り憑いた、妖怪『ホウレンソウ』」

 シンイチは腰のひょうたんから小さな鏡を取り出し、ハジメに見せた。仰天したハジメは椅子から転げ落ちた。

「何? 何? 何だこれ!」

 右肩を払った。しかし現実の右肩には何もない。

「何なんだよ!」

 その時またもハジメのケータイがブブブと震える。メールが三件。

「ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って!」

 ケータイと鏡、両方に「待った」をしながら、ハジメは鏡に食らいつく。現実の肩。鏡の中。鏡の中ではほうれん草が生えている。それに顔があって、しかも目が合った。

「それが妖怪なのさ」

 和代はその鏡を見たが、何も見えない。

「何もいないじゃない」

「お前には見えないのか! この、何だ……植物みたいにわっさーって葉が繁ってて、ワカメみたいにユラユラ揺れて、第一顔がホラここに……」

「母さんには見えない。妖怪が見える人間には今の所会ってない。オレ以外は、取り憑かれた本人しか見えないんだ」

 シンイチは、膝に抱いた老猫ネムカケに話した。

「ネムカケもさ、そろそろ家族に正体バラしてもいいんじゃない?」

「ふむ」とネムカケは返事をする。

「いま、ふむって言わなかった?」と父母はびっくりした。

「騙したようで済まなんだな。わしは三千歳の化け猫なのじゃ」

「ね、ね、ね、猫がしゃべった!!!!」

「……と、驚かれるのが苦手でのう。これまで拾われた猫のふりをしていたのじゃ」

「どういうこと? どういうこと?」


 シンイチは、これまでのいきさつを包み隠さず話した。自分が妖怪「弱気」に取り憑かれ、妖怪が見える体質になったらしいこと。それを自力で外したこと。それをネムカケと、大天狗に見られていたこと。「弱気」に取り憑かれた男の人の自殺を止められず、ショックを受けたこと。だから遠野の大天狗に弟子入りし、妖怪退治をする「てんぐ探偵」になったこと。母に妖怪「ねたみ」が取り憑いて、「ひがみ」「そねみ」を佐々木さんと犬飼さんに取り憑かせて退治したこと。

「……まさか、担任の内村先生、これを知ってるの?」と和代は尋ねた。

「うん。時々、協力してもらってる」

「それで繋がったわ。時々夜ご飯は僕と食べるので、って遅くに帰ってこないことがあったもの」

「妖怪『横文字』の時は京都まで行ったしの。こないだは『半分こ』を夜まで追いかけた。『あとまわし』の時に、先生がおごってくれたチャーシューメンは絶品じゃった」とネムカケは答えた。

「……しかし、私と佐々木さんと犬飼さんにそんなことがあったとは。……まあ、自業自得といえば自業自得だけど」

 和代は納得したようだった。心の実感を伴っていたのだろう。ハジメは、右肩から元気を吸い取られている心地になりシンイチに尋ねた。

「で、こいつは俺から養分を吸い取り、殺すのか」

「うん」

「どうやったら外れるの?」

「それをこれから考えるんだ。その為にこの話を打ち明けたんだ」

「……」

 シンイチは腰のひょうたんから、火の剣・小鴉を出した。

「ちょっとやってみるね。妖怪を天狗の剣で斬ると、こうなる」

 黒曜石の短剣から炎が出て、和代もハジメもびっくりした。そのままシンイチは、妖怪ホウレンソウを半分斬った。しかしホウレンソウは、じわじわと傷口から再生してゆく。

「なんだ、生命力強いなこいつ」とハジメは漏らす。

「うん。妖怪の根は、父さんの心の深くにいる。父さんの『心の闇』が消えない限り、妖怪はずっと養分を吸って成長する」

「……『報告、連絡、相談』。たしかにここ最近の連絡病は異常だ……」

 その時ケータイがブブブブブブブブブと止まらなくなった。新着メールは三十件だ。

「えええええ」とハジメは嫌な顔をする。

 しかも、電話もかかってきた。仕方なくハジメは出た。

「緊急事態、ですか? ……ハイ。……ハイ。……会社に戻ります。ハイ。一時間で」

 会社員の顔に戻ったハジメは、ケータイを切って言った。

「この件でトラブルなんだ。会社に戻らなきゃならない緊急事態になっちゃった」

 シンイチは思案し、ハジメに提案した。

「会社についてっていい?」


    3


 シンイチとネムカケは天狗のかくれみので透明になり、ハジメの会社でのトラブル処理を眺めていた。

 専門用語が飛び交って詳細は良く分からないが、このトラブルを解決しないと、明日までにプリンが一万個届いてしまうことになっているそうだ。

 かくれみのの中で、シンイチはそれちょっといいじゃん、とさえ思った。

「でもプリン一万個はキツイよね。食べ切れそうにないよ!」

「でもその代金を一気に払わなければならんじゃろ。一八〇かける一万は?」

「……一八〇万円! 倒産だ!」

「倒産までいかないだろうが、痛いのは信用問題じゃな。これを解決しないと、この会社は一生『このプリン一万個野郎』っていじめられるぞい」

「そりゃかっこ悪い! ていうか、一生はキツイ!」

 シンイチは歩き回りながら、一体どうしてこんな事態になったのか知りたがった。しかし忙しく動き回る父に話しかけるタイミングもない。

「父さんのパソコン見れば、さんざん振り回してるメールを見れるかな」

「こっそり見るがよし」

 二人はパソコンに残されたメール履歴を見てみた。この件に関しては、約五百のメールがある。見ても見てもまだ遡れる。

「うーん、なんかややこしそうだなあ」

「こないだ『つらぬく力』でネットに入れたろ。そんな感じでメールの世界には入れんのか?」

「あ、出来るかも。やってみる!」

 シンイチは画面に人差し指を向け、「矢印」でメール世界をつらぬいた。

「つらぬく力!」


 そこは、白い空間だった。広大な空間のどこかからどこかへ赤いビームが走り、そのビームにメールが乗って飛んで行く。送り先にはその人が浮いていて、送り元には出した人が浮いている。

「あ。今あの人があの人にメールを送ったんだね」

 ビームの中に、開封していないメールを貯めてる人もいる。

「あの人、読んでないね」

 その白い世界には、困ったハジメが宙に浮いている。色々な方面からビームが飛んで来ていて、足元にはメールが五百件貯まっている。

「うーん、これを一から読むのか」

「探偵の基本は、調べものじゃからのう」と、ネムカケはしばらく時間がかかりそうなので、得意の居眠りを電脳空間ですることにした。


「ネムカケ。ネムカケ。起きてよ」

「ううん眠いよう。もう全部分かったのかい」

「違うよ。解読しきるまでもないよ。これさ、全員が会えば、一発で解決するんじゃないの?」

「どういうことじゃ」

「ほら、見てよ!」

 シンイチは、全てのメールの文字を宙に浮かび上がらせた。


「伝えたはずですが」「聞いてないです」「伝わったと思ってたつもりでした」「私の中ではBという認識でした」「十五日のメールに根拠があります」「ゴメン俺そのメール見てない」「共有しましょう」「了解です」「Re: 了解です」「共有したはずです」「それは既に議論を終えているという認識ですが」「状況がその時と変わってるんだから議論しなおした方が」「今更中止できないですよ。キャンセル料払えます? それで預かったお金なくなっちゃいますよ?」「それ、三回ぐらい前の話です」「そちらで決めてください」「そちらはどう思われますか」「現場権限の話じゃなくなってるので、上同士の判断かと」「折衷案は無理です。ぶっちゃけ、費用は倍です」「止めてくださいって誰の指示で?」「確認します」「共有しましょう」「いつベースの話です?」「確認中です」「Re: Re: Re: Re: Re:」「それナシになったって聞きましたが」「アリ前提でこちらは進めています」「確認まだ? ずっと待ってるんだけど」「共有しましょう」「確認中です」「それはこっちサイドでやることじゃなくて、御社の中でクリアになってからこっちに投げることでは?」「Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re:」「誰の何にRe:なの?」「その時僕はいなかったので」「Re: Re: 共有しましょう」「確認します」「共有できてません」「えーっと、言ってることが矛盾しません?」



「なんでこんなややこしい事になっとるんじゃしかし」

 ネムカケは起きたての眠い脳で全部を把握しきれない。

「それぞれが、自分の視点で個別に話してるからだよ」

 シンイチとネムカケは電脳空間から戻った。ハジメはや同僚たちは、電話したり連絡で手一杯である。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前」とシンイチは九字を切った。

「不動金縛りの術! エイ!」

 周囲の空間は時を止めた。シンイチとネムカケとハジメ以外。

「それでさ、この、……アレ? オイ! アレ? 何これ?」

 ハジメは突如通話が切れた受話器を思わず見た。

「父さん、ちょっと周りから僕らだけ独立させてもらったよ。天狗の術で」

「シンイチか! ちょっと戻してくれ! 大変なんだよ!」

「ちっとも大変じゃない。メール全部読んだよ。このこじれは、簡単に解決できる」

「は? そんなバカな! プリン一万個の誤発注だけじゃないんだぞ! もっとこじれにこじれて……」

「全員で会えばいいんだ」

「なんだって? そんなこと、出来る訳ないだろ!」

「もし出来ると仮定して、全員を集められる場所はどこ?」

「えっ。四十人入る会議室はこの会社にはないし、この時間だし……居酒屋『へいらっしゃい』の大宴会場なら」

「そこを押さえよう。オレが一時間後に、天狗の術で全員集合させるから」

「で、出来る訳ないだろそんなこと!」

「あのね。サッカーを考えようよ。監督が作戦を言うときは、全員で聞くじゃん。全員で聞いて、分かんないことや気づいてないことがあったら、その場で聞くじゃん。だってゲーム始まったら確認できなくなるから。だから全員で聞いて、質問はその場でするんじゃん?」

「お……おう」

「今のこの状況はさ、監督が廊下とか屋上とかで、バラバラに言ってるんだよ。キーパーがDFに伝言して、それをFWに伝言して、FW同士が監督の話をああでもないこうでもないって言ってるだけなんだよ。食い違いが生まれて、それを修正して、修正の修正が入って、わけが分かんなくなってるんだ。それを監督すら把握できてない」

「……そのたとえは、正しいかも知れん。……いや、まったくその通りだ」

「だから一時間後に『へいらっしゃい』に全員集めて、全員で作戦会議をしなきゃ」

「……天狗の術なら、それが出来るのか?」

「勿論!」


    4


「メンバー全員にメール出そう。『この件で全員で作戦会議をしましょう。一時間後に「へいらっしゃい」に集合』ってさ」

「……本当に全員来させるな?」

「うん。四十人分、責任持つ。最悪、飛んで行く」

 シンイチは不動金縛りを解き、皆は元の時間の流れに戻った。

 ハジメは居酒屋「へいらっしゃい」の大宴会場を押さえ、それから一斉メールを送った。それを確認したシンイチは、右手の掌を構えてねじるように突き出した。

「ねじる力!」

 その瞬間、ネットの接続がブツリと切れた。電話線も。電話中だった同僚も、メール中の同僚も騒ぎ出した。ケータイの電波も、届かなくなった。つまり、ありとあらゆる通信手段が失われた。

「シンイチ! 何をやったんだ!」

「簡単なことだよ。『あした一時にサッカーやろうぜ』って約束したら、ちゃんと来るでしょ?」

「……そんな、簡単なことかい?」

「緊急事態なんでしょ? 多分メールとかケータイとかが、『約束』をややこしくしてるんだ」


 果たして一時間後。大衆居酒屋「へいらっしゃい」の二階大宴会場は、四十名全ての人間が集まった。誰も彼も、メールや電波が途切れたので慌てて直接来たと話をしていた。

「色々大変ですが、皆さん、この件について話しましょう」と、ハジメは司会を務めた。

 みんな話した。知らない事実に今更気づいた者もいた。そんなつもりで受け取られているとは、と驚く者もいた。こじれた話は最初の最初にまで戻り、一番最初のボタンの掛け違えまで究明された。

「私のほうから、一万個の誤発注の件はただしておきます」とその中のおじさんの一人が発言し、プリン一万個野郎事件は、開始わずか二十分の会議で収束を迎えた。

 おじさんたちは口々に言った。

「なんだ簡単なことだったんじゃないか。角つき合わせて話せばよかったんだ」

「そういえば昔は良く皆で飲みに行ってたのに、いつの間にか行かなくなりましたね」

「部署が分かれちゃったしね」

「フロアも別々だし」

「別館に分れた人もいるしなあ」

「飲みニケーションなんて駄洒落も、役に立つものだね」

 本部長が鶴の一声を発した。

「ついでに、打ち上げといこうか。せっかく居酒屋なんだから」

「いよっ! 本部長!」

 宴会場は、会議室からほんとうの宴会場になった。次々にビールやおつまみが運ばれてくる。

「これからもちょくちょく会いましょう。旨いビールを飲むために。では、乾杯!」

 こうしてハジメの肩の重い荷は下り、黄金色の液体のひと口目を、ようやく飲めた。

 その瞬間、肩の妖怪「ホウレンソウ」もするりと下りた。


「不動金縛り!」

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「一刀両断! ドントハレ!」

 妖怪「ホウレンソウ」は真っ二つに斬られ、炎上して清めの塩と化した。



 ぐううう、とシンイチの腹が鳴った。そういえば晩ごはんを食べている途中だったのだ。廊下のシンイチに気づいたハジメは言った。

「先に帰って、母さんに晩ごはんを食べさせて貰って。父さんは皆に付き合っていくよ」

 宴会ははじまったばかりだ。やって来た焼き鳥盛り合わせを土産にするようにとハジメは素早く指示した。

「とりあえずこれ食べな」

 ハジメはお通しのほうれん草のおひたしをシンイチに見せた。

「オレ、ほうれん草嫌い」とシンイチはブーたれた。

「実は、俺もなんだ」とハジメは子供っぽく笑ってウインクした。

 なんだか等身大の父を、シンイチは初めて見た気がした。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か






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