光彩陸離たる語彙の世界

かつて頑是ない子供であった頃、私は追いかける立場にあった。というのは私が知っていること(経験などではなく一般の知識)は周囲の大人も当然知悉していることであった、という意味である。


九九を諳んずれば間違いを正され、国旗の絵を描いて見せれば何々の国だねと言われた。語彙に於いてもそれは同じであり、覚えたての胡乱な言葉を何度放ったところで大人たちは恬然としてそれらを理解した。私にはそれが大変悔しく、脳に新しい単語がインストールされる度にアウトプットして周囲の大人を試した。所詮子供の仕入れる語彙など日常会話で使われる四字熟語や慣用句などに過ぎず、終ぞ中学校に上がるまで、周囲に一矢報いることは無かった。だが―これこそ重要なことなのだが―「使って覚える」ことによって幼少期の語彙形成が為されたことは間違いない。


転機が訪れたのは私が中学生だった頃、テストをなかなか返却しない先生に「生殺しですか」と冗談を飛ばした時だった。若い先生だったが、彼女はきょとんとした顔をこちらに向けた。人生で初めて、大人が知らない語彙を使った瞬間であった。蛇の生殺し、で辞書を引いてもらい、漸く生殺しと言う言葉の存在を認識してもらったのである。私は自らの成長に対する高揚と、言葉の意味が通じない恐ろしさの両方を覚えた。


今まで何を言っても、そしてそれに幼さ故の不備があっても、大人は瞬間に私の意味するところを窺知してくれた。しかし生殺しと発声した後に私と彼女に降りた沈黙の間隙は今まで存在しなかった種類の気まずさであった。これ以降、私が口にした言葉がこういった種類の間隙を生む機会が飛躍的に増大していく。当然私が知らない言葉も周囲から沢山登場したが、それらも飲み込んで語彙は着実に増えていった。


この頃になるとまた別の問題が発生するようになった。学習する語彙のレベルが日常語彙の範囲を逸脱するようになったのである。それは幼少の頃から習慣化された「使って覚える」が不可能となりつつあった、ということを意味する。


今でも覚えているが、高校生の頃に「交喙(いすか)の嘴」という言葉を知った。これは「(交喙の嘴が上下で食い違っていることから)物事が食い違って思うようにならないこと」という意味なのだが、これを日常で使う機会はまずないだろう。何か揉め事が起こった時に「交喙の嘴か!」と言うことも考えたが、所謂「言いたいだけ」という感が隠せないし、「野狐禅的な知識をひけらかして賢ぶっている」と矛先がこちらに向くことも有り得る。そうでなくともまたあの間隙が登場することは想像に難くないので一時的に頭の片隅に追いやったのだが、一向に活躍する気配がない。紛擾雑駁とした言葉の整理箪笥にも限りがあるためそろそろ頭から退去して欲しいものだが、陣取るうちに大脳皮質と癒着してしまったようで立ち退く気を毛頭見せない。


言葉というのは、少し彫っては彩色し、少し彫ってはまた別の色で彩色する木版画のようなものだ。一度に全てを覚えることは出来ない。一度で覚えられるものは余程覚えやすいものか、または自分とフィーリングの合う言葉に限られる。私は「貪婪」「陋劣」という言葉と相性が良いようで、先日知り合ってから一目で漢字と意味、読み方を記憶した。しかし殆どの言葉はそうではない。故に何度も版木を重ねていくことが大切なのである。


私は日記をつけているのだが、書き出しの上部に空白があるため、毎日そこに本などから得た語彙を書付け、それを定期的に読み返して日記の中に織り交ぜるようにしている。例えば昨日は揉め事が起きたため、3週間前に書き留めておいた「拱手傍観(重大な事態に於いて何もしないこと)」という言葉を用いて日記を書いた。こうしておくといつしか頭に語彙が染みついてくる。


ただし、生活する中でいつ使うのかは知れない。知識が頭の中にあることだけが重要なのであると言い聞かせている。今日の日記の上部に書きつけた「蒼蠅驥尾に付す(つまらぬ者でも優れた人についていけば功名を得ることが出来る)」という言葉は交喙の嘴と同じ匂いがする。つまりは日記に用いることも出来ずに整理箪笥の肥やしになるということである。


先ほどから偶に日常では使われない語彙を織り交ぜながら書いているので文章がおかしくなっているところがあるかもしれないが容赦してほしい。これもまた彩色の一環なのだから。

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