部屋とシンクロ

自分の家、部屋というのは特別なものである。どう特別なのかといえば四方を壁や窓、扉に囲まれた、自分から肌続きの世界で唯一の存在であるから特別なのである。この壁や窓に仕切られた、というところが重要なのであって、これらもない四阿を所有していても部屋や家のように特別を感じることはないだろう。


その特別性故、喜怒哀楽で言えば哀しみと怒りを発散する場所は大体家の中に限定される。家まで涙を堪え、部屋まで拳を抑えるのが大人のあるべき姿なのであって自分の部屋は大人がもつ唯一の安息地と言える。


更に、少々視点を後ろに引いてみるとまた面白いものが見える。


例えば仕事か何かの事情で涙を堪えながら帰宅した人物を想定しよう。相当準備していたコンペで競り負けて上司の期待に応えられなかった、という事情を設定すると家に帰りついてから涙を浮かべても不思議ではあるまい。会社では周りから励まされる中で気丈に振る舞っていても一人暮らしの部屋に帰り着いた途端に涙があふれ出してくる。立て付けの悪い扉を強引に締め切ると同時に涙腺が決壊し、コンペにささげた努力を思い出しては、靴ひもを解くために座り込んだ玄関で力が抜ける。やっとの思いで立ち上がりリビングに入ると資料で散らかった部屋がやたら小さく見えた。彼は壁に寄りかかり思い切り泣いた。以前泣いたのはいつのことだろう。


その人物の帰宅から遡ること2時間、ある女性が交際している男性と食事をしていた。交際期間は4年に伸長している。学生時代にも2年ほど交際していた男性がいたが、その時に感じたマンネリという言葉より円熟という言葉を当て嵌めたいような関係であった。そして彼女はとうとうプロポーズを受けたのである。時に律儀すぎる相手の男性はその場での返事を許さず、一晩家で考えてみてくれといった。その言葉に従って二人はとりあえず店を出て彼女の住むアパートへの道を辿った。わざと結婚の話はせず、他愛もないことを話すように努めた。結婚の話はこれからたっぷりすればいいと女性は胸を膨らませたが、その喜びを顔に出すことは控えた。今日はここで、と男性はアパートの前で言う。その姿を見送ってから彼女は足早に自分の部屋に帰る。扉を閉めるとなにか心地よい夢から覚めたような多幸感が彼女を満たした。去年の誕生日に彼からもらったネックレスを繁々と見つめ、それを握りしめると壁際に置いたソファに腰かけた。小さく鼻歌を浮かべている。あまり歌に自信のない彼女には珍しいことだ。隣に住む人が帰ってきたのだろう、立て付けの悪い扉を強引に閉めたように大きな音がしたが気にならなかった。しばらくしてから彼に連絡を取ろうと携帯電話を持った。明日も会う約束をした。


こうして正反対の感情を持つ二人が今、壁を挟んで背中合わせになっている。興味深いのは、距離的には彼らが帰り道で出会ったどんな通行人より近い距離で背中合わせに存在しているのに、帰路では見せなかった感情を露わにしていることだ。今、私はこうして自分の部屋でパソコンの前でせわしく手を動かしているが、隣の部屋ではテレビを見ている女性がこちらを指さして呵々大笑しているかもしれないし、逆隣の部屋では男性が尻をこちらに向けて踊っているかもしれない。


私は常々その様子を見てみたいと思う。先ほど「引いた視点で」と述べたのはそういう意図があって、神になったなら、あるいは千里眼を得たならばアパートや集合住宅を各部屋に渡って切断し、複数の生活を同時に見てみたい。各人にとって特別な場所である部屋が厚さ1メートルもない壁で仕切られているという事実を目の当たりにするのはさぞかし痛快であろう。


とはいえその神聖な場所を人に覗き見られるのは不愉快極まりないので私が覗かれる立場ならば断固として拒否しよう。私は自分の部屋をこよなく愛している。


この話をするたびに私の部屋の汚れ方(私は汚れていると思っていない)を知る友人からはそれを揶揄される。愛しているのならば綺麗にしろと言うがそれは的外れである。というより部屋への愛というものを軽く見すぎている。これを私はよく「部屋とのシンクロ」という言葉で表す。


今俎上に上っている部屋や家という概念はすべて「人一人が自由にできる空間の最小単位」と定義している。一国一城の主という言葉もあるがそれではまだ足りない、もはや心と同じなのである。心を許したものだけを部屋に上げる、という人間として当然の心理が当然のものとして成り立つのは部屋が心のメタファーになっているからに他ならない。


「部屋とのシンクロ」に必要な要素として「肌続き」という概念は欠かせない。この文章の冒頭でさらりと使用したが、これは「部屋は自分の肌と同じものだ」という意味の言葉である。特殊な例を除いて、私たちは自分の身体の表面において触りたくもないと思う場所は殆どない。他人の陰部は絶対に嫌だといっても自分のものなら別に気にならない。というと「排泄物は嫌だ」だとか「汗でべたつく肌は嫌だ」とかいう意見も出てくるのだが、それは自分の肌ではない。所謂ナマモノ的なもので、例えば先ほどまで切っていた野菜の切れ端を三角コーナーに投げ込むと突然汚くなったように思えたり、一瞬前に口に運ぼうとしていた豚カツが口の端から転げ落ちて床にたたきつけられると途端に食べる気が失せたり、そういう風にして外気や周囲の環境に触れただけで変質してしまうのがナマモノ的な汗や排泄物なので、それは肌とは呼ばない。


自分の部屋というのは、当然ながら自分が許可したものしか存在し得ない。不快なものはシャワーで汗を流すように排出され、快だけで形成されていく。そうなれば触れたくないものなどあるはずもなく、部屋は自分の肌と溶け合うようにして混ざり合い、陸続きとなる。これが「肌続き」と「部屋とのシンクロ」の正体である。


自分の部屋を極度に飾って床に何も置かないだとか、収納を意識するあまり物の出し入れがスムーズに行えない部屋など私に言わせれば部屋との一体化の進まない未熟者の住まいである。なにせ肌続きなので床にあらゆるものが散乱していようが収納にぐちゃりと服が折り重なっていようが、私はすべての位置を把握できる。人間が目を閉じるときに「えーと眼はどこにあったかな」などと思うだろうか?小さい用を足すときに「はて、尿道はどこに具わっていたか」と体をまさぐってみるだろうか?部屋とのシンクロが行えない人はこうした愚行を成しているようにしか見えない。


故に私は部屋を片づけない。いや、片づけないという言い方は正しくない、片付ける必要がないのだ。人が寝るときに両腕を折りたたんで脇の下に収容しないのと同じである。


ただしナマモノ的なものは別である。特に髪の毛は要注意だ。頭についているときはその一本の動向まで気にして日に10回は触っているのに、床に落ちると鬱陶しくて仕方がない。すべて人体から離れたものは程度の差こそあれ、嫌悪されてしまう運命にあるようだ。森山直太朗さんの歌に『うんこ』というのがあるが、これこそナマモノ的なものの本質を鋭く見抜いていると思う。


部屋は神聖不可侵な人間唯一の安息の楽園である。かつて四畳半に王国を打ち立てた者もあると聞くが、それがあるべき姿だ。部屋とのシンクロを果たせ。

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