「書く」と「掻く」の乖離に就て

「書く」というのは「掻く」と語源を共にするものらしく、言われてみれば人類はその歴史の大半に於いて粘土や紙に「掻いて」きた。尖筆で以て粘土に引っ掻き傷を付け、鉛筆で以て紙に黒鉛の跡を残した。その行動は正に「掻く」という言葉と相違なく、人は掻くことで繁栄してきたというのも強ち間違いではないだろう。


ところが15世紀にグーテンベルクが活版印刷術を確立してからというもの、書くことと掻くことは必ずしも一致しなくなってきたのである。正確にはそれ以前から印刷術というのは存在していたのだが、それほど普及していなかった。琵琶法師はテクストの貴重な世にあって平家物語を詠ずる正に歩く手写本だったし、聖書は非常に高価なものとして教会にのみ配された。それが活版印刷術の発展によって気軽に書くことが出来るようになった、とまでは行かずとも人はわざわざ力を込めて粘土や紙を掻かなくとも書くことが可能になったのである。


とはいえそれも特殊技能の一環であって、一般の人々は羽根ペンで羊皮紙に文字を書き、日本では筆を用いて書いていた。それがまた脅かされるようになったのは19世紀後半にタイプライターが実用化されてからのことである。タイプライトは婦人の仕事の代表格となり、また視覚障害を患う人が筆記する大きな助けになった。ここで「書く」という行為は「掻く」という言葉から離陸し、叩く、或いは打つという言葉の空へ大きく飛び去っていくこととなる。


そうして今、私はタイプライターの名残と言われるQWERTY配列のキーボードの上で忙しく手を動かしながらこれを書いている。今や掻く、という語源の気配は全くなく、書くことは打つことと一体化した。私は手書きの日記を認めているため手掻きをする機会もあるが、今全世界で書かれた文字の一体何割が手掻きによるものなのだろう?という感傷に浸ることは多い。結局私もキーボードを叩く機会が確実に増えている。これからそれによる功罪を確かめてみたいと思うのだ。


今でこそ書くと掻くは乖離してしまったものの、かつては切っても切れない行為だったことは既に述べた。しかし彼らは仲のよい双子のように見えて実は三つ子なのである。最後の兄弟は「考える」である。双子だと思って名前を用意していたのに後から三つ子であることが分かったため名前の統一性こそ損なわれたものの、よくよく考えてみれば当然の帰結として三つ子なのである。


なぜなら人は何も考えず書くことは出来ないからだ。意味のない引っ掻き傷を作ることは出来ても何かしら意味のあるものを筆記するためには必ずそこに考えを先行させねばならない。「掻く」或いは「書く」ことは「考える」ことと同義であると言ってよい。


我々日本人の場合、一部の特殊な場合を除き教育を施される中で膨大な量の考えを書いてきた。国語に於いては作者の気持ちを書き、数学に於いては考えを絞り、数式を捻って捩って答えを書き、英語で日記を書いた。この中で考えることは書くことと更に親密になり、二人三脚を始めたとまで考えられる。いやそれは私だけだろうか。少なくとも私は(前提として考えずには書けないのと反対に)書かずには考えられない体になってしまっていたのである。


故に私は何かを整理するときや予定を建てる時は、一度何かに書かずにはいられない。この場合の書くとは紙に「掻く」ということである。幸いなことにその紙にも筆記具にも困ったことは無いため、考えたいことを書けないから考えられない、という事態に陥ったこともない。


ところが私にもタイピングという全く新しい「書くための手法」との出会いがあった。当初こそ手書きの方が速いくらいのスピードでしか書けなかった私も、今では手書きの何倍ものスピードで文章を書くことが出来る。そうしてある日突然気付いた。いつの間にか「考え」が置き去りにされている。


先に二人三脚と言ったが、私は無意識のうちに自らの掻くスピードに合わせて思考を重ねるようシステムを構築していたようである。例えば「拝啓○○様 初夏の候、いかがお過ごし……云々」という文章を掻くに当って「拝啓」と掻きながら次に掻く「○○様」を思い浮かべ、そしてペンがそこに到達すると次に来る時候の挨拶を考え始める、というように恰も輪唱のように掻くことと考えることを調和させつつ筆記をしていたことが分かった。それがちょうどいいリズムだったのだ。


しかしタイピングの段になると、拝啓と書きながら「○○様」を思い浮かべたのではもう遅い。私のタイプは既に○、にまで到達していて考えは容易くタイピングに飲み込まれる。すると文章のリズムが悪くなって、つっかえつっかえのまま筆記を進めることになる。当然のことながらその出来は悪く、余裕のなくなった思考からは本来生まれるはずだった考えが抜け落ち、つまらない文章が完成してしまうという訳だ。


これに気付いたころの私は、パソコンで作った自分の文章が非常にのっぺりした粗末らしいものに見えて仕方がなかった。何が違うようになってしまったか、探る内に書くことと考えることの距離に気付いたのだが、だからと言ってどうすることも出来ない。私は途方に暮れ、一時は文章を書くことをやめた。


改善の兆しが見えたのは半年ほど経ったころ、大学のレポートを大量にタイピングする機会が増えた時期と重なる。人間は慣れの生き物だとは良く言ったもので、考えがタイピングの早さに追い縋れるようになってきたのである。以前は手書きのスピードでしか考えられなかったものが、とうとうタイピングの速度と歩調を合せられるようになり、私は歓喜した。また文章を書くようになった。


と、実はここまでを私は一度紙に掻いてみた。上はそれをタイピングによってパソコンへ起こしたものである。先に書いた「キーボードの上で忙しく…」は嘘であったのでその点だけ謝罪せねばならないのだが。久しぶりにこれほど長く手書きしたので腱鞘炎が恐ろしい。


久しぶりの手書きの感想だが、結論として非常に苛々する。タイピングの速さに慣れた私の考えはどんどんと後続のアイデアを生み出し、紙に出力しようとするも、そこで手書きの遅さが邪魔をする。今恐らく2000字強くらいだろうか、これを手書くのに私は凡そ3時間を要した。タイピングすれば恐らく1時間もかからなかったであろう所を3倍の時間を掛けて書いた故に、いくつか書きたかったことを逃してしまった。例えば手書きでは書いている途中に「科k」という風なミスは起こり得ない。それがあるタイピングでの考えの中断による損失なんかも書きたかったのだが、手書きで出力が遅れているうちにアイデア自体が雲散し、今になってようやっと思い出して書いている始末である。


一度矯正された考えのスピードは簡単には戻らない。そういえば最近日記を手書きしている中でさして面白いことが書けないのもタイピングの速さに考えが慣れてしまったことが影響しているのかもしれない。勿体ない。じっくり考えたいときは手書き、質はともかくアイデアの量が欲しいときはタイピング、という風に目的によって書く手段を使い分けることが出来たなら……そう思わずにはいられない。

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