危険なタルト、つまらないカフェラテ

性善説に立つなら、私はこのタルトを一口に食べるべきだったのだ。


他の人のことは分からないので言い切ることは出来ないのだが、私は街で話しかけられることが多い気がする。多くは道案内なのだが、それ以外にも宗教の勧誘や怖いお兄さんからの声掛け、カメラ係の依頼などその用事は多岐に渡る。極度の方向音痴故に道案内に関しては殆ど無用の長物なのだがそれ以外ではそれなりに丁寧に応対するようにしている。少なくとも多少は意を決して話しかけてくれているはずなので、それに応えたいと思うのである。或いは自分が話しかけた時に無下にされないよう祈って、運命に先手を打っているのかもしれない。


先ごろ駅のトイレで小用を足していると、隣のブース(?)で用を足していたおじさんに声を掛けられた。後で分かったことだが年齢は60過ぎ、それなりに若々しく、竹中直人を白髪にしたような風体をしていた。「難波まで電車で行ったらどんくらいかかるね」と文字では伝え辛い、大きく訛った言葉が自分に向けられたことに気付くためにたっぷり3秒は掛かった。あまりにフレンドリーな響きだったので聞き逃してしまったのである。


「そうですね、4、50分と言ったところではないでしょうか」私は手を洗ってからそのままハンドドライヤーに突っ込んだ。その騒音に負けないよう声を大きくして「バスなら60分弱です」と付け加える。するとおじさんは「タクシーならどうね」とまた訛りの強い調子で聞き返す。どうにも慣れないイントネーションだったので東北の生まれか、或いは外国の生まれで帰化したか、色々と想像を巡らせたが答えは出なかった。おじさんの荷物にはたくさんの東北土産が顔を覗かせていたので東北の言葉なのだろうと当りを付けた。


「ちょっと……タクシー使ったことのない貧乏な身の上なのでわからないですね」と冗句を交えて返すと移動手段への疑問はどこへやら、興味が私自身に移ったようで私は質問攻めに遭うことになった。名前や出身、今ここにいる理由、更には両親の健在ぶりにまで話は及んだ。嘘を吐くことを考えなかったと言えばそれが嘘になるのだが、不思議とそうする気にはなれなかった。直感が悪い人ではないと告げていたこともあるし、話の行く末が見えず、東北弁らしき言葉を聞き取るのに必死だったこともある。


おじさんが最も興味を持ったのは私の親とおじさんが同い年であるという部分だった。話がそこに至ると、破顔という言葉がぴったりの笑顔を見せた。「そうか、親は大切にせにゃいかん。おらにも(おらという一人称で私は少し興奮した)子供3人と孫が7人おるけんど人は繋がっていくもんだとやっとわかってきたとこでよ…(中略)…君もいつか人が繋がるってことの意味がわかってくんだろな」


そんな気配は一切ない、色気のない人生に身を窶す私には縁遠い話だったがおじさんがあんまりにも楽しげに話すので私はついつい長居を決め込んで真剣に耳を傾けた、が、と言っても3割ほどよく分からない部分があったので上では中略した。なにか「タンポポの綿毛が広がる様に子種も広がっていくんだな」というような上品なのか下品なのか分かりかねる事を言っていたような気がしたが定かではない。それにも私は相槌を打ち、話の切れ目で会話の糸口を探して話を継いだ。


するとおじさんは突然しみじみとした調子になって私に語りかけた。「キミはうちの息子に似とるなぁ」と。そんなことを言われたのは初めてで少し困惑したが、「それは良い男に違いありませんね」と再び冗談で返すと「そういうところもそっくりだなぁ」と目を細めるのでいよいよ返す言葉が無くなってしまった。おじさんはポケットからスッと手を差し伸ばした。我々はその時、関西で一番意味不明の握手を交わした。先ほどおじさんは手を洗っていたかな、と考えようとしたが万が一を考えて胸の奥に封印した。


握手の感触になにか金属の手触りが混ざっていると思いおじさんの顔を見ると、再びにっこりと渡ってそれを私に握らせた。見ると350円ある。私は固辞しようと思ったが、おじさんは「いいよいいよ、それでコーシー(コーヒーをコーシーと言うのを人の口から聞くのは初めてでまた私は興奮した)でも飲みな」と言うのでありがたく頂戴した。何が何だかわからぬまま私は再び繋がれた手をぶんぶんと振った。便所にやってきた人が固い握手を結ぶ両者を見比べては用を足していく。そろそろ頃合だと思った。


私は次の用事差し迫り急いでいる、と言うほどではないがちょうどの時間感覚で動いていたためそろそろこの会談を切り上げねばならなかった。すみません次の予定が、と言うとおじさんは名残惜しそうに私の手を放した。再び私の名を尋ね、言った。「親を大切にな」


おじさんはどうも孫を尋ねる途上にいるらしい、ということはこの前の会話で分かっていた。息子に似ているという私への態度を見るにどうも甘やかす癖があるようだ。おじさんは家族に恵まれているのだろうか、親を大切にしていたのだろうか。そんな風に考えたのだが、失礼を承知で言うならば、恐らく大切にしていなかったんじゃないかと思う。最後に放ったその言葉にはどことなく自分が達成できなかったことへの後悔が滲んでいたように感じ、私はおじさんに向かって深く頷いて見せた。おじさんが子孫たちに親を大切にしろと言うことは無かろうが、大切にされるように気を付けて行動しているのだろう。それが甘やかしにつながって現出しているに違いない、そんなことを考えつつ私はおじさんに別れを告げた。


その間際、おじさんは箱に入ったリンゴタルトをくれた。私は最早断りもせずにすんなりと受け取って感謝を述べた。それがおじさんの望むことだと思ったからだ。そして今これを書いているパソコンの横に包みは開かれ、私にかじられている。


家に帰って冷静になった私に、今日の少し不思議な出来事が浮かんだ。それと共にあの時の浮かれた熱っぽさが引いているのも感じ、もらったタルトの箱が少しひしゃげているのを発見した。そして私はこのタルトを疑っている自分に気付いた。見知らぬ人から貰ったものを食べていいのか、と。


断っておくが私は人が握ったおにぎりが食べられないだとか、友達のお母さんの料理がどうしても喉を通らないだとかいう性向は一切ない。しかし、一応他人から受け取ったものをおいそれと口に含んではいけない、という教育も私の中に息づくもので、私はおじさんの善意と自らの防衛反応の板挟みに苦しんでいた。これを考え付いてしまったこと自体がおじさんへの裏切りであるような気がした。結局私は恐る恐る一口目をかじり、その安全なことを確かめてから食べ進めていったのである。


私は自分が性善説に立って生きていると思っていた。ここでの性善説は「人間そんなに悪い人はいないよ」というオプティミズムに近いもので、孟子先生のそれとは異なる点に留意せねばならないのだが、とにかく人間の善意を疑うなど私にとっては禁忌なのである。それが今日、揺らいでしまった。おじさんが私を家族に似ているとまで言ってくれたというのに私はそれに背いて善意を疑っていたということが今、私の胸に重くのし掛かっている。もう2度と会うことが出来ないであろうおじさんに、次に会ったら謝りたいと思っている。


せめてもの罪滅ぼしに、もらった350円で買ったカフェラテを一息に飲み干す。安心で、なおかつつまらない味だと思った。タルトは甘く、危険な味わいをしている。

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