第四章 五
研究室では、神崎がカメラの映像を凝視していた。その映像はここからでも見える。戦いは紅蓮が押しているようにも、作之助が押しているようにも見える。刀が交差するたびに、心臓が縮む気がした。
紫陽は雫の方を見た。雫は相変わらず祈るような表情を浮かべている。ぽつりと、「神様」と言ったのが聞こえた。
もし本当に神様がいるのなら、雫の願いを叶えてやって欲しい。そう思っている自分がいる。でも、雫の願いは紅蓮が勝つこと。それはつまり、作之助が負けること。
作之助には負けて欲しくない。作之助には生きていてもらいたい。こんなの矛盾している。
(隊長……)
作之助ほど尊敬出来る人は知らない。紫陽が今まで生きている中で、これほど立派だと思うことが出来るのは、作之助しかいない。今までどれほど助けられたか。
「紫陽さん」
不意に、雫に呼ばれた。
「……どうしたの」
雫の瞳が潤んでいる。
「私、優くんと約束したんです。もう人を殺さないって」
心臓が鳴る。ある希望が浮かび上がる。
「優くんは約束を守る人です。でも――」
「雫ちゃん」
肩に触れる。安心して欲しい、の気持ちは伝わるだろうか。
横目に神崎を見る。カメラの映像に夢中になっていて、こちらに気がつく気配も無い。それを良いことに、鋏を持ってきて雫を縛っている紐を切った。
「紫陽さん?」
静かに、の意味を込めて唇に手を当てる。
「いいのよ。こっそりこの部屋を出るから、足音は立てちゃだめよ」
雫は驚いた顔のまま頷いた。
足音を出来る限り小さくして扉に近づき、そっと扉を開ける。神崎はこちらに気がつかない。
扉を閉める。
雫は逃げようとしなかった。それは紅蓮に「待っていて」と言われたからだろうか。どれだけ雫が紅蓮を信頼しているのかが分かる。
「手、痛くない?」
「大丈夫です」
手首には紐の痕がはっきりと残っていた。雫は手首をさすっているが、絶対に痛いとは言わないだろう。そんな気がした。
「雫ちゃん、そこの窓開けていいわ。紅蓮を応援してあげて」
「雫ちゃん、そこの窓開けていいわ。紅蓮を応援してあげて」
雫は一瞬耳を疑った。
(いいの?)
紫陽は雫の意図をくみ取ったようにこう言う。
「優くんは、もう人を殺さないんでしょ?」
(あ、そうか――)
隊長さんも、紫陽さんも、優くんと私に、生きててもらいたいんだ。
「ありがとうございます」
涙が出そうになった。なんていい人たちなんだろう。
窓際まで走る。窓を開けると、冷たい風が吹き込んできた。一瞬薄く目をつぶる。薄着だから尚更冷たく感じるが、今はそんなことどうでもいい。
鉄と鉄が交差する音が聞こえる。
(優くん――)
どっと何かが落ちる音。それと同時にうめき声も。
さっと全身から血の気が引いた気がした。
気がつけば叫んでいた。
「優くん!! 頑張って!!!」
(届いて!)
この声、届いて!
どうにか受け身はとれた。だが、あちこちが痺れたみたいに痛い。
(まずい――)
作之助が上から飛び降りてくる。刀の切っ先が喉へと。
ちらりと、雫の顔が頭に浮かんだ。その瞬間。
「優くん!! 頑張って!!!」
雫の声がした。その声にはっとする。
全力で首をひねる。刀は喉に刺さらなかった。代わりに頬をかすめ、ぱっと血を跳ばした。作之助を蹴飛ばして、立ち上がる。
「優くん!」
雫の姿が見えた。窓から身を乗り出して、こちらを見ている。後ろには紫陽も立っていた。
(雫)
まだ戦える。立てるじゃないか。戦える。刀はここにある。
雫を助けるんだ。
「粋なことするじゃねぇか」
作之助が笑った。
「面白れぇ」
それから周りに向かって声を張り上げる。
「テメェら! 邪魔すんじゃねえぞ!!」
その声に、周りの卍部隊兵が身を引く。いつの間にかこんなにも集まっていたようだ。
「なぜ……」
「そりゃ、俺とコイツの戦いだからさ。邪魔だてすんなよ。大人しくしてな」
「……」
部隊兵たちが更に身を引く。
「下がれ」
散った。どんどん隊員たちが遠のく。
「……」
「お、良い目つきになったな」
つ、と頬から血が垂れた。拭うと手袋に血が染みこんだ。
「そろそろ再開しようぜ」
「そうですね」
構える。
「雫、もう少しだけ、待っていてくれるか」
「うん。待ってるよ」
その声を聞いた瞬間、飛び出した。笑った顔が目の奥に残った。
作之助も向かってくる。
何度も刀が交差する。その度に音が響く。
斬りかかる。弾かれる。斬られる。弾く。ほんの少しずつだけど、押している気がする。
(守りたい者のために)
カン、と音が鳴って、作之助の刀が上にいく。それが振り下ろされたのをギリギリでかわして、懐へ飛び込む。
刀の柄で鳩尾を殴りつける。
ほんの少し間が空いて、作之助が崩れ落ちた。
「紅蓮が、勝った……?」
紫陽が半ば呆然として呟いた。
「優くん」
刀を納めて、雫の元へ向かう。雫は窓枠を飛び越えて走ってきた。
「優くん!」
飛びついてきた雫を力の限り抱きしめ、その肩に顔を埋める。すると足から力が抜けてしまった。雫を巻き込んで座り込む。
「大丈夫?」
雫が泣いている。
「お前こそ」
声が震えて、それだけ言うのがやっとだった。安堵、喜び……、色々な気持ちがごちゃごちゃに押し寄せてくる。それが体を震わせるのだ。
「良かった。優くん、生きて」
雫も泣いているせいでちゃんと話せない。でも、言いたいことは伝わってくる。分かる。
「ありがとう。待っていてくれて」
「うん」
しばらく何も言えなかった。二人とも黙っていた。
「隊長」
紫陽が起こしたらしい。作之助がうめき声を上げながら起きあがった。
「……お前、何で俺を殺さなかった」
振り返る。
「俺は、雫と約束をしました。もう人を殺さないって」
「なるほど。俺はその約束のせいで生きてるワケか」
それから「にしても痛ぇな」と呟いた。
「紅蓮。凄かったわ」
「ありがとうございます」
「紅蓮――。じゃなくて、優太郎。お前はもう卍部隊じゃねぇ。どっか好きなとこ行けよ。故郷とかさ」
頷く。
紫陽がすぐ戻ります、と言って本部の方へ戻っていく。
「いくつか約束守ってくれ。まず、下手にこの町に近づかねえこと。いろいろと厄介だからな。あと、卍部隊の事は黙っておくこと。こいつだけは守ってくれよ。俺はどうにかしてお前らを殺さなきゃいけなくなる」
二人で頷く。
「あと、こいつはお願いだ。別にやってもやんなくてもいいけどよ。その、なんだ。天泣の為に、海に花でも投げてやってくんねえか」
「分かりました」
天泣には本当に世話になった。花くらい投げてやらなければ、彼に文句を言われそうだ。
「二人とも!」
紫陽が戻ってきた。上着を二つ抱えている。
「これあげるわ。寒いし着てちょうだい。あと、包帯。ぐ――、優太郎、結構血が出ているもの」
言われると、傷が痛み出した気がした。必死だったからだろうか。傷について忘れていたようだ。上着を肩にかける。
「……紫陽さん。ひどいこと言って、ごめんなさい」
紫陽は瞬きした。それから微笑む。
「雫ちゃんは悪くないわ。気にしないでいいのよ。むしろ、こっちが悪いわ」
「そんな――。本当はいい人なんですよね、あなたたち」
「そう思ってくれて嬉しいわ。だけど、ね。そういうことは口外無用よ」
雫と、紫陽と作之助の間に何があったのだろう。落ち着いたらきちんと話を聞きたい。もしかしたら、自分が知らない一面を見せていたのかもしれない。
作之助と紫陽がいい人なのか、悪い人なのか。それは今の自分には判断できそうにもなかった。時間を掛けて、ゆっくりと考えるのも悪くないし、考えずに保留にしておくのも悪くないと思う。
「ほら、もう行けよ」
両足に力を込めて立ち上がる。ひょいと雫を横抱きに抱える。
「じ、自分で歩けるよ」
「いい。こうさせてくれ」
「え」
「いいから」
「……うん」
作之助と紫陽に向き合って、頭を下げた。
「隊長、副隊長。今までありがとうございました」
二人は面食らったような顔をした。ふっと作之助が笑う。
「俺らはもうお前の上官じゃねえぞ?」
「いえ。俺が卍部隊を離れても、あなた方のことはそう呼ばせてもらいます。俺にとっては、隊長は隊長、副隊長は副隊長です」
「――そうかい」「優太郎」
今度は紫陽も笑った。
「じゃあな。上手くやれよ」
「はい」
「元気でね」
「はい」「ありがとうございました!」
踵を返す。
「雫、行くぞ」
「うん」
一歩一歩を踏みしめて、紅蓮、いや、優太郎は歩きだした。
作之助はしばらく優太郎が歩いていった道を見ていた。
「負けちまった」
「そうですね」
彼は強かった。心の底からそう思う。特に、雫が応援に来てから。
「なあ、紫陽」
「何でしょう」
紫陽がこちらを向く。いつもより澄んだ目をしていると思うのは、きっと気のせいじゃない。
「助かった」
「?」
「お前が雫をこっちによこさなかったら、俺はアイツを斬っていたかもしれねえ。だから」
「あら、何のことでしょう?」
紫陽は微笑んだ。はぐらかす気らしい。
「ったく。良い性格してやがるぜ」
「隊長こそ」
はあ、とため息をついてみせたが、紫陽は気にするそぶりも見せない。
「戻りましょう。それで、手当しましょう」
「えー、そっち神崎いるぜ。もう向かってきてんだろ、どうせ」
「傷がひどくなりますよ。それに向かってきているなら、こっちから行っても行かなくても会いますから」
「分かった分かった」
渋々立ち上がると、鳩尾が痛んだ。
(ったく。アイツもやるな。こりゃ、しばらくは痛そうだな)
数歩歩いたところで、なんとと言うべきかやはりと言うべきか、神崎が飛び出してきた。
(げっ)
「ちょっとォ! あなた何負けて」
「オイ、テメェこそ何考えてんだよ」
くるりと態度を変える。神崎にはこうう態度で接した方が良い。その方が事が上手くいくのは経験から知っている。いついかなる時もだ。例え、自分が負けた時であっても。
「テメェはいつも、自分の考えに間違えは無いっていうけどよ、今回全くもって正しくなかったじゃねえか。全部お前の読みも考えも外れただろうが。それを責められちゃ困るぜ」
「なっ」
ぎり、と神崎が歯ぎしりした。
「い、今に見ていなさい! あ、あなたたちにもう文句は言わせませんから!」
神崎はそういうと、研究所に向かって駆けていった。荒々しく扉が閉まる音がする。
「あー、面倒くせえことになりそうだ」
神崎が考えていることも前もって予測し、阻止するのは容易ではない。今度はどんな事を考えるのだろうか。
「そうですね。でも私は、ちゃんと手伝いますよ」
「助かる」
紫陽が「尊敬してますから」と言った気がした。
(俺は信頼してるぜ。お前のこと)
後ろを見る。
優太郎はちゃんとやってくれるだろうか。あいつらが、変な事件とかに巻き込まれないといいのだが。もし何かあったら、力になりたい。出来る限りの力を貸そう。
それにしても、今まで散々ひどいことしたのに、「今までありがとうございました」だなんて。変なやつだ。
(ま、気分はそんな悪くなかったけどな。複雑っちゃ複雑だったけどよ)
何だか笑えた。
「隊長?」
「何でもねえよ」
ホント、上手くやってくれよ。優太郎。
「優くん、支度できたけど、今から行くの? もう少し休んだ方がいいんじゃない?」
「平気だ。行こう」
優太郎は椅子から立ち上がった。
優太郎は腕や足に包帯を巻かれていた。それから頬に大きな絆創膏が二つ。一つは斬られた部分を治すため、もう一つは卍の傷を隠すためだ。不格好ではあるが、仕方ない。
優太郎は雫の店兼家に着いてすぐ、全身から力が抜けて動けなくなってしまったのだ。雫が最低限の荷物をまとめている間、休んでいたのである。今は大分動けるようになったが、上手く体に力が入らないのは否めない。
「本当に平気?」
雫が心配そうな顔をする。
「ああ。荷物貸せ」
半ば取り上げるようにして、荷物をいくつか持つ。元気だ、というのをちゃんと見せたかった。あまり心配させたくない。
「優くんったら、もう。無理しないでね」
「大丈夫だ」
「駄目だったら言ってね?」
「分かった」
歩き出す。
雫はいつもの白いコートと白いマフラーをしていた。
「そのマフラー、ぼろぼろになったな」
「うん。でも、気に入っているから」
「そうか」
それならいい。気に入っているなら、いい。
「もう朝だね」
ぽつりと雫が呟いた。
「ほら」
つられて、その視線を追う。そこにあったのは。
「朝日……」
太陽がゆっくりと地平線から姿を現していた。その光が空を、町を、薄い、それでいて鮮やかな橙色に染めていく。
美しい。
外で朝日を見るなんて、いったいどれくらいぶりだろう。四年ぶりかもしれない。言葉に表せない感情が溢れてきて、泣きそうになった。ぐっと堪えて、雫の方を見る。雫は朝日に向かって微笑んでいた。
もう一度朝日を見る。それから、そっと目を細めた。
第一部 完
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