第三章 壱
どんよりと曇った日だ。今にも雨が降りそうなほど、空は暗く低い。いくら十二月とはいえ、この地方は雪よりも雨になることの方が多い。今日は雨だろうか、雪だろうか。
日が暮れ、夜になった。星や月が一切顔を出さないまま、時間が過ぎる。
紅蓮は下を向いて歩いていた。その目はどこを見ているわけでもなく、どこか虚ろだ。
(天泣)
紅蓮は今一人だ。いつもこの時間近くにいるはずの人物はいない。ついこの間の任務で死んだらしい。
ぼんやりと、今日の出来事を思い出した。
廊下で作之助と会ったとき、天泣はどうしたのか、と聞いた。すると作之助は冷たい目をして言った。
「死んだよ。――お前、力制御してるだろ」
「せいぎょ……?」
「そうさ。お前は殺せる敵を殺さなかった。アイツはその死に損ないに殺されたんだよ。肩口斬られて、海に突き落とされてね」
それは、つまり。
「お前がちゃんとしてりゃ、アイツは死ななかった。お前のせいで、天泣が死んだ」
全身に走る衝撃。
「もう馬鹿な馴れ合いはやめるこったな。もう二度と敵が殺せなくなるぞ」
馴れ合い。それは何のことを指す?
「非情になれ。情を捨てろ。お前は卍部隊兵だ。それ以外何でもねえ。忘れんなよ」
そう言って作之助は去った。紅蓮はその場から離れられなくて、一人たたずんでいた。
今も作之助から言われた言葉は、ぐるぐると頭を回っている。
寒い。寒い。全身が震える。歩いているのに、外套をたぐり寄せているのに、寒い。
「優くん?」
振り返る。後ろには雫が心配そうに立っていた。
「ねえ、天泣さんは?」
「……っ」
ぱっと顔を逸らした。
「死んだ。アイツは、死んだ」
こんなにも自分の声が小さいとは思わなかった。おまけに少し震えている。
「そんな、嘘でしょ?」
(嘘なわけ、ないだろう)
雫は状況をあまり飲み込めていないように見える。でも、瞳だけは不安そうに揺れていた。
「冗談やめてよ」
(だったら、なぜ今ここにいないんだ!)
「もう、帰れ」
言葉がこぼれた。
「え」
「帰れ。そして二度と来るな」
「どうして……」
「もう誰かと関わりたくない」
戻るんだ。あの、隊に入りたての頃に。誰とも関わることがなかったあの頃に。そうすれば、誰かを失って、辛いなんてもうなくなるじゃないか。こんな思い、もうしたくない。
「そんなこと言わないでよ」
「大体、お前は俺の何なんだ」
この言葉はきっと、雫にとってはどんな刃物よりも痛いかもしれない。でも、言葉は止まらない。
「幼なじみとか、本当の事ではないんだろう」
案の定、雫が目を見開いた。驚いて、呆然としている。
「もう、どこかに行ってくれ」
歩き去ろうと、前を向く。その時、ぐんと腕を引っ張られた。驚いて振り向く。
ぱん、と乾いた音がした。
頬を叩かれたと気がつくまで、ずいぶんと時間が掛かった。
えらくのろまな動作で雫を見ると、目から大粒の涙が溢れてる。
「な……」
「ばかばかばかっ! 優くんのばかあ! いくら天泣さんが、……でも、これはない!」
そのままぽかぽかと拳で胸を叩かれた。全然痛くない、弱すぎる力。でも、紅蓮はそれに抵抗しようと思えなかった。
しばらくの間ずっとばかばかと言われ続けた。
「雫」
やっとのことで言う。しかしキッと睨み付けられた。
「優くんのばかっ。ひどいよ!」
雫が怒っている。何て言ったから? 幼なじみなんて嘘って言ったから?
「……」
でも、これ以上近くなるのは怖い。近くなれば近くなるほど、失ったとき辛いって、知っているから。辛いのは、もう嫌だ。
「ああもう! 幼なじみを否定したのは許せない! 優くんでも、私怒るよ!」
(もうやめてくれ)
「ばかばかばかー!」
(帰ってくれ)
「いつまでもばかばかって言うよ!」
(それで気がすむならいつまでも言われつづけよう)
しばらく雫はばかばかと言いながら紅蓮を叩いていたが、突然はっとして言った。
「あ……。ここで満足するまで叩いたら、もう優くんに会えないかも」
(会えなくていい)
「むう」
雫は叩くのを止めた。それを機に紅蓮は雫を持ち上げ、脇にかかえる。
「降ろして」
「いいから、帰ってくれ」
「ちょっと」
そのまま向こうの通りに向かって歩き出す。雫がじたばた暴れたが無視した。
家の近くまできて、雫を降ろした。本当は投げようと思ったが、なぜか普通に降ろしていた。
「ねえ、優くん」
「……」
何も言わず、走り出す。
分かっている。逃げているだけだって。雫から、現実から逃げているだけだって。でも、逃げずにはいられない。目を背けないと、辛い、悲しい波に飲み込まれて、消えてしまいそうになるから。
遠くで雫が「優くんのばかあー!」と叫んだ気がした。
気がつけば、さっきの通りに戻っていた。走るのをやめ、落ちていた自分の軍帽を拾う。さっき叩かれた時に落ちたらしい。
(いなくなった)
もう一人だ。ここを歩くのは、もう自分だけだ。天泣は死んだ。雫は自分が追い払った。
誰もいないんだ、という言葉がぐるぐると頭の中を巡る。俺以外、誰もいないんだ。
「……っ」
軍帽を被る気にはならなかった。ふらふらと小道まで歩いていって、ずるずるとしゃがみこんだ。小さく丸まって、壁によりかかる。寒い。さっきよりもずっと寒い。
叩かれた頬と胸が、今更になって痛み始めた。
うずくまる紅蓮をあざ笑うように、雨が降り始めた。
「ああもう。どうしよ」
雫は店に置いてある椅子に座った。
(なんで私、追いかけなかったのかな。それも、家の中に引き上げちゃって)
はあ、とため息をつく。
(だって、あんな優くん初めて見たもん。……天泣さん、本当に死んじゃったのかな)
天泣が死んだことについて、ぼんやりとした実感しかない。きっと間違えなんだろうな、また会えるんだろうな、とどこかで思っている自分がいる。でも、優太郎が傷ついていた。辛い思いをしていた。その事がようやく天泣と結びついてきて、天泣が死んだことがなんとなく現実のようになってくる。
天泣さん、もう戻ってこないんだ。優くんみたいに。
急に体が重くなったように感じた。ぐったりと椅子によりかかる。
(天泣さん……)
落ち着いていた涙が再びあふれ出してきて、視界がぼやけた。思い出が頭を巡る。
(短いつきあいだった私でも、辛いよ。優くん、もっと辛いよね)
涙をぬぐう。立ち上がろうと思ったが、うまく力が入らなくてやめた。しばらく椅子に座っていよう。
(優くん、ごめんね)
心を閉ざしたくなるの、分かるよ。私だって同じような時あったもん。だからごめんね。ばかは私。ばかなんて言って、ごめんね。
外は雨が降り出したようだ。始めはまばらだったのに、だんだん強くなりつつある。この雨は、いつ止むのだろう。優太郎は濡れていないだろうか。
(でも、幼なじみを否定されたのは許せないかな)
雫も、辛い思いはしたくない。特に誰かを失ったときの辛さだけは味わいたくない。それと同じくらい味わいたくないのは、心を閉ざした人が近くにいて、自分がどうにもできないときの辛さだ。それを乗り越えるために辛い思いをするのは、我慢できる。
(ちゃんと証明して、いつもみたいに笑ってあげられたら、きっと……)
でも問題はその手段だ。そう簡単に証明できるわけがない。ああでもないこうでもないと考えているうちに、雫はある方法を思いついた。
(あ、出来る――)
でも、危険すぎる。あまりにも。失敗したら、どうなるのだろう。仮に成功しても、その後、どうなるのだろう。
考え直そうとして、でもやっぱり他は思いつかなくて、雫は決心した。さっき考えたのを決行しようと。あまりにも危険で、先の事は何も分からないが、確実に真っ暗だ。証明できたとき、その先に広がるものは暗闇。でも、振り返った時に見える灯火が見えれば。
(優くん怒るかな。ううん、多分悲しむ。でもね、私はあなたとの思い出、全部忘れられないの。全部覚えていたいの。思い出否定されるのは、どうしても嫌なんだ)
だから、このわがままを許してね。
(こうしちゃいられない。準備しなくちゃ)
雫は立ち上がり、服入れをあさり始めた。
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