第二章 弐

話していた。

「優くん、今日はね、お芋焼いてきたんだよ」

「芋か」

「うん。おにぎりが良かった?」

「いや、そんなことはない」

「そっか、良かった~」

 まだ温かい芋を渡される。手袋越しに伝わる温かさが心地よい。後ろを見れば、天泣も温かそうに芋を握っていた。一口かじると、ほどよい甘さが口の中に広がった。たまらずにもう一口かじる。

「うまいな」

「でしょ? お母さんが送ってくれたの。でも一人じゃ食べきれなくって」

 芋をほおばる雫は、何となく小動物みたいに見える。いつもそうだ。食べている時は小動物が連想させられて、面白い。

「お母さんが?」

「そうそう。普段貸し屋さんやってるのにね、気まぐれで畑借りてお芋作ったんだって」

「ほう」

 雫はいつも楽しそうに話す。見回りに集中しなければいけないと思いつつ、その話に耳を傾け、心地よく聞いて、相づちを打っている自分がいる。良いのか、と不安になるが、話している間はその不安すら忘れたくなる。ただ、話を聞いていたい。このような事を天泣にぼやいたら、「僕が見回りやってるから、安心していいよ」とにやけた顔で言われた。あまり信用ならない表情ではあったが、その時は素直に頷いてしまったのを覚えている。

「あ、霜柱」

 雫が立ち止まり、その場で足踏みした。そのたびにざくざくと音がして、雫の目が輝く。

「わあ、面白いよ」

「ちょ、雫ちゃんかわいい」

 天泣がたまらなくなったように吹き出し、思わずじっと天泣を見てしまった。

「あ、いや、別にそういう意味じゃないからね?」

「何だ、そのそういう意味とは」

「いいよ、分からないなら」

「は?」

「まあまあ」

 小さく首を傾げたあと、雫を見やる。すると、雫もきらきらした表情でこちらを見ていた。

「何だ」

「向こうにもありそう! 行こう!」

「おい」

 手を引かれ、そのまま走り出した雫について走り出す。ちらりと後ろを見ると、「行ってらっしゃい」とでも言うように天泣が手を振っていた。行っても問題無さそうである。

 少し走ると、雫のマフラーが風に揺れて、するりと落ちてしまった。慌てた雫が拾うより早く、紅蓮が拾う。それから埃を払って雫に渡した。

「ありがとう」

 雫は大事そうにそれを抱きしめた。払いきれなかった土埃がコートに付くのも気にならないようだ。

「大事、なのか?」

「うん。とっても大事」

 雫の表情は、少しだけ寂しそうに見えた。その表情に、何とも言い難い気持ちになる。焦るというか、悲しいというか、何て言うか。言葉が見つからない、そんな気持ちになる。

「何か、思い出でもあるのか」

「あるよ。すっごい大事なこと。――これ、あなたに貰ったんだよ」

「俺に?」

 寂しそうな表情をしたのは、自分が何も覚えていないから、か。

「すまない」

「え? どうして謝るの?」

「いや……」

 たまらなくなって、視線を逸らした。今目を合わせたら、言葉の見つからないこの感情に押しつぶされてしまいそうだ。

(何か、覚えていることはないのか?)

 いや、あったらとっくに気がついているか。

(つまり、無いと?)

 ぐっと胸に乗る重しがとてつもなく重い。この重しは何をしたら軽くなるのだろう。

「話してくれないか。その時何があったのか」

「え」

 雫は何度も瞬きした。それからぐっと何かをこらえて言う。

「ごめんね。これは、また今度にしよう?」

 その笑顔は無理矢理作ったものにしか見えなくて。

「あ、ああ」

「私もう帰るね。じゃあ、また明日」

 こちらが「また明日」というのも聞かずに、雫はぱたぱたと夜道を駆けていった。最後に見えたその顔は今にも泣きそうで。さっきからある言葉の見つからない感情が、さらに大きくなった。

「紅蓮」

 不意に天泣が話しかけてきた。

「何だ」

「さっき、戸惑ってたね」

「戸惑う?」

「うん」

(あれが、あの感情が、戸惑う?)

 俺は戸惑っていたのか。

「俺は、雫に嫌な思いをさせたのか?」

「ん? さあ、どうだろうね」

 天泣が前を歩き出した。少し経ってから、ようやく紅蓮も歩き始めた。


(まさか会ってたとはな……)

 作之助は紅蓮たちの様子を物陰から見ていた。さっき任務が近くで行われ、帰るついでに見回りをしようと思ったところ、その三人を見つけたのだった。

 雫がこっちに向かって走ってきた。すでに物陰にいるが、慌てて隠れる。幸いにも雫はこちらには気がつかずに去っていった。通り過ぎる時、表情が一瞬だけ見えた。想定外に、泣いていた。

「?」

 なぜだろう。よく分からないまま、目をこらして紅蓮を見ると、困ったような顔で何か呟いた。天泣もそれに対して何かいい、そのまま歩きだしてしまう。全然何があったのか分からないままだが、作之助はあることに感嘆していた。

(紅蓮も、あんな顔するんだな。ずいぶんと人間らしくなってきたじゃねえか)

 少し前までは他の隊員と同じように、冷徹な人間らしさの欠片もない人だったのに。こんなにも人は変わるものなのか。

(やっぱ、あの幼なじみの影響はでかいか)

 雫。満月雫。前に会った時とちっとも変わっていない。紅蓮――優太郎の事を大切に思っている。

 そういえば、紫陽には「紅蓮の資料を確かめた」と言った気がする。でもそれは半分正しくて、半分誤りだ。本当はとうの昔から事実を知っていた。今思うと、わざわざ紅蓮の資料を確かめたのは、接触したのが紅蓮と雫であって欲しくないと思ったからだろう。別人であれと思ったからだろう。でも、別人じゃなかった。本人たちだった。

卍部隊の隊員は、基本的に死ぬまで卍部隊の隊員だ。途中脱退は全くの異例である。自分が知っている限り無い。正確には、途中脱退をしようとした部隊兵はいた。でも、そいつは。

(俺の手で――)

 あの時の事は忘れられない。事が全て済んだあとも、心臓の動悸が収まらなくて、苦しくて苦しくて、どうにもならなかった。目に焼き付いた景色と赤い色がずっと離れなかった。

 だから、別人であればいいと思った。もし、途中脱退を希望してしまったら、昔と同じ事が起きてしまうかもしれないから。

(でも、紅蓮なら。アイツなら、同じことにはならないかも、な)

 少し体が震えた。手で外套をたぐりよせる。これは、寒さのせいか、それとも。

 ひどい話だと思う。あの日あのとき、泣きわめく雫のもとから、気を失った少年を連れて行ったのは自分の命令なのに。それが何でもないフリをして、その少年の前に、隊長として立っているなんて。

(俺、恨まれてそうだな。いろんな人に)

 自分は将来地獄行きだな。そうふと思った。それから、誰に言うわけでもなく呟く。

「まあ、紅蓮よ。俺はお前の邪魔はしねえよ。会うなとも言わねーし。手は貸してやりてえけど無理だな。神崎に目ぇつけられたら終わりだもんな。今すげー監視厳しいし」

 ふと上を見る。雲が月にかかっていて、あまり明るくない。でも、なぜかきれいに見える不思議な空が広がっている。

「上手くやれよ、ホント」

 そろそろ行くか、と路地へ出る。風通りが良くなったせいか、先ほどよりも冷え込む。基地に向かって歩き出すと、ぱきりと音を立てて霜柱が割れた。


 雫は真っ直ぐに家に帰ると、布団に潜り込んだ。布団に入ったままマフラーを外し、ぎゅっと抱きしめる。

(嫌だなあ。逃げてきちゃった)

 このマフラーは本当に大事だけれど、貰った時何があったのか話すのは怖い。思い出すだけで涙は出るし、体は震え出す。そして、激しい後悔の念に押される。もう一人の自分に、「悪い子だね、あなた」と後ろ指を指される。

(あのとき、優くんは気にするなって言ったけど、そんなの無理だよ)

 あのとき私は、どうしてあの場所に近づいてしまったのだろう。どうして心の中で優太郎に助けを呼んでしまったのだろう。

 布団をたぐり寄せ、体に巻き付ける。巻き付けても、全然温かくない。むしろどんどん寒くなっている。

 あのとき優太郎が来てくれなかったら、自分はどうなっていたか分からない。でも、もし優太郎が来なかったら、「死んだ」ことにはならなかったはずだ。

 優太郎が死んだと聞いたときは、鉛の塊を叩きつけられたような気分になった。足から、全身から力が抜けて、動けなかった。涙があふれてあふれて、泣きじゃくった。もう涙なんか残っていないんじゃないか、ってくらいに泣いた。

(でも、本当は疑ってたんだよね)

 もう涙がかれて、ぼんやりするのも通り越して、ふと冷静になった頃。不意にあの人の言葉がよみがえったのだった。「そう簡単に、死なせやしねえよ。俺が約束する」という言葉を。その瞬間から、優太郎の死を疑い始めた。遺体が帰ってこなかったことが、それを裏付けた。人に言っても信じてもらえなかったけれど、自分だけは信じてた。

 そうしたら、会えた。満月の夜に、卍部隊兵と一般人という形でだけれど、会えた。向こうは自分のことを覚えていなかったけれど、会えた事に変わりはない。

 それにしても、どうして優太郎を始めとする卍部隊兵は、記憶がないのだろう。それに、どうして死んだことになっているのだろう。国家機密だからか? いや、理由になっていない気がする。お国から見ると、記憶がない方が都合がいい、と考えるのが一番納得できるけれど、どうして都合がいいのかということまでは納得ができない。

 全然分からない。いくら考えても全然分からない。

(優くんに記憶を取り戻してもらいたいけど……、記憶が戻ったら、優くんどうなっちゃうのかな)

 もし、あえて記憶が無い状態にしているのなら、取り戻したときどうなる。部隊を辞めさせられる? 続けされられる? 気がつかなかったふりをされる? それとも……?

 最悪の事態がふっと頭をかすめて、怖くなって頭を振った。想像をかき消すように。

(いいのかな。思い出しても)

 ぎゅっと目をつむる。マフラーをきつく抱く。

(そもそも、記憶が戻ることなんてあるの? 優くん、私の事覚えてなかったじゃない。私と話しても、何も思い出してないじゃない)

 段々自分の思考が暗くなっていることに気がつき、苦笑する。それからむくりと起きあがると、椅子に座った。

「どうしようかな~」

 わざと明るい声で言う。どうせ今日は眠れそうにないんだ。眠くなるまで何かしていよう。考え事でも、お裁縫でも、何でもいい。

 鉛筆に手を伸ばしたとき、「私は優くんに何ができるの?」という言葉が胸を横切った。ずきり、と胸が痛む。

「私にだって、分かんないよ……」

 涙があふれないように上を向く。それでもあふれそうになって、目頭に手をあてた。

 優太郎は記憶を欲しがっているのだろうか。さっき、「過去について教えてほしい」と言ったから、欲しがっているのかもしれない。だったら、私はその手伝いをしてもいいのだろうか。

(これは、もうちょっとの間考えさせてね。私は思い出して欲しいけれど)

 紙を出し、鉛筆で文字と絵を描く。

(天泣さん。そうなった時は、ずるいと思うかもしれませんけど、勘弁してくださいね)



「雫」

 雫の姿を見つけてすぐに、紅蓮は声をかけていた。「なあに」と雫が笑う。その笑顔はいつも見せる優しいもので、ほっとする。

「その、昨日は悪かった。嫌なこと聞いたみたいだ」

 雫ははっとしたように瞬きした。

「ううん。そんなことないよ。元は私が悪いの。だから、気にしないで」

「悪い……? 雫が?」

「あ、これも気にしないで。また、今度話すから」

(今度、か。今は話したくないのか?)

「分かった。今度だな」

 かみしめるように言うと、雫は「うん」とだけ言った。それから少し黙って、口を開く。

「ねえ、卍部隊は記憶を取り戻すとどうなっちゃうの?」

 ためらいながら雫は言った。紅蓮がはっとして見ると、雫は珍しく顔を逸らしていた。視線をこちらに向けられないといったふうに。

 それは軍から何をされるのか、ということだろうか。そういえば、知らない。思い出したらどうなるのか。それは知らない。天泣の方を見ると、静かに首を振られた。

「分からない、俺には」

「そう、なんだ」

 雫は何か考え込んでいる様子だった。何を考えているのかも気になるが、それと同じくらいその表情が気になった。そんな顔されたら、どうすればいいか分からなくなるではないか。

「何もないよね? 思い出しても何もないよね?」

「無い。絶対に無い」

 自分でも驚くほどきっぱりと言っていた。本当に何も知らないくせに。確証だって無いくせに。理由は分からない。気がつけば言葉が勝手に飛び出していた。でも、その言葉で自分の胸が軽くなったこと、雫が笑顔になった事だけは確かだ。

「良かった。……じゃあ、お茶飲む?」

 差し出されたお茶は温かくて、おいしかった。じんわりと染み渡る温かさは、心まで届く。その感覚が好きだから、雫のお茶は好きだ。

「雫ちゃん、ごめんそろそろ」

「あ、は~い。じゃ、また来るね」

 雫が行こうとして、慌ててその腕を掴んで引き留める。

「雫、待て」

「どうしたの?」

「軍の関係で、五日ほどここを空ける。その間見回りは行わない。だから、その、なんだ。……五日後、だな」

 しどろもどろになりつつ説明をすると、雫は少し寂しそうにしたあと、にっこり笑った。

「うん、五日後。――無事、帰ってきてね」

「ああ」

「じゃあね」

 雫はしばらく歩いたあと、一度振り返って手を振った。紅蓮は少しためらったが、小さく手を振った。

「紅蓮」

「何だ。……ニヤニヤするな。今日はひどいぞ。いつも以上だ」

「うわ、あからさまに嫌そうな顔しないでよ。こう見えても傷ついてるんだからね、僕」

「知るか」

「ひどー」

 軽口をたたき合う。気がつけば、ほかの隊員の姿が見えるようになるまで、ずっと何か話していた。

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