人魚のえんがわ

紙箱みど

【みはや試し読み】すやすや

大変~寝坊寝坊!俺、鷹峰咲!アラフォーもそろそろ飛び越すくらいの年齢!人魚のいる水族館で働いてたんだけど、飼ってた人魚に水槽の中に落とされちゃって大変!なんだか呪われちゃったみたいだし、一体これからどうなっちゃうの~!?


「次回!飼育員やめたのに人魚飼うことになった、続けてステイチューン!……いやわけわかんねえな」


そんなことより寝坊している現実に目を向けなければならない。タカミネは何故か仕事をしなかった目覚まし時計で時間を確認しながら、どこか遠くを見やった。今日が病院じゃなくて単なる個人的な約束で良かった。携帯には数件の着信とメールが一件入っている。気心のしれた幼馴染が相手で良かったと思ったが、これは確実にしこたま怒られるやつである。あと確実にメシをおごれと言われるパターンのそれだ。もう今からボイコットしてやろうかと思った。

大きく息を吐く。妙に重い身体を起こそうとして、気づいた。何かが上に乗っているのだ。


「……。……みーかーん。みかーん、起きろ。オイ。みかんってば」


柑橘の名前を呼んで揺すったものは、果物には程遠いものだった。ヒトの形をしているからだ。それだけじゃない。上半身こそヒトの形をしているが、――その下半身は、まさしく魚のそれだった。鱗だってあるし、立派な尾びれまでついている。

夕暮色の髪の毛が、当時どうやってもみかん色にしか見えなかったから、みかん。そうあだ名をつけた人魚の子供が、今どうしてか自分の腹の上で眠っている。ついでに言うと寝間着にめちゃくちゃよだれを垂らされている。


「みかん」


起きない。あと重い。

だいたい三歳児相当の体格をしている人魚は、こう見えてもう十五年は生きている。人魚と人間の成長速度は全く違うのだ。これからしばらくは、人間と同じように身体が大きくなっていく期間。大きくなりきったら今度は、人間よりもずっと時間を掛けて大人になっていく。

この子は本当に運が良かった。運のよさの塊みたいな生き物が、腹の上でよだれを垂らして眠っていた。ありがたさも何もないダイナミックな寝相だった。


「――クッソ!!もう知らねえ!!俺は起きるぞ!!着替える!!」


勢いをつけて豪快に、けれど子供をベッドから落とさないように慎重に。まだ小学生だった頃、友人の部屋のベッドに憧れて、お年玉を総動員して買ったベッドは、そこら中に傷がついていたり、謎のシールが貼ってあったりした。


「んああー」


布団から魚の尻尾がはみ出ている。なんてわけの分からない光景だろう、しかもこの魚、陸にありながら生きているのだ。生きているし歩き回るし喋るし、なんならいたずらもするし泣きわめくしそしてかわいい!しかし血のつながりはまったくない!!


「たーみねどっかいくの」

「行くし今もうね、めっちゃやばい」

「そーなのかあ」

「うわっマジよだれお前すげーうわっお前」


腹までしっとりしている。よだれを垂れ流していた人魚の子供がどうしてこんな田舎の山奥の民家にいるのかというと、とにかく“運が良かった”の一言に尽きる。

みかんの母親は、恐らく世界で初めての、水族館で生まれた人魚だった。水族館生まれ水族館育ち、そしてその二世が、さっきまでタカミネの腹の上に乗っていたほうだ。その水族館生まれ水族館育ちの、人魚のいる――人魚のいた水族館が、かつてのタカミネの職場だ。

水族館の人魚が、ある日人間に恋をしたのだ。そして水族館を抜け出して、ほんの少しばかりの逃避行。その結果無事に愛の結晶を抱えて帰ってきて、そして水族館で生まれた人魚は、世界で二匹になった。そこまでだったら、まだ何歩か譲って目を瞑れば許せると思っている程度の、初めて母親が犯した罪だった。父親の人間が、交通事故で亡くなるまでは。

人魚がみなそういう気質なのか、母親が極めて異質だったのか、もはや判断する術は存在しない。一言で言うなら『気が狂ってしまった』母親は、二十年来の飼育員のタカミネを水槽に突き落として首を絞めて気絶させ、水族館から逃げ出した。それ以降、全く目撃証言はない。今どこで何をしているかもわからない。残されたのは小さな子供の人魚と、タカミネを苦しめる人魚の呪いだった。

一度は、生まれた水族館よりもずっと設備のしっかりした水族館に籍を移すことも検討された。しかしそこにいた人魚たちと意気投合できず、居場所を全く失うかと思われていた子供の人魚を、持てる限りのあらゆる手段を尽くして掬い上げてきたのが、タカミネの同僚だった。彼なくしてタカミネのもとにみかんはいないのだ。『お前がこれから、自分のためにも、みかんを飼え』『お前にしかできないんだ』泣きそうな顔でそう言った声が、耳にこびりついている。

いろいろな人に手を焼かれ、いろいろな人に世話になった人魚が今。布団の中でぬくぬくしているのだ。深く考えてはいけないのかもしれない。


「みかんどうする?」

「なーにが?」

「今からメシを食いにいくぞ、外に」

「おそと!」

「イエース」


布団から、尻尾ではなく頭が出てきた。

鮮やかな夕日色の髪。薄橙から毛先に行くに従って、オレンジ色が濃くなって赤色に変わっていく、人魚特有のグラデーションの髪。その髪の毛の下から覗いている耳は、ちょっとだけ尖っていて、そして上の縁は青い鱗で覆われていた。ちなみに耳の後ろ側はすっかり鱗で覆われているのだ。


「行くんだったらちゃんと服着ような。あとお外に出るのでちゃんとひとの足で歩くように」

「あいはい!みかんえらいからできる」

「よーし。じゃあお着替えだ」


布団から出てきた足は、しっかりとした人間の足だ。どういうメカニズムなのかは全くもって不明だが、人魚たちは人間の足と魚の下半身を自由自在に使い分けて活動する。そうしてまだなんとか、髪の毛と耳さえ除けばあとは人間と同じ、という生活をしている。近くでにおいを嗅ぐと魚臭いのだが。


「みかんあれがいい、スカート、ピンクの」

「ピンクのスカートめっちゃいっぱいあんじゃねえか」

「ひらひら!」

「ひらひらもたくさんあるわどれだよ」


タカミネの部屋に新しく置かれた落書きだらけの衣装ケースは、みかんの服用のものだ。一番下の引き出しに入っているのがスカート。中から出てきたスカートを見比べて、真剣な顔でいる幼魚を急かす時間も惜しい。タカミネもまだ上半身は寝間着代わりのTシャツのままだ。


「こっち」

「よーしじゃあ競争。早く着替えた方の勝ち」

「たーみねずるい!もうきてる!ぬげ!」

「やだよ寒いもん!!」


このやり取りの間にも、刻一刻と時間は過ぎている。待たせている友人から再び連絡が入っていたことに気づいて、タカミネは慌ててTシャツを脱ぎ捨てて、適当なシャツをひっつかんだ。隣で人魚がえっちらおっちらスカートに足を通している。

誰も何も指摘しなければ、親子のようにしか見えないだろう。遺伝子的につながりは全くない二人――一人と一匹、だが。


「よっしゃ行くぞ」

「あい!」

「あっやべ靴下穴空いてんじゃん。いっか」


これは、一人の不運な男と一匹の幸運な人魚の、なんでもない毎日の断片だ。ひとつ屋根の下で寝ることのないはずだった一人と一匹の日々の欠片を、軒先から覗いている。ガラスのかけらのようにきらきら輝く日々を。ガラス越しではない世界を。水槽の中ではない、無限に広い世界を。

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