第293話 勝敗を告げる鐘の音を鳴らせ!
狂った鼠は虎から爪と牙を奪った。そして、持てる武器を失くした丸裸の虎は初めて鼠と同じ世界を見た。黒く光が届かない世界。力も奪われ、才能も尽きた、剥き出しの恐怖の世界。
命を奪われる恐怖が当たり前の絶望の世界を――デスゲームという命がけの勝負の世界を。
日の当たる世界しか生きてこなかった者には到底理解できない闇。そこにいるのは命を賭ける者だけ。その冷徹な氷のような綺麗な眼球はこちらを向いている。
傷だらけであろうとも殺意は衰えを知らない。
——逃げなきゃ……殺される……。
だからこそ、体が
いつ尽きるかも分からないチップをテーブルに乗せることが怖い。
その足はマインドゼロの後遺症もあるが恐怖で地に張り付いて動かない。
——この程度か……。
絶望を知らぬ虎の怯えに鼠は呆れた。
——この程度の絶望ですらダメなのか……。
同じ土台に着いただけでその心は折れている。精神が乱れに乱れたノイズの影響をさらけ出すように顔が恐怖に歪んでいる。自分に向けられている眼は当初とは全く別物になっていた。
それは強者の眼ではない。傲慢さも、プライドも、驕りも欠片も存在しない。
自分を見つめるその眼は脅える弱者の眼だ。
だが、動こうに櫻井の体も限界に近かった。執念でここまでやってきたツケが回っていた。体を襲う激痛は動かなくとも湧き上がる。気を抜けば意識が断ち切れそうになるほど。
何度も限界を超えた体を執念で動かしてきたが底を尽きかけている。
この状況を誰もが理解していた。この戦いは終わりを迎える間近だと。
『あと一撃でこの戦闘は決着がつく』と。
黒崎の恐怖で過呼吸気味の音と、櫻井の痛みで死にそうな呼吸の音が響く。
——腕が上がられねぇ……足も振り上げるのは無理か……。
櫻井は動いてるのが奇跡の体。
右手の指は全て粉砕骨折に加え、両腕は骨折に加え皮膚が剥がれ落ちている。おまけに上半身の胸は魔術札によって血肉が見え、アバラはもう数本イッている。足は気を抜けば崩れる程に弱っている。震えるのを堪えるのが精いっぱいだった。
あと一撃で終わるのに体で動ける場所がない。
——精神が尽きたら終わりだ……。
精神力だけで立っている状態。執念でここまで来たがもはやそれだけは足りない。全てを絞り出したが故に何も残っていなかった。だからこそ少年は望む。
——なんでもいい……動けるのなら。
空っぽの体を動かす燃料になるならなんでもいいと。どんなものでもいいと思った。あと一撃を撃つためだけのものがあれば。そして少年はその胸の内につっかえていたあるものを黒崎に向かって吐き出した。
「お前……さっき言ったよな……忘れてねぇぞ」
「えっ……?」
櫻井の冷たい視線を浴びている顔が歪んで黒崎から涙がこぼれた。
分かる。この鼠はまだ終わりなどにさせる気はないのだと。本当に殺すつもりで殺気の不可視の剣を刺されているからわかる。そしてそれは段々と櫻井の表情に現れつつあった。感情を失ったはずの顔が変化していく。
「俺に向かって……ハッキリ言ったよな……」
それは禁句だった。命を賭けた鼠を馬鹿にした発言だった。ここまでの道のりは楽ではなかった。だからこそ不用意な発言が琴線に触れたままだった。櫻井の感情に小さな火が灯る。
「たかが――!」
黒崎が発したそれだけの単語で分かる。
その一日をどういう意味で過ごしてきたのか。
「高校受験とかふざけたこと、言ったよなァアアア!」
それは少年にとっての生きる意味を持つ大事なものだった。それをバカにしたような発言を取り消させなどしないと怒りの眼光が語る。その怒りは少年の心で燻り、火を立てる。尽きそうになった感情に炎を燃やす。
それは黒崎に向けた体を動かす理由という、怒りの燃料。
黒崎は同じ鼠の窮地に立って初めて理解した。これはいま同様の力を持つ者だとしても個体が違うのだと。修羅場をくぐってきた経験が作り上げる執念が違う。その存在はどこまでも強く見えるからこそ、
「ヒィッ……!」
情けない悲鳴を上げる。櫻井の眼に闘志は消えていない。
その執念が混じった復讐の炎はまだ健在だ。
だからこそ、獣塚は走りながらも勝負の終わりを告げろと声を上げた。
「イケッ!」
あと少しで終わるからこそ止まるなと。
そして、櫻井も同じ気持ちだ。止まることなどない。
腕は動かなくとも足は踏ん張ることしかできなくとも。
「その程度の……」
黒崎に対する憤怒は加速度的に成長している。前に在る怯える姿に嫌悪を覚えた。武器を失くしたら終わりだと停戦を訴える姿勢に憤りを感じた。こうなったからこそ分かる。初めから黒崎はふざけていたのだと。
怒りの感情そのままに攻撃の体勢を無理やり作り上げる。
「覚悟デェエエエエエッ!」
何の覚悟も無く自分の前に立ちはだかっていたのだと。命がけの自分に対して猫が鼠をいたぶる様に軽い気持ちで遊んでいただけだと。腕は上がらない。足も動かない。ならばと上体を激しく起こした。
「——っ……」
だが、そのボロボロの体は、足は、その動きに耐え切れなかった。肉体は限界を告げるリミッターが発動する。それは生存本能によるもの。崩れそうになる身体と激痛で飛びそうになる意識。
肉体は、意思だけで動くのであればと無理やりにでも意識を断ち切りにかかる。
眼の闘志が薄れ輝きが失われていく――倒れそうになる体。
「ダッメェエエエエエエエエエエエエ!」
一葉が大粒の涙を飛ばして泣き叫ぶ。倒れないでと。ここまで頑張ってきた肉体に鞭をうつような声を上げる。もはや思考ではなく感情での行為だった。ここまで立ち上がる姿を見てきたから、この先の彼を見たいから叫ばずにはいられない。
『前例をぶっ壊してこい、主人公!』
その感情は伝染していた。その狂気の先を見たいと願うものは一葉だけではなかった。力いっぱい拳を握って富田と名もなき僧侶が願いを叫ぶ。
「「堪えろぉおおおおおッ!!」」
ここで終わるなと声を張り上げる。此処が勝負どころだと。
そして、それは本人とて望んでなどいない。
断ち切れそうになる意識をつなぎ留めるように、
「ナァアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
激痛を吹き飛ばす様に櫻井は猛り狂った叫びを上げた。叫びに硬直した体は意識を無理やりつなぎ留め足を踏ん張って耐えた。声を出すという意識を向けるという無茶苦茶な方法で断ち切れることを防ぎきった。
それは空気を震わし見ている者の魂を揺さぶる。
一葉たちの顔が、視界が涙で歪む。
武田と岩井が同時によくやったと歓喜の声を上げる。
「「ヨッ――――シャッァアアアアアアアアアア!」」
そして、佐藤の顔も歪んだ。
——コイツ……叫ぶことで意識を……
その闘志は尽きることを知らない。
——無理やりつなぎ留めやがったッ!
その命は輝きを見ているほどに増していく。佐藤の心臓の鼓動が早く鳴る。
——とんでもないヤツだ、お前は……
限界を幾度となく超えていく姿に驚愕を通り越して感動を覚える。自分の想像の枠を遥かに櫻井という最低の受験生は超えていく。
——櫻井はじめッ!
それは猫も同じだった。身震いが体を襲う。いま見ている者を見誤っていたことに嬉しさすら湧く。人間というものを知りたいと願うが故に新しい可能性を見つけた喜びに打ち震える。
櫻井はじめという目の前にいる者は、
——勇者でもにゃい……英雄でもにゃい……
デスゲーム出身の男。英雄は強い。英雄は負けてはいけない。それでも前にいる男は違う。弱くて敗北しか知らない。それなのに眼が離せない。
『これは英雄になれなかった少年の悪足掻きでしかないにゃんよ……』
猫は三葉達の前で櫻井の愚行をそう決めつけた。英雄の条件から外れた者と、これは悪足掻きだと。
——なのに……なぜ……
その景色は決して華やかなものではない。才ある者の闘いとは呼ぶには到底及ばない。泥臭くも醜いもの。しかし、それでもそこに強い意志を感じる。それが胸をかき乱す。猫の顔を興奮に歪める。
——こんなにも魂が震えるのにゃッ!
辛うじて意識をつなぎ留めた眼は再び殺意を宿して敵へと向けられた。その眼は上から冷たく覚悟なき強者を見下ろす。黒崎嘉音の顔が絶望に染まる。黒い夜を纏いし狂人の殺意の視線に凍り付いた。
「俺の前に――」
冷たい声色が殺意を告げる。トドメを刺してやると。
その櫻井の想いに応えるように興奮しきった岩井と武田は大地を強く踏みつけて、握った拳を
「「ブチかませッ!」」
全てをぶつけて砕いて来いと。ここまで歩いてきた道のりを見てきたかこそ報われて来いと。渾身の一撃を持って閉められた扉を壊せと。
「立ち塞がってんじゃ――」
幾度となくその前で邪魔をされたからこそ出た言葉。閉じられた門の前で醜く足掻く自分を追い払う為の門番に向けられた怒りの言葉。その眼は怒りで輝きを増す。自分の絶望になってやると嗤った男に向けられた最大の怒り。
もう、勝敗は見えている。
その光景に三葉はそっと目を閉じて初めて出会った状況を思い出す。
『アンタ……何言ってんの? その状態で――』
――基礎体力試験の第二試験で君はもうすでにボロボロだったよね……
だからこそ、三葉は櫻井を止めようとした。
『こんな結果でまだ続ける気なの……』
あの時は無理だと心から思っていた。
『その無意味な状況で、その重体で、弱いアンタに何が出来るっていうの?』
——その君がここまで来ちゃったんだよね……。
そっと目を開けて櫻井の戦う姿に目を向ける。今でもボロボロなままだ。何一つ状況は変わっていない。むしろ悪化している。それでも櫻井は立っている。
『マカダミアの試験合格者は上位百名。あなたは現状三千番目。この基礎体力試験でそんな結果じゃ貴方は受かりっこない!!』
——その事実を前に君は歩き続けたから……今があるんだよね。
自然と涙がこぼれだした。ずっと耐えてきた姿に。ずっと諦めなかった意思に。
『わからないなら、何度でも言ってやる! アンタは最下位で才能がないから無理だって言ってるの!!』
——才能がなくとも、実力がなくとも、君はいま輝いてるよ。
三葉の眼に櫻井はどこまでもカッコ良く映った。どこまでも諦めなかった。どこまでも貫き通した。彼女の中で今日という一日限りの受験で忘れられない男になった。そして、いま一番愛しい受験生となっている。
だからこそ、彼女は胸のあたり掴む。
——何度も冷や冷やさせられたから……吊り橋効果ってやつかな……。
心が締め付けられる。どうしようもなく吐き出したい。彼の姿を見ていると止められない感情の波に飲み込まれていく。呼吸すらままならないほどに。
『――ってって言ってあげればよかったかな……』
最初に別れた後で彼女は後悔した。言えなかった言葉があった。
——ずっと見てきたよ……
ここまで彼を見てきたからこそ心の底から言える。心の底から願える。
——だから、言わせて……
その声は届くかも分からないけれど、彼女は涙を吹き飛ばす様に、
腹の底から、心の底から、胸を掴みながら声を張り上げる。
「頑張れェエエエエエエエエエエエエエエエエエ!」
一人の少年に向かって。その一人だけの為に。
もはや、完全に化けた。その彼の行く道を嗤うものはいない。
最初は誰もが身の程知らずと可能性はないと蔑んだ。それでも幾度となく押し寄せる絶望に負けなかった彼をあざ笑う者などその場に誰一人もいない。
その男は後に皆からこう呼ばれる――
そして、彼を認めている者達も同様に感化されている。その幾度となく立ち上がるエリートの姿に心を揺さぶられていた。その闘う意志は折れない。絶望に負けない。絶望を前に打ち砕くように激しく意志をぶつけ、体を振るう。
「じゃ、ネェエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!」
絶望に向かって咆哮して振り下ろされる渾身の一撃を岩城達は見つめた。
彼が教えてくれた言葉だ。
『
今まさに目の前にいる男はそれを文字通り行っている。命を賭けて尽きるまで出し尽くしている。勝負所を見極めて己が持てる全力を出している。
そして、この言葉には続きがあると教えた。
『
飽くなき執念で勝利に向かって進んでいく。いくつもの策を労し、耐え抜いた先に掴んだ勝機。それを離してはいけないと。離すものかと。
『ONE FOR ALL、ALL FOR ONE』
『一つの勝利の為に皆で力を合わせよう』
教えられた言葉は繋げると意味が変わる。だからこそ岩城達はエールを櫻井に届ける。自分達の想いも乗せていけと、落ちこぼれ組のエリートへ。
「「「勝てぇええエエエエエエエエエエエ!!」」」
もう自分たちはリタイアしていたとしても心は一つだと。試験官を倒そうとした想いは一緒だった。俺達はお前の味方だと声を張りあげた。お前の勝利を願うと。
「——ッ!」
ここまでの全てを想いを乗せるようにして絶望へと向けられた一撃。
それはミシリと鈍い骨と骨が当たる音を上げる。
それは勝敗を告げる勝利の鐘の音――。
最後まで無様な姿だった。腕も上がらないから、足も上がらないから、櫻井は体を振るい頭をぶつけた。技とは呼べない。綺麗さも美しさもない。それでも彼の強い意志を表す様に黒崎の頭部にお見舞いされた、最後の一撃。
その鐘の音を追うように、数秒遅れで鈍い鐘の音がなる。
それは今日という日の終わりを告げる音。また零へと戻る合図。
零時を告げる鐘の音が校庭に鳴り響いた。
《つづく》
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