第220話 ピエロ過去編 —生きると決めた時だと俺は気づいていなかっただけだ―

 彼が話すようになった翌日のことである。


 私は鼻歌交じりに革靴の紐を結んでいて玄関に座り込んでいた。その後ろには彼が立っている。見送りをしに来たのだろう。それが堪らなく嬉しい。私とあまり離れたくないということなのかな。


 私は靴を履き終え彼の方を向いて笑顔でいう。


「今日仕事を早めに切り上げて帰ってくるからね♪」

「銀翔……」


 なんだろう……声のトーンが低い。目覚めたばかりからだろうか。昨日から怒ってばっかだからそういう子のなのかもしれない。おそらく元から不機嫌っぽい感じなんだろう。おまけに呼び捨てがデフォルトだし。


 と、勝手に彼を決めつけていた私に、彼は長いため息をついて不愛想に呟く。


 それは衝撃の一言だった。


「ちゃんと仕事しろ。銀翔は終わるまで帰ってこなくていい」

「えっ?」


 投げ捨てられたような言葉に面を喰らった。ブラックユーモラスのトップである私の稼ぎは一般からすれば大分高い方なのだが……世間の結婚されている旦那さんはこういうことを毎朝玄関でお嫁さんに言われるものなのだろうか……。


 すごい切ない……。



◆ ◆ ◆ ◆



 銀髪男はちょっと悲しそう顔をして『お仕事行ってきまーす』と小声で出ていった。


「ったく……」

 

 姿が消えたのを確認してから思わず悪態が漏れる。触れてしまったからわかっている。あの男はブラックユーモラスのリーダーという重要な立場でありながら俺の為に仕事そっちのけで介護していたことを。会社机の上に未確認の書類が山の様に溜まっていることも把握した。


「アイツにこれ以上は迷惑かけられない」


 俺はダボダボの寝巻を引きずり廊下を歩いていく。あの銀髪の身長が高すぎるのだ。モデルみたいな背格好だし膝までつきそうな長髪。ただそれがやけに似合っている。それに合わせて成長期がきていない俺の身長はそこまで高くない。


 まぁかといって低いといわけでもなく平均ぐらいだ。


 今年十四才になるばかり。普通にしてれば中学二年生。アイツは三十八歳。

 

 当然の結果が寝巻に現れた結果、引きづるしかない。


「それにしてもスゴイとこに住んでるな」


 数メートルの廊下を抜けて見る部屋は高級マンションだ。部屋の天井が高くて普通だったら二階とか作れそうだし、部屋の真ん中に扇風機みたいなシーリングファンというものがクルクル回っている。ソファーも四人掛けでテーブルも昨日使ったが六人家族用だ。


「アイツ……一人暮らしのくせに……それとこれどうすんだよ」


 俺はテーブルの上にあるものに顔を顰めた。それは昨日のことだ。俺がパンと軽い気持ちでいったら尋常じゃないパンを買ってきた。陳列棚を買い占めてきたのかと思うぐらいの量。俺が『なんでそんなに買ってきたと』若干引き気味で尋ねたら、ヤツは満面の笑みで『どのパンを食べたいか聞いてなかったから! 買えるだけ買ってきたんだ!』とぬかした。

 

 俺は超呆れた。二人しかいないし相撲部屋でもこんなに食えんだろうという量だ。コイツは俺を助けておいて糖尿病にして殺そうとしているのかと勘繰りたくなった。


 しかし、ヤツのだらしない笑顔を見ていたらそんなことも言えず、俺はため息を吐きながらパンを二つだけ食べた。


 それが昨日のこと――


「軽く50はいってるな一食二つでだめだ……消費期限が切れる」

 

 計算しようとしてすぐに止めた。考えなくても圧倒的質量でわかる。意外と菓子パンの消費期限は早い。ここにあるものは大体二日程度切れて、下手したら一日というものもある。間に合うわけがない。意識を取り戻したら、黄金伝説ではなくいきなり菓子パン生活が開始されるとは夢にも思わない。


 あの銀髪は普通じゃない。それだけでは終わらなかった。


 風呂に入ってた時だ。俺が自分で頭を洗っていると後ろから扉が開く音がした。何か用事でもあるのかと目を瞑りながら『なんですか?』と聞いたら、『えー、ひとりで洗っちゃってるの』と訳の分からないことを悲し気に言うもんだから、何を言ってるとすぐに、


 シャンプーを洗い流して目を開けると――


 全裸のヤツが立っていた。


 おまけに俺の目線のラインにヤツの股間があったのも最悪だった。


 俺がすぐさま『出ていけッ!!』と叫んだのはいうまでもない。


 中学二年生だぞ。その俺が何が悲しくてアラファーのおっさんと裸の付き合いをしなきゃいけない。親父とだってイヤだと思う。銭湯とかならまだしもマンションの浴室での付き合いはショッキング・ブルーだ。常軌を逸している行動の恐怖に脅えた俺が、意識がない間に何をされていたのか気になって触って確認したのはいうまもでない。


 椅子に座って両手で頭を抱える。


「アイツ頭大丈夫かよ……」


 いい人で恩人なのはわかっているだけにあまり声を大にして言えない。昨日だけでショッキングな真実が次々出すぎて俺は疲れている。寝る時もそうだ。ベッドが一つしかないからといって俺を抱きかかえながらニヤニヤして眠るのが日課だったのも驚きだった。触ってわかってはいる。ヤツはホモではない。卵扱いされていたようだ。


 ヤツの目からみたら、俺は生まれたてのひならしい。


「はぁ~とんでもない奴に拾われてしまった……」


 ため息がでる。オカシイ。俺が人生で会った中でトップレベルにオカシイ。いい大人なのに。他の大人とは違う。純粋無垢な感じ。まるで汚れを知らないようなそういう心の持ち主。


 だから、あんな音を出すのもわかっている。


 あんなヤツにしか出せないんだろうな。あの音は。


 俺は椅子から立ち上がって気合を入れようとするが、裾を踏んずけて足がもつれて歌舞伎役者のように横によっよっよっとケンケンした。ずっと眠りこけていたせいで足腰が大分弱っている。入院期間が長いと筋肉がなくなるというがそれに近いのだろう。


「よし、やるか!」


 やることは決まっていた。アイツに触れて困っていることはわかっている。この広い部屋は一見すごい片付いてモノがなく綺麗に見えるが、その実違う。俺はたくさんある収納棚の一つを開ける。


「うわぁ……」


 中からぎゅうぎゅうに押し込められていたものが崩壊した。靴の空き箱や電化製品の説明書の束。他にもマンションの契約書などの重要書類も無惨な姿で殺害現場の様に倒れている。


「ホントすぼらだな……」


 会社の机もそうだが、彼奴は整理整頓が苦手なのである。そこらかしこにある収納スペース。唯一まともなのは衣服のクローゼットと靴箱ぐらいだ。他は押入れだ。俺はそれをちょこちょこ整理し始める。


 助けってもらっている恩返し兼居候の宿代みたいなもん。


 手に取って空き箱で収納箱を作ったりしてドンドン整理をしていくが、


「はぁ……はぁ……」


 息切れがヤバイ。ちょっと動くと肺が限界を告げている。指も以前より細くなってるし、風呂に入って鏡を見た時は衝撃だった。本当に薄皮一枚だ。あとは骨。どこかの初号機みたいな体系になっている。筋肉がなくなって脂肪もなくて骨格だけで生きてる。


 一個目が終わった時には俺は体力の限界を迎えた。


「もうだめだ……」


 体が悲鳴を上げている。労働に耐えられない。休憩を取る為に俺は冷蔵庫からお茶を取り出してコップにいれ食事タイムにした。いつのまにか十二時を過ぎていた。菓子パンをほおばると甘い。口の中に何味なのかもわからないチョコやクリームの甘さが広がって支配される。お茶を飲むがそれでも舌に残っている。


「ああああ……」


 舌を外に出し空気にあてるが甘さが取れない。おまけに二日続けての菓子パン。朝も菓子パンで昼も菓子パンはキツイ。しょっぱいものが食べたくなるが、目の前の菓子パンを無駄にはできない。


 それでも頑張って食べたが、一個が限界だった。


 それでも俺の腹は膨れた。おなかがいっぱいに満たされている。ずっと食べずにいたから胃が小さくなっているせいもあるかもしれない。お茶を飲みほし台所で洗って水気が取れるようにタオルの上に置いておく。


 洗い終えて窓の外を見に俺は動き出した。


 見慣れない高層からの景色。人の家が低く小さく見える。色とりどりの屋根が不規則なパズルの様に並んでいる。そしてピンク色がひと際目立った。アッチの世界でみることはなかった日本の風物詩。


「桜が咲いてる……」

 

 春だった。俺が冬に帰ってきてからもう春が到来していた。俺が死んでいても世界は回っている証拠だ。俺は外に出ようと窓の鍵に手をかける。ベランダに出てもっと近くで眺めようと思ったんだ。


 ただ何気なくそう思ったんだ――


 ドンという激しい音に――


 俺の手がカギを開けるのを躊躇う。目が見開く。


 窓に見える黒い手形。


 這いずるように外の景色を黒く染めていく。絶望に形はない。どこまでも追いかけてくるということを俺は知らなかった。現実なのか空想なのかの境界線があいまいになっていく。今見ている景色が少し歪んでいく。恐怖で心臓が高鳴っていく。


 俺は震えながら窓から一歩遠のく――


 引きずり込まれそうで怖い。外に出てたら引っ張られていたかもしれない。


「来るな……」


 窓に黒い手形がどんどん増えていく。外の景色を閉ざす様に、太陽の光を遮るように窓ガラス全てを黒に染めるように。亡者たちが窓を叩きつけている。


「来るなッ!!」


 呼吸が激しくなって肩が大きく上下に揺れる。逃がさないと言ってるように俺には見えた。まだ終わってなどいなかった。俺は完全に救われたわけではなかった。忘れさせないと亡者共が具現化している。


「なんで――!」


 いつの間にか窓の外にあったはずの無数の手が俺の足元に伸びて、足首を覆うように包んでいる。どうやって入ってきたのかもわからない。いや、窓の外にしかいないと思っていた。窓の内側には入ってこれないのだと思い込んでいた。


 こいつ等は俺のいる場所に現れる。


「流花――ねぇ――」


 赤い髪の亡者が俺の体をよじ登ってくる。赤い頭頂部が徐々に徐々に俺の顔を目掛けてせりあがってくる。それはバッと俺に顔を見せた。眼がなく洞穴の様に空洞になっている。その空は黒で染められている。顔は焼けただれ皮膚が落ちていた。


 ——裏切り者ッ!


「うっぷッ!」


 急激な吐き気が襲ってきた。俺はトイレに慌てて駆け込む。


「うえぇええええええええええ――」


 吐いた。食べたものを全部吐いた。苦しみを伴いながら苦しみを吐き出す。呼吸ができない程に口からものが溢れ出る。止まらぬ嘔吐は口だけではなく鼻から洩れる。体力や気力全てが奪われていく。恐怖に体が染まっていく。


 俺は勘違いをしていた――


 救われた気になっていた。終わった気になっていた。


 何も始まってなどいなかったんだ。本当に苦しいのは生きると決めた時だと、


 俺は気づいていなかっただけだ。



≪つづく≫

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