第215話 ピエロ過去編 —それが日常ってものなのかもしれない―

 火神のおかげで僅かに荷が下りた感覚はあるが、依然重たい心と体を引きずって我が家に帰ってきた。


「起きて」

「……」


 帰ってきて一番に行くのは寝室なのを疑問にすら感じなくなっていた。帰ってきてから彼をお風呂に入れるのが日課になりつつある。不思議なことだか彼は私が言うとすぐに起きる。それがちょっと嬉しいのもあるから重たい気分を変えるためなのかもしれない。


「お風呂入るから」

「……」


 何も言わない彼の手を引きずって洗面所に連れていき、いつもの様に服を脱がした。そしてふと思い立ち私も一緒に服を脱ぎ捨てた。疲れたし湯船につかろうと思い立ち、それなら一緒に入ってしまった方が効率がいいかと考えた結果だ。


 湯舟には水は入っていない。


「仕方ない」


 私は指をクルクル回して呪力で宙に印紋いんもんを書き上げる。火と水を合わせるだけでそこからお湯が出てくる陰陽術。あまりこういうことに陰陽術を使いはしないのだが、彼を脱がした手前ゆっくり風呂が沸くのを待つわけにもいかないと思った次第だ。


「じゃあ、洗おうか」

「……」


 相変わらず頑として反応は何一つ返ってこないのに苦笑いしてしまう。わざとやっているわけでもないのだろうが、近くで陰陽術を使ってお湯を入れてもぴくりともしないのだから若干悲しくもある。


 彼の髪を泡立てるように指で頭皮を指圧していく。段々と生活をするうちに慣れが出てきて泡立ちが日毎に良くなっている気がする。それにこうやって彼を世話していると何か落ち着く感じがある。心配をしていないわけではない。


 なんというか、独身がマンションでペットを飼ってしまったような心境に近いのだろうか。それでも大分失言に近い。彼は人間だ。人をペットと例えるのは疲れているせいということにしたい。言葉を正すなら彼がいつか笑ってくれるようになるのを楽しみに待っているといった感じだ。


 悪いことばかり続きで何か希望が持ちたいという私の勝手な願望を彼に押し付けているというのが本当のところだろう。


「今日は湯船もいれてみたんだ」

「……」


 何も言わぬ彼の体を持ち上げそっと湯船に体育座りで入れる。一人分の湯船で空きスペースを見ると彼の体が細いせいもあるのか、私がギリギリ一人いけそうに見える。


「私も入るからちょっと待っててね」


 彼がのぼせない様に私は慌ててシャワーで頭と体を洗い、


「失礼します」


 私が湯舟に入ると枠からはみ出たお湯が零れだして排水溝に飲まれていく。入った感想としては足が若干ぶつかりそうなところを私が大股を広げてなんとかテトリスのようにうまく二人で入れてる状態に近い。ただちょっとだけ何か落ち着いてしまっている。


 物言わぬロボットのような彼を前にしてなんで落ち着ているのか。


 疲れた体に温かいお湯が染みわたっているせいなのか、静かなお風呂場でシャワヘッドからわずかに落ちる水滴の音が心地よく聞こえるせいなのか、誰かがいるおかげなのか。


 私は今まで一人暮らしが寂しかったのだろうかと勘ぐってしまうほど落ち着いた。


 何の会話も無い中で彼の顔をまじまじと見るととても端正な顔立ちをしている。色素の薄い茶髪、透き通るような目鼻立ち、水滴が乗るほど長い睫毛。黙っているせいもありどこを取っても美少年だった。


「君はどんな風に笑うんだい?」

「……」

「あはは……」


 素直に疑問を笑顔でぶつけてみるが何も返ってこないことに苦笑いするしかない。自分は何をやってるんだろうと思ってしまう。ふと落ち込んで顔を下に下げると自分の長い髪が湯船につかっているのに気づき、マナー上良くないのかと思って、髪を後ろで結んだ。もちろん髪ゴムなどないので陰陽術で木の枝で即席である。


 天井を見上げてため息をひとつ吐き出した。


「いつか心から笑える日が来ると良いね」


 彼と自分に言い聞かせるように天に向けて唾を吐いたような言葉だった。



 

 落ち込んでばかりはいられない。仕事は日常の様に溜まっていくのがその証拠だ。日々同じことを繰り返しているように見えても段々と溜まっていくデスクの書類。まるで異世界のスライムの様に分裂しているのではなかろうかと疑うこともある。


「銀翔さん、今日は顔色がいいですね」

「そう?」

「はい、最近お疲れ気味でしたから。今日は何かちょっとすっきりされています」


 杉崎さんの言葉にちょっとだけ元気づけられ、思わず口が開きそうになったが私は慌てて別の言葉に差し替えた。


「昨日はゆっくり眠れたからかな」

「そうですか」


 にこやかに笑顔で社交辞令を交わすが内心危ない危ないと思った。昨日物言わぬ美少年と二人でお風呂に入ったからねスゴくスッキリしてるよなどと言ったら、ドン引きされることは間違いない。すごく冷たい目で見られそうな気がする。かくまっているだけでも問題になりそうなのだから間違いない。


「これ差し戻し書類です。確認の判子を押し忘れてましたよ」

「えっ……あっ!」


 差し出された書類を見て私は思わず声上げた。それは彼が突然現れた日の書類。『櫻井はじめ』という名前と写真が載っていた。昨日まじまじと彼の顔を見ていたからやせ細っていてもその目鼻立ちですぐに彼だとわかる。彼の件にまつわるものだと知り思わず目頭が熱くなる。


 何一つ彼について私は情報を持っていなかった故にどれだけ判子を押し忘れたあの日の自分を褒めたいと思ったことか。


「杉﨑さん、ありがとう!」

「えっ……あっ……どういたしまして!」


 私が判子を押し忘れた癖に変に嬉しそうな顔でお礼を言ったせいかもしれないが、杉崎さんの頬が薄紅色に染まっている。これは失態だった。きっと変な奴だと思われたに違いない。その予想は当たりと言わんばかりに頬の色が戻らぬうちに杉崎さんは「それでは失礼いたします!!」と早口で足早に部屋を出ていった。


「やってしまった……」


 変な奴認定されたに違いない。良くあることなので慣れてはいる。女性が私を見るなりちょっと余所余所しくなるのはいつものこと。他の異性の接し方と明らかに私に対してだけ違うのだ。明確に違う。変に敬語を使われたり目を合わせると逸らされたり、逃げられたりすることもあった。


 その女性が他の男性とは敬語抜きで仲良くしゃべっているのを見ると少し切なかったのが私の青春時代だ。まぁ私が色恋に興味を持つ時間など、あの二人の野蛮人のせいでなかったのだけれど。どこに行くにも連れまわされていたから。おい銀坊、おい銀翔と呼んで行先を告げずに振り回されるのが私の役割だったのだから。


「それよりも」


 私は書類に目を戻す。彼の両親が魔物に殺されていることと彼がその現場に現れたことが記されていた。恰好はボロボロの服を着ているとあることから異世界から帰ってきてすぐのことだったのだろう。それで彼は魔物を退治できなかったブラックユーモラスを恨み、そのリーダーである私を狙った。


「ただ彼はどうやって僕がリーダーだとわかったんだろう……」


 何かの能力に違いないことはわかる。それがどういったものなのかまでは判別ができない。異世界から帰ってきたら、出来るだけ早く能力判定検査を受ける決まりになっている。そこで自己申告で能力名と主な力の内容を書類に記載させられる。


 その内容を元に実際に能力を目の前で使い確認されるのだが……


「そうなると今の状態では行かせても意味はないか……」


 喋れないし書けないし動けないのではどうしようもない。言っても無駄足に終わる。書類に目を通し終えた私は判子を押し書類を確認済みの箱へと移した。立ち上がり窓際に向かって大きくため息をついた。大体の予想は着いていたがなんとなくわかった。


「そうか……やっぱり異世界で殺してきたと考えるのが妥当か」


 残酷だが彼は異世界で殺しをしてきたのだろう。発見されてからの私の所に来るまでの時間が短い。その間に殺しをするにしてもブラックユーモラスを狙うにはあの年では無理がある。実際にナイフで切りかかられているからその力がどれほどのものかは良くわかっている。動き方がてんで素人に近かった。


「ってことは……異世界での戦闘経験がない」


 明らかに戦闘という動きではなかった。泣きじゃくりナイフを振るっただけだ。年相応のことしか彼は出来ていなかった。能力は戦闘系ではないもの。


「異世界で何があったかが……彼の心の闇を解く鍵になるか」


 全てではなく少しずつだが彼の事がわかったことに私は安堵のため息をついた。


 日常で少しずつ気掛かりなことも増えていくが、少しずつのことは見えてくるものもある。それが日常ってものなのかもしれないと、私はその時ふと思った。



≪つづく≫

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