第84話 1993年火神恭弥の過去 —お前はそれをまだ見つけてないだけだろう―
火神が集中して勉強に取り組んでいたところに、
腹の虫が時刻を告げた。
自分の体内から出るその音にハッと気づき時計を確認する。
「もうこんな時間か。そろそろ行くかな」
時刻は夜の七時を回っていた。
火神は勉強道具を終い二階のオロチ専用ラブホテルから下に降りていく。
下からは息切れしながらも、
「オロチ……頑張ってんじゃねぇぞ……膝ガクガクじゃねぇか」
「晴夫こそ……童貞のお子様なんだ。ねんねしたかったら早くしろ。童貞はもう寝る時間だろうが!」
お互いを罵倒する男達の声が聞こえてくる。
「まだいうか……!」
「本当のことだろうが……」
「ハイ、終わり!」
二人が手を叩いて音を出した火神をアァンと睨みつけた。
晴夫もオロチも衣服が血の色と土の色で染まっている。
顔はさらに紫にはれ上がっている。
「お腹すきましたよ」
その姿を見ても火神は動じずに話を続けた。
「僕が奢りますから三人で牛丼を食べに行きましょうよ」
あっけらかんとして夕食に誘う火神。
以前では考えられなかった変貌。
最初にこの喧嘩を見た時はひどく狼狽えていたが、今となってはよくある日常の一部でしかない。決着がつかないことも良く知っている。
火神が聞いた話では、
中学生の時、二人は三日三晩喧嘩を続けたことがあったらしい。
それを終わらせるやり方も良くわかってきている。
過ごした時間が増えていくにつれて、
火神も二人とどう接すればいいかを試行錯誤しながら、
続けてきた努力の結晶でもある。
「オロチ、次こそ決着つけてやるから覚悟しとけよ………」
「晴夫、テメェに童貞を卒業するまでの猶予を与えてやるから、しっかり卒業しとけ……」
晴夫とオロチはお互い目を見合わせて、距離を開いて歩き出した。
不貞腐れながらもお互いに汚れた服を着替えに行く。
火神は鞄を持ち出掛ける準備万端で二人を心待ちにしていた。
「あー、殴り合ったら腹減った。牛丼つったら、吉野家か?」
晴夫がオロチより早く着替えを済ませ火神に合流する。
「そうですね!」
「晴夫に奢るなら金は返ってこないことを覚悟しとけよ、火神」
「わかってますよ!」
そこにオロチも合流する。
「なぁにが分かってんだ、火神!」
「イタタタ!」
「おら、じゃれてないでささっと行くぞ」
夜の国道沿いを火神の腕を片手で決めながら晴夫が歩き、
それをすまし顔で横目に歩くオロチ。
悲鳴をあげる火神はどこか笑みを浮かべていた。
街灯が照らす国道沿いを三人で喋りながら歩いてく行く。
「吉牛だったら……牛皿追加かな」
「オロチさん、追加もOKですよ」
「俺は牛丼大盛つゆだく、玉子に牛皿追加にサラダだな」
「晴夫さんは、卵だけですね」
「お前、オロチにばかりいい顔しやがって………」
「晴夫さんが俺に暴力を振るうのが悪いんです」
先程まで喧嘩していた二人も嘘のように、
「そりゃそうだぜ、晴夫。火神の驕りだからな」
「あぁー、かわいくねぇ! コイツ!」
今は笑い合いながら目的地に向かっていく。
「そういうところですよ、晴夫さん」
「また、ヘッドロック決めるぞ?」
「牛丼が無くなりますよ!」
「きたねぇな……お前は」
二人の喧嘩は日常茶飯事であり、それが何か禍根を残すこともない。
決着が着かないだけの代物。
「そこをどけ! 邪魔だッ!」
「ん――?」
晴夫達の向かう方から一人の男が慌てて走り抜けてくる。
男が三人の横を通り過ぎてようとした瞬間に、
「よっと」
晴夫の二本指がシャツと肌の間に入るように首元の襟を掴んだ。
「どけって言われてどくほど人間出来てねぇから」
晴夫は横を駆け抜けようとした成人男性の全力疾走を、
勢いもつけず掴み取り捕縛する。
「離せッ!」
「だから、ゆうこと聞くほど人間出来てねぇって、のぉ!」
それまた、たった二本だけで持ち上げ、
「ウォッ――!」
宙に上げて叩き落した。
常人の腕力では到底及びもつかない。
おまけに指二本で成人男性を投げるその握力が尋常ではない。
「晴夫……いきなりやることねぇだろう?」
「なんか、コイツから悪い予感がしたからさ」
「晴夫さん、一般人に暴行はダメですよッ!」
「一般人かは、まだわからねぇ……よ」
晴夫の奇行に二人は注意を促すが本人は勘だけで相手を叩きつけた。
それでも晴夫は目を曇らせない。
なにも動じず間違いなどないことを確信しているように、
その失神した男を取り押さえていた。
「すみません、ありがとうございます!」
そこに駆け寄ってくるバイトの制服を着た男。
「コイツが何かしたみたいだな?」
「ハイ、店の商品を万引きして逃げてたんです!!」
「ほらな」
晴夫はホレ見たことかと火神とオロチににやけた視線を返す。
火神はそれに目を細めてやるせない視線を返した。
結果よければすべてよしというような空気が納得いかないが、
晴夫らしさがにじみ出ている。野生の勘。
それだけで、今日まで生きてきた男らしい行動に溜飲が下がる。
公衆電話から警察に通報した店員はヘコヘコとお礼をするように、
頭を下げて三人を見送った。
それを背に歩くさなか火神の口が開く。
「勘だけで行動しているといつか痛い目を見ますよ……晴夫さんは」
「殴られたやつが痛い目をしてるのは良く見るけどな~、自分の痛い目なんて鏡がなきゃ見えねぇ」
ソレを聞いてオロチがニヤリと笑う。
「おう、それはおもしれぇな、晴夫。いつか火神がお前に痛い目を見せるってことか、気を付けろよ」
「いい度胸だな……火神?」
「なんで、そうなるんですかッ! 無理くりすぎますよッ!!」
牛丼屋に着き、ふざけながらも歩き続け牛丼を食す三人。
全て火神の支払いである。家が裕福であるから小遣いにも余裕があり、三人分の食事代など一か月分だそうと思えば出せるほどお小遣いをもらっていた。
「火神ちゃん、いつも悪いねぇ~」
「晴夫さんは絶対悪いと思ってないでしょ?」
「なぜ、そう思う?」
「だって、自分大好きですから。自分が間違っているとか悪いとか微塵も思わない思考回路ですから」
「よくわかってんじゃねぇか♪」
火神の挑発に安い笑みを浮かべて晴夫は得意げに返す。
「じゃあ、またバイト行ってくるわ」
「オロチさんはまたバイトっすか? そんなに金貯めてどうするんです?」
「そりゃ火神、女に使うに決まってんだろう。モテると金がかかるんだ、覚えとけ!」
颯爽とバイトに向かって消えていくオロチの背中に火神はボソッといいなとつぶやいた。
そして、残された二人は元いた場所へ戻る。
火神もそろそろ帰る時間が迫っていたがバックは晴夫の家に置いたままだった。
「なぁ、火神?」
「なんですか?」
横で歩きながら晴夫は天に向かって右手を開いて上げている。
「もしさ、俺がこの右手を閉じたら、あの月を掴めると思うか?」
右手の先に浮かぶ、まん丸い月を細めで見ながら問いてくる晴夫に
「思わないっすよ」
火神は現実的な回答を返した。
それがお互いのギャップであるとも知らずに。
「お前が思わなくても俺は思うよ。いつか月だって掴めるって」
そして、それが火神が根本的に晴夫を理解できないでいる原因だとも知らずに。
「何百回やっても無理ですよ」
「何百回で無理なら何千回、何万回繰り返しゃできるかもしれないだろ?」
「何を言ってるんですか?」
「お前さ、自分が何の為に生まれてきたとか考えたことあるか?」
「何の為って……」
顔を俯けて地面を眺めた。
火神の脳裏に浮かんだのは幼少期より植え付けられてきた答え。
イイ高校へ行ってイイ大学へ行って親の会社を継ぐこと。
それが自分の歩むべき道だと教育されてきた。だが、それは自分だからこその答え。横にいる男には当てはまるはずもない。なにも持たずに自由に身軽に風の吹くまま気のままに、生きる男には。
「ねぇのかよ。将来のこととか考えないんですかって昼間に言ってただろう?」
「ありますけど、僕のは平凡で……ありきたりで……」
「そっか」
あっけない返答に火神は顔上げて晴夫を見る。
――なんなんだろう………。
まだ掴めもしない月を眺めていた。
――なんで……。
どれほど願おうとも月に手が届くなどないのに、
――迷わないんだろう、この人。
迷いすらない瞳が目標を捉えている。
その姿に火神は問いを投げかける。
「じゃあ、晴夫さんは何の為に生まれてきたと思ってるんですか……」
言葉に力はなく想いをぶつけるには小さい声だった。
「俺は自分がどこで生まれたのかも、どんな親から生まれたのかも、」
ソレをしっかり受け止めるように晴夫は答えを返してあげた。
「何も知らねぇ。自分が何者でなんなのかすら、わからねぇ」
「……………」
――そうだ……この人は分からないんだ。
晴夫の生い立ちは知っている。自分の両親が誰かも分からないことも。
どこが故郷と呼べる場所かも分からず、
この男が本当は誰なのかも分からないのだ。
「だから、思うんだ。何かあるんじゃないかって――」
それでも、男は月を見て語る。
「俺には普通のやつとは違う何かがあるって信じてるんだ。孤児院にいた時に他のやつらを見て、俺はこいつらとは違うって思ったんだ」
「どうしてですか?」
「アイツらは捨てられたとか言ってたけど、何一つ持たずに生まれてきたんだ俺らは。両手は空っぽで中身も空っぽのままで裸一貫で俺達はこの世界に落ちてきた。その空虚な感じを埋めるために俺らは生きていくんだろう」
晴夫が放つ言葉にどれほどの意味があるかもわからない。ただ、その月を見続け歩いてく行く不思議な男に吸い込まれそうな感覚が火神を襲う。
何かを詰め込まれてきた自分と、
何かを詰め込もうとした男との距離が離れていくのに、
引き込まれていくような魅力に惹かれていた。
「だったらさ、俺は何でも出来ると思ってる。他のやつらより空っぽで生まれてきた俺だからこそ大きなものをなんでも詰め込めて持ってけるって」
火神が微笑んで晴夫を見ると、
「本当スケールが意味不明にデカいっすね……晴夫さんは」
晴夫は目線を火神に移し、穏やかな笑みを浮かべて返す。
「何者でもないからこそ、勇者にだって魔王にだってなれる。自分を信じて疑わなきゃ大抵のことはどうにかなると俺は思ってるわけよ」
「勇者や魔王って、子供見たいっすよ」
晴夫の言葉に火神が鼻で笑って返す。
けど、それは発言を馬鹿にしたものでは無く、
本当にこの人らしいという思いからだった。
「子供だ、俺もお前も。だからこそ持ってるし、これから持てるんだよ」
「えっ……」
晴夫がいう俺もお前も変わらないという言葉に火神は驚きを見せる。
「頭ガチガチに固まったやつらじゃ、常識っていう無駄なものを詰め込み過ぎたやつらじゃ、見れないものをしっかりと胸に持ってる。火神、お前はそれをまだ見つけてないだけだろう?」
「ボクが…………」
晴夫は火神に向かって拳をゆっくりと伸ばす。
「夢ってやつをさ」
あの時のオロチと同じように晴夫の拳が火神の胸を打ち付けた。
「夢……すっか……」
「見つかるといいな」
心の奥底にある迷いを見透かされているように晴夫が違う道を照らした。
「お前だけの夢ってやつがさ♪」
それは一本道しか見てこなかった自分に、
それしか歩けないと思っていた自分を、
「ハイ………」
強く引っ張っていくように、違う
非日常と日常の境目が過ごす時間が長いことに交わって分からなくなってくる。
「あら、恭弥ちゃん、お帰りなさい」
「ただいま」
母親には塾の自習室で夜遅くまで勉強をしていると嘘をついていた。
「こんな遅くまで勉強してくるなんて随分熱が入ってるわね。その調子で頑張って難関校に合格しなくちゃね」
「う……ん」
そして日ごとに遅い帰りになっても母親は勘違いをして火神を褒めたたえる。それに火神は作り笑いを浮かべて返す。まだ何が正解かも知らない少年は迷っている。
「そういえば、恭弥ちゃん。来週の水曜日にお父さんが出張から帰ってくるから、その日だけは勉強を早く切り上げてきてね」
――お父さんが………帰ってくる。
「わかった……」
母の言葉を聞いて、晴夫と一緒に着きを見上げていた火神は
――また、下に俯いた。
≪つづく≫
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