第34話 誰が為に己が拳を振るう
鬼の必殺の一撃――
眩い光の衝撃で全員の視界が霞む。
「なんなのよ、これは――!?」
ミカクロスフォードの想定を超える戦闘は、静けさに包まれていた。
予想とは違った。
無音に近い、世界。
さきほど、異常なまでの魔力が集約された一撃が放たれたのは間違いない。眩い光が鬼の拳に集約し、魔法陣の展開も発動も完璧だった。
そして、その渾身の一撃は完璧にきまった。
「アッ……はっはっは――」
鬼は吹き出した。会心の一撃だった。
「アハハハハ」
鬼が生きてきたなかで一番の必殺の一撃だった。
振り下ろした拳が確実な感触を伝えていたから、何一つ失敗などない。魔方陣の発動も魔力供給も振り下ろした一撃も。
連なる魔方陣は増幅回路の役割を果たし、最大最強の一撃を発した。
事実、余すことなく膨大なエネルギーは一点に収束し放たれたのだ。
戦いの終わりを告げる一撃が――。
鬼の笑い声が響く中で勇者たちが顔を顰める。広大な大地に響く笑い声は気が狂ったようにも聞こえた。ただ鬼が一人で高笑いをしている。それを勇者たちはただ顔を歪めてみていた。
「こんなにあっけないなんて、嘘でしょ……」
鬼から悲しい言葉が漏れる。
静けさが包んだ空間にやけに響く。
拳が伝えてくる感触、煙が立ち
「終了だ」
「何をした……」
「何もしてねぇだろう」
下から聞こえてくる声に嘘はない。額に拳が張り付いていようが動揺の一つもない、揺らぎない声が物語っていた。攻撃を受けた証として額から白い煙が立ち上っている。
被害はミカの予想を大きく下回った。
衝撃が駒沢に広がることもなく、魔法障壁・防壁を張る必要もない状態で終わった。全ての衝撃を獣は額で受け取ったとしか言いようがなかった。
そこで収束された一撃が全て受け止められ後に広がらなかった。
広範囲に広がらずに一点に収束し凝縮された威力を、その場で、額だけで打ち消してしまったのだと。
それに鬼は愕然とした。
希望が見事に砕かれた瞬間だった。
「わたしの……」
ガクッと肩を落としそうになり、
ふらふらと後退しそうになり、
「最大最強を――」
ボソッと呟くほどに。
「ざっと五千ってところか」
「何を!?」
鬼は強が口にした数字の意味も分からずに怯える。その数値がなんであろうと自分にとって不都合なものであるに決まっていることがわかっていたから。
この獣がいうことに救いなどひとつもない。
額の拳を下にはたきを落としながら強は答えを返す。
「オマエが俺を殴った数だよ」
そして首を数回慣らして準備をしてから、終わりを告げる。いっぱいやってくれたなと。これだけしておいて簡単に終わりなんて言わせねぇぞと言わんばかりだった。
「猶予は終わった」
一分間の猶予と言う拷問が終わった。それは鬼の全身全霊を打ち砕くには十分だった。限界を超えたと先に見たものはさらに高い壁があったということだけだ。自分を超える圧倒的な存在が目の前に立っているだけのこと。
「まぁ五千だがおまけのおまけで利子もついて一万発で勘弁してやる」
「どういう計算よ!?」
ゆっくり距離を詰めた獣に鬼は脅えて一歩後ろに下がる。
「計算方法はテメェで考えろ。あと万死にするつったろう」
それを詰める様に獣は近づく。鬼が下がる。
「死ぬ覚悟を作る時間も一分与えてやったんだ」
今度はコチラの番といういわんばかりに両の拳を打ち付けて
「ちゃんと取り立ててやるから――」
合図を出す。
「安心して死んで来いッ!」
殺してやると。希望と戦意を削がれたのちに残ったものは恐怖だけだった。勝てないという事実が告げるものは絶望でしかない。終わりの見えない鬼の地獄が始まる。
「オラァアアアアアア!」
獣の拳が当たった顔が無くなった。それは威力がいままでと違う。力をまだ隠していた。パワーが上がった。戦意を喪失した相手をいたぶる様に力が使われている。
「クッ!」「ヒデェ……」
勇者たちは凄惨な光景に目を瞑る。
それでも鬼の頭部は再生を始めた。生きる為にした再生は殺されるための再生に他ならない。もはや勝負はついていた。鬼の戦意など不吉な獣の前では消されていく。
「ウッ……」「なんであそこまで……」
一撃で腕が消し飛ぶ。激痛で鬼の悲鳴が上がる。
いくら魔物相手とはいえ、残虐過ぎる光景。一思いに殺すことも出来るはずなのに獣はソレをしない。むしろ、さっきより生き生きとしているように見える。
「やめろ――」
獣の手が二つの角を掴む。強大な力で引っ張られ、
「ヤメロォオオオ――!」
頭部から引きはがされる。
「アァアアアアアアアアアアアア!」
神経が引き抜かれるような痛みに声を上げずにはいられない。両手に相手の切り離された角を握って投げ捨てる。そして、
「アァアア……アァアアア……」
体の欠損箇所から体液が漏れ出ながら鬼は叫ぶ。
痛みから逃れるために咄嗟に出した反撃の拳は簡単に掴まれ、
「テメェの番は――」
強い力で覆うようにして、
「終わっただろうがぁああ!」
反撃は無慈悲に握りつぶされる。
「ァアアアアアアア――」
鬼は足を折られた、鬼の腕が引きちぎられた、
鬼の指が折れた、鬼の爪が剥がれ落ちた、
視界が消し飛んだ、眼球が抉り出された、
腹から内臓を絞り出された、頬が抉れた、歯が無くなった、
それでも鬼は能力で生き長らえる。
再生はするが苦痛は残る。断末魔の悲鳴を上げ続ける。
もはや虐殺だ。あまりに非道すぎる。鬼畜過ぎる。それは戦闘ではなく拷問に近い。相手の心をこれでもかと削り落としてひたすらにボキボキに折る行為。
「オイオイ……どうしたよ?」
殺せるのに殺す以上の苦痛を与えて嗤っている。
「さっきまでの元気がねぇぞ!」
ギリギリのラインで殺すことをせずに命を弄んでいる。
獣が悪魔に見えた。それは魔物を超えている。この世で一番恐ろしいものはヤツだと思い知らされる。どれだけ野蛮な行為を続けるのだと。
——アイツは……悪魔だ。
鬼の能力と相性が良すぎただけだとわかっていても酷すぎてみるに堪えない。
——アイツは最悪の存在だ……。
鬼はもう戦うことをしていない。戦う意志も無い。ただ脅えて顔を痛みという苦痛に歪めて、獣が近づくたびに歯をガチガチと鳴らして恐怖に染まる。視界が不吉で埋まる。
「次はどこがいい?」
足を失くした自分に獣の眼光で悪魔じみた笑みを浮かべてくる。
――あたしは何度殺されかけた……この化け物は一体なんだ!?
「ヤメロォオオオオ!!」
何度も叫んでるがその冷徹な殺意を込めた視線と、
殺戮の攻撃の手が休まることはない。
「テメェは楽に死ねると思うなよ――」
冷たい声色が終わらないと告げてくる。鬼の心がグチャグチャに折られ捻じ曲げられていく。最強として君臨してきた自信が、地位が、過去が歪む。
『アラ……』
『スミマセン、オーガ様!』
奴隷が自分の体に配膳を零した。油が体に着いた。それに奴隷は脅えて頭を地につけた。この世界の王の機嫌を損ねてはいけない。ガタガタと震えて声を漏らした。
『なんでも致します……どうか、どうかご容赦を!』
『いいのよ……気にしなくて』
鬼は優しく相手の頭を大きな手で握って上げさせた。
『どうせ、死ぬんだから――』
そして、ぐしゃっと頭を潰した。
力が全てだった。力でいうことを聞かせて来た。力があれば全てを支配できた。力があったからこそ鬼は王になれたのだ。
「オマエ……全然死なねぇな」
「ハゥっ……!」
それが逆になっただけのこと。
力が強いものが入れ替わっただけだ。
力で支配していた者が、力に支配されただけのこと。
「助け……て、ください……」
「望み通り助けてやるよ、この地獄を終わらせて」
自分より力が強いものが現れてしまっただけにすぎない。
「すぐに楽にしてやる――死んだらなぁ」
弱き者は恐怖と絶望という大きな力によって貪り食い散らかされる。
――どうやっても勝てない。どう足掻いても勝てない。殺される。
鬼は頭の中で泣きそうになりながら深く認識する。
――私は数え切れないほどの数の『人間』と戦ってきた。武器を持ち、鎧を着て、魔法を使い、特殊な能力を使い、パーティという集団でかかってくる『人間』を退けてきた、潰してきた、虐げてきた、殺してきた。
鬼は人間よりも強かった。
事実、人間に負けたことなどはなかった。
――それでも、コイツは……
だがこれには勝てないと。無知であることに涙が流れ出る。
――コイツだけは無理だ……。
何を相手にしているのか。
——こんなものは聞いてない知らないッ!
知らない世界に来てしまったことを心の底から後悔するように。
『神から私へのプレゼントですかー』
あの時、見た世界とは一変している。
「来るなぁ……来るなぁあああ!」
――明らかに装備と呼ぶには不釣り合いな軽装で裸足で肉体のみでアタシを凌駕しているなんて! 村人という最弱の人種に似た風貌なのに誰よりも私よりも強いなんてありえない!!
裸足で軽装の村人が歩いて来るだけで恐怖が侵食していく。
——この世界は
そして、結論に辿り着く。来てしまったことを心から後悔した。
——狂っている……。
勇者達の眼から見ても一方的で自分勝手な暴力。
——もう……終わりでいいだろ。
瓦礫を鬼の血が染め上げている。それも一つや二つではない。辺り一面が飛び散った血で染まっている。肉片がウヨウヨと行き場を失くして蠢ている。目に見えるのは現実の中に存在する地獄。
一撃が一撃が相手を苦痛にゆがませる。勇者たちにとって見るに堪えない。
だが、それこそが『最恐』の証でもあった、残虐非道鬼畜外道。
もう二度と戦いを挑む気すら無くすそういう遊び方を好む。
それこそが――『デットエンド』だと。
鬼の前にいる獣の鋭い眼光の奥には冷たい殺意が宿っている。
まざまざと力の違いを見せつける戦い方。どれだけの苦痛を与えようとも逃がさない。生きている限り続く拷問。それは見るに堪えない。
——やっぱり……アイツは非道だ。人間のやることじゃない。
同じ人間であってもおよそ看過できない。もう、終わりでいいだろと誰もが思った。ニタニタと笑みを浮かべる残虐性に異常を感じざる得ない。
——アイツは……異常だ。アイツはオカシイ。
あまりに力の次元が強すぎる。それは到底同じ生物とは思えはしない。
——アイツもバケモノだ……。
そこに溢れるのは畏怖であり、嫌悪でしかない。
「あらあら……みんな、なんか勘違いしてんじゃねぇの?」
それにピエロは呆れた様に鼻からため息をついた。
――アイツが聖人君主なわけねェだろう……。
力を持つ者が正しいのではない。たまたま善人が力を持つことがあるだけだ。それに聖人君主など現実には存在しない。自分の利益も顧みずに戦うものなどいない。
「コレは、正義とか、悪とかじゃねぇんだよ」
——この戦闘はそんな大それたものじゃねぇ。
この戦いにあるものはそんな理念高きものではない。
冒険のし過ぎで頭がおかしいんじゃねぇのかとピエロは表情に出す。
異世界とは違うのだ。
この世界は誰もが知る世界でしかない。
「現実舐めんな」
デスゲームで生き残った男は住む世界の違いに辟易とした態度を示す。
周りが現実の戦いにあるものを見逃してきたからこそ見落としている。
「力の本質も知らない、愚かなピエロ共が」
涼宮強がソレを体現しているだけに過ぎない。
力とは何か――。
それは恐怖を与えるモノだ。
それは絶望を与えるモノだ。
圧倒的であればあるほどに、他人の希望を食い散らかし絶望を巻き起こしてしまう。その力の違いに誰もが悪と名付けるが違う。
そもそもが異世界でやっていたことも変わらない。弱者の権利を奪い、強者であるが故に決定権を持つ。
ソレを見失って盲目になっている異世界では受け入れられたかもしれない。いや、ソレを見なかったことにしているに過ぎない。自分を賞賛するだけの声に耳を貸し、都合のいいことばかりを取ったに過ぎない。
異世界の主人公たちは見落としている。
必ず強者の影で踏みつぶされている弱者がいるということを。
異世界と現実は違う――。
力とは脅威に他ならない。抑止力と言う言葉で片づけようともそれは相手の命に銃口を突き付ける行為に他ならない。ソレを
そして、ソレは鬼がやっていた事もそうだ。
相手の権利を侵害し、相手の尊厳を踏みにじるモノだ。
圧倒的な力の本質というのはソレに尽きる。
力は暴力だ。力の残虐だ。力はこの上なく残酷なモノだ。
「お願いです……もう終わりに」
弱者を脅えて震えさせるものに他ならない。
「終わりにするのは……お前が死んだ時だけだ」
弱者に選択権は無く、強者にのみ選択が許される。
殺されかけ続けた鬼の止まるのことのない心臓が、イヤというほど鼓動を打ち付けて危険を知らせている。また殺されると。まだ殺されると。虐殺による恐怖、圧倒的な力による脅威、勝てない勝負への畏怖、未来にある絶望。
——恐い、恐い恐い恐い恐い
「いや……もう、」
それら全てが、
「イヤ……」
——恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い、この人間が怖いィイイイイイイイイ!
鬼は自然と本能ですることがわかった。本能に従って体が口が勝手に動く。
「モウ、イヤァアアアアアアアアア――」
大粒の涙を流し悲鳴を上げて、必死にその場から逃げ出した。
――アレはもう『人間』ではない。化け物を超えた化け物という存在……
鬼の命の選択はこれで間違いではなかった。
――私が勝てるなんてわけがないっ!!
鬼のそれは逃走と呼ぶには浅ましく低能だった。しかし、勇者達にはその気持ちも理解できる。最大の一撃を真っ向から棒立ちで受け止められ、幾千の攻撃は意味をなさかったのだ。戦略などあるわけがない。
残された選択肢はただ一つ。
ただ目の前から走って逃げることしかない。
勝算など微塵もないのだから。
虐殺が終わると勇者達は思った。完全に戦意を喪失しての逃走。これ以上の戦いに意味などあるわけがないと。誰もが終わりを迎えたことに安堵した。これ以上、凄惨なものを見なくて済むのだと。
だがそれは一番愚かで最悪な選択肢だった――
最悪の選択とは、獣が一方的に殴りつけているさなか鬼が泣きながら、
背を向けて無様に逃げだしたことだ。
獣は牙を隠し、本能を押さえていたのだから。
そこに背中を見せたのだから。
「なに……逃げてんだよ……」
怒りと呆気にとられた。強の視界にはスローモーションの様にその無様な姿が目に映っている。言いしれない感覚が強を襲っていく。この残虐性がどこから来ているのか、鬼は分かっていなかった。
「どこに行く気だ……テメェは――」
鬼はもうすでに選択を終えていた。
鬼がしたことにより、最悪のルートは決定されていた。
「まだ、途中だろうがぁあ――」
どこに行くと。まだ終わってないと。鬼は必死だった。手をバタバタさせて、それはみっともなく空を掻くように、地上でクロールでもするように両手を振り回して逃げていく。
その姿が、強にイラつきを覚えさせる。
強の体が怒りで、握りしめた拳が、声が。
「まだ、俺の怒りは収まってんねぇんだよぉ――」
異変を告げる。
勇者達の前で何とも言えない表情で棒立ちでそれを見送っていたデットエンドに異変が起き始めた。体が小刻みに震えだしているのが目に見える。顔は赤く黒く染まっていく、その姿に悪寒が走る。
——アレは……!?
「全員、気を付けろッ!」
直感に身をまかせ一人が声を上げる。
必死な鬼のスピードはけして遅くない。瞬く間に十キロは離れていた。だが何もなくなった荒野で姿を見失うことはない。はっきりと見えてしまっている。怒りの対象をしっかりと怒りの表情で眼に焼き付けている。
獣の眼にハッキリと見えている。
「待てや……」
強は怒りを抑え殺そうと必死に歯を食いしばり声を押し殺す。これ以上の感情が溢れたら残っている細い一本の糸ような理性が持たないことは自覚していた。
殺さないように加減が出来るほどに残されていたのだ。
獣はまだ全力すら出していないかった。その牙の一端を見せただけだった。
そして、心に蓋をしていたのだ。
蓋が細く貧相な一本の理性という糸で押さえつけられていただけだ。
強の中でいろんな感情が混ざり合っていく。ぐちゃぐちゃにかき混ぜられる感情に何とも言えない表情を浮かべる。過去の思い出や最近の思い出が巡ってくる。
強が思い出すのは決まって少女のことだった。
『強ちゃん♪』
にこやかに笑った優しい笑顔も。
『強ちゃんー!!』
怒っているのに怒ってるかわからないような、気の抜けた声も。
『……強ちゃん』
強に向かって優しく包むように微笑む笑顔も。
『私が強ちゃんを絶対守るから。絶対!!』
少年は少女を思っていた。ずっと感謝をしていた。
――昔からいつでも傍にいて俺を守ってくれようとする玉藻のやさしさ。ひとりぼっちの俺の傍らにいつもいた。能天気で無邪気な女。
「アイツは無邪気に笑ってるのがいいんだ……ッ」
獣が完全に理性を失い唸る。強の右手に残る頬の熱と涙の感触が蘇る。それが圧倒的怒りに注がれ膨大な熱量という感情の波になって、瞳孔を完全に剥き出しにさせる。
「ソレをオマエがぁあああああああ――」
勇者達に映っているのは止められないほどの災悪が勢いを上げている。目に見えて形として現れて怒りを見せている。あの鬼ですら手に負えない程の災悪が憤怒の炎を灯している。
「全員、後ろに身を隠せぇえええええッ!」
獣の震えた声が甚大な怒りを漏らしているのは分かっている。盾の勇者たちは最大級の技を出す。仲間を守る為に。魔法防壁・障壁は展開されたまま残っていた。
だが緊張感が違う。警戒を最大級に引き上げる。
何をしでかすか、見当がつかないが故に、体勢を一瞬で整え光景に目を見張る。一挙一動に全神経を注ぐ。緊張の度合いを全開に持って行き災悪に備える。
その前で獣の怒りは底なしに増幅していく。
「泣かしやがったんダァアアアアアアアア!!」
――えっ……泣かした?
大きく吠えた声が勇者達にもはっきり聞こえた。勇者達の眉が歪む。
聞き間違いかと頭をフル回転する。わかっている妹は笑みを浮かべる。ピエロは呆れたようにため息をつく。強が必死に理性を保とうと
そうだ――これは正義や悪といった尊い戦いではない。
「玉藻を泣かせたお前に対してぇええええええええええ!!」
獣の細く貧相な一本の糸は怒りという濁流に巻き込まれ抵抗もなく、跡形も無く消える。蓋が開き怒りで体を熱が支配する。体が感情に全てを任せた。それは少女が男達に飛び掛かったものと一緒だ。
『強ちゃんを傷つけるなぁああああああああああ!!』
理性では抑えきれない。目にした光景に感情が奪われただけのこと。
対照的に勇者たちの頭にクエスチョンが浮かぶ。
——タマモが……泣いた?
緊張感がわずかに揺らぐ。
たった『それだけ』のことだった。
勇者たちは知らなかった。
獣がなぜこんなにも怒っているかということを。
なぜ戦場に現れたのかということ。なぜ拳を振るっているのか。
ただ、獣にとっての幼馴染の少女が傷つけられただけだ。
そんなことは知る由もない。分かりえるはずもない。
しかし、それが全ての理由だ。獣がキレるには十分すぎる理由だ。
『アイツらに私の大事な人は傷つけられたんだ!』
その少女を一番大切に思うが故に必然の事だった。
それでも少女よりは堪えていた。制御できていた。
鬼が逃げ出すまでは――。
強の全身の血流が沸騰したように熱く体を駆け巡る。強の怒りが頂点に達した合図だった。簡単に殺さないために。周りのいる学校の生徒を巻き込まないためにギリギリで抑えていた。
最初に少女が駆け抜けた戦場を獣は闊歩した。歩くようなスピードで。周りに知らせるためだった。自分が来たことを。そして最前線の勇者達に忠告した。
『全員邪魔だ、巻き込まれたくなかったら、どいてろ』
巻き込まないように。
これから自分が力を振るえば構っている余裕はなくなると。だからここから離れろと。言葉は乱暴だが最低限の配慮は含んでいたのだ。
そして加減をしていた。
力が誰かを脅えさせるものだと知っているから。全力を出さないように。強は力が誰かを怖がらせると知っているから。理性で力をフルに出さないように抑えていたのだ。
力がどれほど恐いモノかと、
涼宮強は知っているから。
ずっと保っていた。ギリギリで保っていた。
無意識にそれを抑え込んでいたのだ。圧倒的なまでに強大な全力というものを。
それは少年の傍にいつもいた愛する少女を傷つけられた怒りでなくなる。その感情の動きはあの日の少女と同じだった。愛する少年が三人の男の子にいじめられるのを見つけた少女と一緒。
『強ちゃんに何してんだッ――』
あの時、少女は怒りに身を任せ机とイスを吹き飛ばした。
『お前らぁああ――』
後先など何も考えていなかった。勝てる勝てないなどどうでもいいほどに烈火のごとく小さい身を震わせて叫んだのだ。己の全てをぶつけるように。
少女は大人に負けずに言った。
『だから、私は悪くないし間違ってない!』
たったそれだけのことだ。それだけで教室は大騒ぎになったのだ。それだけのことで強大な力に脅えた少年は救われたのだ。だから、少女と同じように大きくなった少年は怒りに染まるのだ。その手に触れた少女の涙が教えたから。
少女が泣いたことを。
【大事な人を傷つけられた】
それだけの理由で十分だ。
人間の理性という貧相な糸を、
「玉藻が泣いたのに、テメェは――!」
簡単にブチ切るには。
牙をむき出しにした殺気だった姿をさらす。
「——ヤバッ!」
美咲は男の背中を目にした。自分の前で腰を下ろし何かに咄嗟に身構えている。櫻井だけが反応していた。少年と少女の感情は似ているが一個だけ似て非なるモノがある。
だからピエロは警戒する、ここから先の異次元の力。
振るわれる力が違いすぎるのだ。
それは最初の一歩――
「まだ死んですらいねぇだろうがぁあああああ」
全員の考えがまとまらない内にデットエンドが姿を消した。
≪つづく≫
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