第54話 不吉な予感

 エルダは恐ろしさで、指も動かせないほど身を硬くした。


(本当なの、マーロウ)


 信じたくない、という表情の主に向かって、しかし彼女は真実を告げた。


 倒れたイワンの身体から、あの魔物の臭いを感じた、と。

 マーロウの、このような種の臭いに関する感知能力は、かなり信頼がおける。決して間違いなどありえない。なにしろ、以前は毎日のように嗅いでいたのだから。


(……それでは、国王陛下がお倒れあそばされたのは……)


 エルダは無音でおののく。

 恐ろしい、あってはならない考えがうかんで、彼女は気が遠のいた。


 両手で頭を抱え、それから寝室を飛びだす。

 サーシャの一件から、エルダに対して激しい悪感情を抱いただろうと思われたターニャは、彼女のそばづきから外されそうになった。しかし、本人の強い意志で、それは保留にされている。


 エリンからも言われて、ボリスも彼女をエルダづきのままにすることに抵抗を感じたが、サーシャの目前で罷免するわけにはいかず、とりあえず、留まったのだった。それに今はエルダの侍女を新しく選んでいる余裕などない。妥協案として、手のあいているサーシャを姉の補助につけることにした。


 ターニャも、弟の前ではエルダに辛くあたりはしないだろうと考えてのことだ。


 そういうわけで寝室から飛びだしてきたエルダを迎えたのはサーシャとターニャだった。


「どうしたの、エルダさま!」


 姉の言いつけで糸玉を作っていたサーシャは、すぐさま仕事を放りだしてエルダに駆け寄った。


(王太子さまに、急いでお伝えしてほしいの。国王陛下の御身に何が起こったのか、もしかしたら私には判るかもしれません、と)


「ほんとに!?」


 サーシャの顔は明るく輝いたが、姉のほうは眉をひそめた。


「どうして、あなたに判るっていうの」

(何があったのか、陛下ご自身に話していただければ、はっきりするでしょうね。それに、マーロウの嗅ぎとった臭いに関しても説明をしなくてはなりません)

「陛下ご自身にですって!」


「うん、わかった!」

 二人の反応は、まったく同時だった。

「ちょっと、待って、サーシャ!」

 身を翻して走りだした弟をターニャは止めようとしたが、元気な彼の俊足には追いつきようもない。それに、エルダを残していくことに不安があった。彼女はまだ、人間の姫に疑念を持ちつづけているのだ。


 ところが、弟のほうは、自分にエルダが魔法をかけたと知らされてからも、彼女を信頼しきっていた。ボリスに名を呼ばれれば解けるようにしていたのなら、なにも怖いことなどない。そう思ったのだ。

 もしも万が一、名を呼んでもらえなかったとしても、エルダの魔法は永遠に続くほどに強いものではないという。また、魔法というものはかけた者が死ねば普通は消える。いずれは必ず解けるようになっていたのだ。

 エルダは、それらを承知していたからこそ、魔法を使うことに踏みきったのだ。そう思うと、サーシャは彼女を嫌うような気持ちにならない。


「それに、全然、痛くもなんともなかったんだよなぁ」

 怒りがおさまらない姉に、サーシャは笑ってそう言ったのだった。

 そして、サーシャは、急いで彼女の伝言をボリスに伝えに走った。


 国王の寝室の前で侍従に用件を告げると、ボリスからは、彼の私室で待つようにという返事がかえってきた。同じ侍従の口からそれを聞いたサーシャは素直に聞きいれた。


 王子の私室に入って数分もしないうちに、疲労の表情を隠せないボリスが姿を見せた。


「ボリスさま!」


「待たせたね、サーシャ」

 そう言う声にも、張りがない。

「いいえ」

 首を振ったサーシャの前に椅子を持ってきたボリスは、座るように促した。


「エルダの伝言を聞こう」


 しかし、ボリスは座らない。

 サーシャは深く息を吸って、さきほど聞いたエルダの言葉をくりかえした。

 真剣な声が呟く。


「……マーロウの嗅いだ臭い……彼女は何か知っているのか」


「それは解りません。でも、それも国王陛下にお尋ねすれば、わかるかもしれませんね」


「ああ……それはないだろう」

 サーシャはびっくりした。

「でも、エルダさまが」


「父上が話せるなら、全員に事情がわかる。でも、エルダは、私には判るかもしれないと言ったのだろう。つじつまが合わない。

 彼女は、父上に、何があったかを話させるつもりはない。苦しんでいる者に魔法で命じて話をさせるようなことはしないさ」


「でも、じゃあ、エルダさまが嘘を言ったっていうんですか」

「……軽はずみに言えない情報を、僕だけに話したいのかもしれない」


 少なくともターニャには聞かせたくないことだろうなと、ボリスは思った。

 『全能者』に過去を映させることに失敗した以上、ほかに手がかりは何ひとつない。

 ボリスは決断するのに躊躇しなかった。


「サーシャ。ターニャのところに戻ってくれ。それから、二人とも、一歩たりとも部屋から出ないように」


「ボリスさま、どうなさるおつもりなんですか」

 少年の不服そうな様子を敏感に感じとり、ボリスは口元だけで笑う。


「今回は君に使いを頼むわけにはいかない。わかるだろう、サーシャ。エルダを連れ出すのをターニャが気づいたら面倒だ。エリンは忙しくて捕まらないし、信用できるのは君ぐらいだが、ターニャの気をそらすことができるのも君しかいない」


 いつもは素直なサーシャが、このときは、すこしばかり違った様相を見せた。


「サーシャ?」

「……わかってます。姉さんはエルダさまを好いていないみたいだって。でも、ぼくはエルダさまが大好きなんです。だから、すごく心配です」


 うつむいた童僕の、くぐもった声から、ボリスは深い悲しみを感じとった。それから、なんとも形容しがたい憂いを。


 ボリスはかがんで、サーシャの両肩に手を置く。


「ターニャが人間を恐れるのも無理はない。だから、人間であるエルダを警戒してしまうのだろう。それだけのことだ、サーシャ。それほど心配しなくてはならないことではない。彼女だって、エルダのことをもっとよく知れば、きっと良い関係を築ける」


 そうだろうか、とサーシャは思った。

 姉は、ほかの年若い侍女と同じく、王子を慕っている。そして、ほかの年若い侍女たちの誰よりも熱く、王子に焦がれているのだろう。

 身分というものは、この大陸ではそれほど大きな壁にはならない。けれど、やはり王族というものは特別である。ソーニャが王子の花嫁候補から離脱して以降、彼に相応しい娘として話にあがる存在はいなかった。それは、身分、家柄、人となり、人望、どれをとっても未来の王妃になるべきだという娘が、この地にいないということでもある。


 むろん、王子自身が選んだ娘がいたなら、身分も家柄も、人格も、いっさいは関係のないことである。侍女だろうが農夫の娘だろうが、なんの障害もない。しかし、王子はまるで女性というものに関心を示さなかった。


 ただ、サーシャの心配は、ターニャのエルダへの感情というものよりも、もっと深いところにあった。


 正直に言うなら、彼はエルダを連れて行かせたくなかったのだ。魔鳥来襲のときのように、危険に飛びこませるようなことになるのが嫌だった。


 ──危険?


 何が危険だというのだろう。

 サーシャは自分自身の思考にめんくらった。


 今回は、ただ国王の謎の病について、エルダが何か知っているかもしれないというだけのことである。地上にだけあるかもしれぬ医学知識や、賢明なマーロウが嗅ぎとった病魔の臭いが何であるかを説明することが、それほど危ないこととは思えない。


 しかし、サーシャには嫌な予感がした。とてつもない、不吉を感じていた。

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