第22話 エルダの魔法

 娘の生活を、自らの死後にも支配したいと望んだのか。

 彼は姫に声を出すことを禁じた。

 もし、それが破られたときには、世界のどこかで多くの命が失われるような陰惨な災いが起こる。

 姫の声は世界に災いを起こし、それによって数多あまたの命を奪う。

 呪いによって姫の声を禁じると、領主は立派な装丁の本に魔法をかけ、『声読みの本』を作った。娘との会話に困らないように。 



──なんて残酷なことを!


 生まれてはじめて、腹の底から湧きあがってくる熱い感情。その激しさに、ボリスは心を乱された。憎しみという名の炎が、身体の中で燃えている。

 怒りと憎悪がうずまく中に、燦然と輝くものがあることに、ボリスはまだ気づかない。



 ところが、領主はふたたび不満を持つようになった。愛娘の美しい声を聞けないということは、娘の声への執着を絶たなければならないということだ。彼には、それが耐えがたかったのだ。


 彼は娘に、今度は魔法をかけた。

 それは、彼女の歌声にのみ、呪いを凍結させる魔力を与えるものである。つまり、歌を歌う声だけは、世界のどこにも災いを起こさないのだ。ただし、それによって、彼女の歌には危険な力が宿った。

 それは父親を大変に喜ばせたといえる。

 なぜなら、その力は、彼の企みにとって重要な助けとなりうる性質のものだったからだ。


 魔法は呪いと絡み合って、彼女を美しくて恐るべき存在にした。 父親の望んだとおりに。

 猛毒の根を持つ生誕薔薇のように。


 父親に訓練されていくごとに、姫の魔力は強大に、揺るぎなくなっていった……。



「その力というのは、いったい、どのようなものなのですかな、姫?」

 将軍の鋭い眼光を受けとめたエルダの頬から血色が引いた。

 気丈な彼女の碧眼に、たとえようもない恐怖が浮かぶ。蕾のような唇をかみ、眉を歪めた。なにかに耐えるように。


 ──おぞましさだ。


(みなさま。どうか、私のことを信じてください。せめて、私が、私のもつ魔力をお見せするまでは)


「ぼくは信じるよ、エルダさま)

 即答したサーシャに後れまいと、ボリスも大きく頷いた。

「ああ、僕もだ。あなたを信じる」

「殿下……」

 イワン、ソーニャ、ペトロフとフョードルという順番で首が縦に振られると、エルダは『声読みの本』を閉じ、自分の膝の上に乗せた。それから彼女は、ゆるゆるとした動きで『宝殿指環』をぐるりとまわし、王とボリスの承認を待ってから、魔法のルビーを握る。


 紅い光が迸った。


 全員が目を開けると、静かにたたずむエルダが、ボリスの背ほどもある竪琴に手をかけていた。その足元には、『声読みの本』がある。


 エルダは、ぐるりとあたりを見まわして、誰も座っていない椅子を選んだ。ソーニャに呼ばれて謁見の間に来たボリスが腰かけたものである。


 白くてかぼそいエルダの指が椅子を指し示すと、6人の空の民は首を傾げた。

 椅子がどうしたというのか。

 エルダは両手を竪琴の弦に添わせる。


 思いもかけない明るい旋律が、謁見の間に鳴り響いた。

 強い、澄んだ音色だ。いかにも弱々しげなエルダの指からそんなにも強固な音が生まれるとは、誰も想像していなかった。


 それから──6人は魂を吸いだされたようになった。思考はうつろになり、身体は弛緩した。


 美しい。


 それだけしか思いつかなかった。


 柔らかく、優しく、そして典雅な声音。

 それは高く、低く、命じた。


 ──飛び、跳ね、舞い、踊れ。


 その途端、6人は夢心地から一気に醒めてしまった。あまりの光景に目を見開いてしまう。


 椅子がひとりでに跳びまわっている。

 一本の脚を軸にくるくると回ったり、宙返りをしたり、逆立ちをして跳ねたりしているのだ。まるで生きているように。


 ──まわれ、まわれ、まわれ。飛び跳ねながら。


 エルダの歌うままに、椅子は跳ねまわる。


「なんてこと……」

 ソーニャが呻き、フョードルがあえぐ。彼はばねのように弾けて玉座の裏に身を隠し、すこしでも小さくなろうと身を縮めた。


 ──おいで、さあ、こちらに。お行き、ほら、あちらに。そして陛下の御前に、さあ。ご挨拶を。


 歌に導かれ、椅子はリズムに乗って跳ねつつ、イワンの前へと進み出た。そして、王に正対する。金属の脚と背もたれがぐにゃりと曲がり、椅子はイワンに敬礼した。


 さすがのペトロフ将軍さえ、唖然としている。立派なひげの下には奥深い空洞がひらいていた。


 エルダは歌をやめ、指を止めた。


 困惑したイワン王が考えこみ、ソーニャが苦悶と憂慮の表情で見つめてくるのを見て、エルダの胸は痛んだ。その痛みは、玉座とボリスの膝あたりの隙間に光るふたつのレンズを見つけると、さらに激しさを増した。

 彼女は恐れからボリスのほうを見られず、目をそらしてしまった。自分自身へのおぞましさに、身震いが止まらない。


「そうか……」

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