第19話 エルダ
「白紙?」
ところが、本の持主が指を紙面にのせてすべらせた、その瞬間。かぼそい指先に金色の光が生まれ、紙の上に、天空人が使っている文字が浮かんだ。それは光と同じ金色をしていた。
(無礼なふるまいを、どうかお許しください。ボリス殿下)
読み上げたボリスが驚愕の目で女性を見る。伏せたまぶたを上げた彼女の瞳と、まともに出会う。その瞳は、弱々しげに懇願していた。
──どうか、私を遠ざけないで。
にわかに悲嘆で満ちた瞳をボリスに向けた、そのまま彼女は本にのせた指を動かす。
「殿下」
ソーニャの声に、ボリスは視線を本に戻した。つぎに綴られる言葉を見つめる。
(
「エルダ?」
ボリスが目を上げて彼女を見ると、驚いたことに、碧の瞳には、今度は苦痛があった。だがしかし、その双眸は、すぐに灰色の長いまつげに隠されてしまった。
(この本は『声読みの本』と呼ばれるもので、私の心に生まれた声を、文字にして書きあらわす力をもちます。そして、私が指にはめている指環は、『宝殿指環』といいます。私の持ちものを、すべて宝石の中に収められるのです)
サーシャの瞳が好奇心で輝いた。
エルダの指は、ページの上を移動する。
(わけあって、身元は明かせませんが、私は小さな領地をもつ、ある城主の娘です)
「待ってください」
ソーニャの制止に、エルダが本から指先をはなす。ボリスとサーシャは顔を上げると、抗議をこめてソーニャを見た。
警備隊の女隊長は、すっかり平常通りの明晰さを取りもどしている。狼狽と緊張を解いて細身の剣を鞘におさめ、彼女はうっかりしていた、という表情をした。
「この類のお話は、国王陛下の御前で拝聴すべきと存じます。謁見の間に戻りましょう」
しぶしぶながら、ボリスは賛同した。エルダが何者で、どうしてリベルラーシに来たのかは、国王の前で明らかにするべきだ。
「そうだな。サーシャは──」
彼は、つぶらな瞳で懇願を訴えている少年を見つめた。ソーニャが呆れるほどに、王子は童僕に甘い。
扉を開けてボリスが出るのを待ちながら、ソーニャはエルダが本を閉じるのを見つめた。
エルダは指環のルビーを手のひら側にまわして、右手に持った本に触れさせる。紅い光とともに風が起こり、本がルビーの中に吸いこまれていった。
エルダの美しい金髪が、彼女の動きに揺れて輝きを放っている。
「サーシャは……僕たちと来るように」
ひっそりと、ソーニャが空気を震わせた。
──── † † † ────
ボリスとソーニャが、サーシャとエルダを連れて謁見の間に戻ると、ペトロフとフョードルの2人がエルダの姿を見て同時に嘆息をついた。
彼女の美貌は、危険をまったく感じさせない。2人の反応はそれを証明していた。
エルダは、イワン国王と彼らに向かって、ふたたび優雅な敬礼をした。
「……王子。この方は、どちらにいらしたのですか」
魂を抜かれたような表情をして、フョードルがいかにも夢心地な声を出した。
「サーシャと一緒にいたところを見つけた。それより彼女のことを話そう。父上」
揺るぎない姿勢と表情でエルダを見つめている王に確認をする。イワンは両脇に将軍と侍医の頭が控える玉座に座って、力強く頷いて見せた。
「彼女は地上の、ある城の姫で、名をエルダというそうです」
ボリスはエルダを招いて玉座に近づく。
「ソーニャ、サーシャ。君たちも、こっちへ」
地上と聞いて、フョードルは夢から醒めたようだった。
妖精の種族にも金髪と碧眼という姿をもつ一族はいる。だが、彼らは妖力と呼ばれる不思議な力や身体的な特技を有しており、大地から発される霊気によって生きているので、リベルラーシには立つことができない。そして、そのほかの好ましい可能性である精霊族は肉体を持っていないため、天空人にも姿が見えない種族なのだ。
つまり、彼女は妖精でも精霊でもない、地上の生きもので……人間族に属している。
フョードルのおびえた様子に、サーシャが面白がって笑みを浮かべた。少年の瞳は、侍医の頭を見て、何を怖がることがあるのか解らないと言いたげである。ボリスは思わずサーシャの頭を撫でそうになった。
ボリスの指示で、玉座の右側にはペトロフとソーニャ、左側にはサーシャとフョードルが立った。
臆病な鼻眼鏡の男は将軍と国王の間に立ちたくて情けない顔をしたが、ボリスが近寄ってきてサーシャの後ろに位置すると、たちまち背筋を緩ませた。
国王に近づくときに将軍の命令でマントを脱いだエルダは、ひどく無防備に見える。
「……彼女は、言葉が不自由です。ただし、会話はできます。エルダ姫」
ペトロフが怪訝そうに片方の眉を上げた。
ボリスの呼びかけを受けたエルダが指環のルビーから『声読みの本』を取りだす。
「おお……!」
フョードルが身をひるがえそうとする。それに気づいたサーシャが、彼を両手で捕まえた。少年が怯えているものと思ったフョードルが、逃げるのを迷って立ちすくむ。
すばやく、エルダの説明をボリスがくりかえした。
「会話ができるというのは、このことか」
イワンが静かに言った。
「はい。彼女が指をあてて動かすと、紙面に彼女の言葉が浮かびます」
エルダは、不安も躊躇も見せずに本を開いた。細い指がページを手繰る。彼女は開いた本を国王に向け、指を紙にすべらせた。
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