第15話 目を覚ました姫

 謁見の間の壁面にかけられているタペストリーの裏まで来たサーシャは、首を傾げた。


 広く、音の通りのよい部屋の中は、誰もいないように静かだ。何の物音もしない。


 足音を殺してタペストリーの陰を移動し、そのすみから、どきどきしながら顔を出してみた。見慣れないものが目に入ったが、国王たちの姿はなかった。


 安心したサーシャは、タペストリーと壁の間から静かにすべり出て、見慣れないものに近づいた。


 簡易寝台は見たことがある。

 半年ほど前、脚が折れたそれを直すために運んでいる侍従たちと行き会ったことがあるのだ。だが、その上に横たわっている人は、いつも会っているボリスやエリンたちとは違う存在だ。


 顔をのぞきこんで、サーシャは小さく驚きの声を上げた。なんて綺麗な人だろう。彼は心の中で呟く。そして、そのとき胸にあった不安や心配は掻き消えてしまった。


 眠っているらしい、儚げで美しい顔を眺めつつ、サーシャは感歎の息をもらした。

 カールした長い灰色のまつげに、乱れのない綺麗な眉。すらりとした鼻筋と、ついたばかりの瑞々しい薔薇のつぼみのような唇。そして、淡く輝く金髪。


 サーシャは手を伸ばして、まっすぐで長い、見事な光沢の髪を撫でた。なんという柔らかさ。サーシャはうっとりとして目を閉じる。しかし、すぐにまた、まぶたを開いた。

 こんなにも綺麗な人から、長時間まぶたで隠したり隔てたりなんてしたら、きっと眼が怒ってしまうのに違いない。


 床に膝をつき、頬杖をついて、サーシャは彼女を眺めた。


 姉のターニャと同じくらいの年ごろに見えるが、わずかに大人びて見える。きっと、持っている時間が違うからだろう。地上の人間は、空の民よりも早く成長し、老いていくと聞いている。“大人”になるまでが早いのだ。


 ぼんやりとサーシャが考えていると、不意に灰色のまつげが動き出した。びっくりして、彼は立ち上がる。


 何度かまばたきをした彼女は首を回し、サーシャのほうを見ると、ゆっくりと微笑んだ。あたたかみのある碧の瞳が、しっとりと光る。まばたきを忘れたサーシャの心臓が、どくりと脈打った。


「あの……ぼくはサーシャ。あなたは誰?」


 サーシャの口から何とか飛びだした質問に、彼女は答えなかった。そっと上半身を起こすと、注意深く身体をひねり、両足を下ろして寝台に腰かける。ばら色のマントのなかから腕をだし、自分の口を指さして、彼女は緩やかに首を横に振った。


 サーシャの頭がひらめく。


「あ……、しゃべれないの?」


 彼女は頷いた。微笑がわずかに変化している。それは、諦観と決意の笑みだった。


 深い同情の目で彼女を見たサーシャの頭がふたたびひらめく。


 サーシャの主人であるボリスは、“光と闇の癒し”と呼ばれる能力を持っている。それは彼の生来のもので、病や疲労などの身体の不調を治し、回復させる。瀕死の重傷でさえなければ、どんな疾患であれ傷病であれ、治癒させることができるのだ。これは、空の民のなかでも彼しか持っていない。かなり特殊な能力だ。


 ボリスに頼めば、この綺麗な人が声を得られるかもしれない。幼い知恵が、サーシャの心を明るく照らした。


 サーシャの手が、美しい少女の手を握る。


「ねえ、ぼくと一緒に来て! 会ってほしい方がいるんだ。その方なら、きっとあなたの力になってくれるよ!」


 返事を待たずに、サーシャは駆けだした。



 ──── † † † ────



 竜との会話で5人が得たものは、それぞれの濃度の怒りだった。怒りの矛先は、人間の娘に関して報告を怠ったゴルタバに向けられていたが、「けしからんな」というものから、「あの愚か者、絞め殺してやろうか」というていどまで、千差万別だった。


「気になっていたのだが」


 イワンが静かにソーニャを呼ぶ。


「あの娘は霧雲の中から保護したということだったが」

「はい、陛下」

「誰が娘を霧雲の中に入れたのだろうな」


 沈黙が5人をつつんだ。


 やがて、本当は口にしたくないのだという声音で、ペトロフが苦々しげに言った。


「……ゴルタバではないでしょうか……」

「ふむ。ありうるな」


 ゴルタバは城の女性たちからの評判がよろしくない。それは上官であるソーニャも知っていた。だが、ゴルタバのことをよく知らないボリスは、面識もない相手に疑惑を向けることは嫌だとばかりに顔をしかめた。

 

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