85:最後の授業
2月、通常授業はついに最終週を迎え、同時に受験期のピークが訪れた。
来週に学年末テストを控えているにもかかわらず、それどころでない生徒たちが半数以上の3年校舎はいつにも増して閑散としている。今まで奇跡的な出席率を保っていた磐城英語クラスも、やむをえない理由で出席できない生徒たちが増してきていた。
「今日の欠席は8人、と」
出席簿にごく簡単にメモをとって、英秋は顔をあげた。全部で十数人の生徒のうち、半分近くが忽然と消えた教室は妙に寒々しかった。
「最後の授業が出席率最悪とはなあ……」
英秋が思わず零した苦笑に、生徒たちはすかさず笑いながら口を挟んだ。
「先生仕方ないよ、丁度私立受験真っ最中だもん、来れるわけないって」
「他の学校じゃもう授業なんてしてないもんな。みんな休みって言ってたし」
「なんでうちだけテストなんかあるかなあ。ねえ先生、やめちゃおうよ~」
笑い声もどことなく余裕じみているのは、自分の進路をすでに定めた者の優越の顕れだろう。
さざなみのような笑い声に混じって、花乃もまた笑った。
「そうは問屋が卸さないな。名門校の学生はステイタスを手にする代わりに数々の苦行を乗り越えるさだめなんだよ。せいぜいあと一週間、学生の本分を貫きたまえ」
「ひどーい! やっさしいカオして実は意地悪だったんだヒデセンセ!」
あははは、とクラス中に満ちる笑い声。誰もがこの先生を慕っていると解る。この先生との別れを惜しんでいる。誰一人顔には出さずとも、その確信めいた予感を抱いている。
「オレが意地悪なのは、最初から知ってただろうよ、なあ?」
クラス全体を見まわすふりをしながら、その実、笑顔にまぎれてただ一人に視線は向かう。ほんの一瞬、まばたきをすればすれ違ってしまうような刹那のこと。それでも確かに。
互いの視線を絡めとって、その心は通じていく。
(……うん、知ってたよ。少しだけ意地悪なことも、本当は優しいことも)
「もー、先生ってばイマイチ食えないんだもんなあ。えらそうだしー」
「偉いんだよ、俺は教師なんだからな。さて、最後の課題でもやってもらうか」
生徒たちの激しい非難の声もどこ吹く風で、英秋は手にした藁半紙のプリントを配った。科目が科目だけに当然なのだが、ざらっと続く英語の羅列には花乃も思わずため息をこぼした。
英語の授業の前は少しドキドキして、先生の顔を見れば嬉しくなって、でも配られるプリントにうんざりして――そんなことを繰り返したこの時間。それも今日で最後だと解っている。みんな。
いつにも増して、先生を呼んでは質問をする生徒も多かった。けれど花乃は黙々とプリントと向き合い、引き慣れない辞書をなんとか活用しながら問題をこなしていった。
(こんな問題だって、最初はちっとも解けなかった。すぐに諦めて、佳乃ちゃんにやってもらって、筆跡でバレて怒られたりしてたのにね……)
今思い出すと笑ってしまうような失敗も、その頃はそれが普通だった。彼が来てからだ――ひとりで立ち向かうことを覚えたのは。苦手な勉強にも、辛い恋愛にも。
(ううん、ちがう、辛くなんかなかった。すごく楽しかった、なにもかも)
英語と睨み合って40分もたつと、さすがに視界がちかちか点描を描いてきていたが、それでも必死で問題を追い続けた。これは花乃の意地だった。自分独りの力でできるということを、最後に先生に証明して安心してもらいたい。何よりもここまで教えてくれた先生に喜んでもらいたい。
ベルの鳴る直前、読みきれなかった問題を飛ばして、最後の括弧に埋めた単語は『thank』。
その下の隙間には、ありがとうございましたと日本語で書いておいた。
いつもの挨拶とテストの激励。そんな普段通りの明るさで、彼の最後の授業は終わった。
「ああもう、先生の授業を受けられないなんて……こんな無体なことがあって !?」
余韻に浸る間もなく花乃の席に飛びかかってきたのは、毎度おなじみの栞だった。チョコレート屋に引きずり出された日以来随分とおとなしいと思っていたが、やはり今日の彼女は英秋着任初日にひけをとらない興奮状態だった。恐らく栞の相手をするのもこれが最後になると解っていたので、花乃もいつものような逃げ腰は見せず、おっとりと受けとめることにした。
「うん残念だよね、先生人気あったもんね。みんな寂しがってるしね」
「寂しいとかそんな次元の問題じゃないでしょう! なに他人事の顔してるのよ」
栞は腕を組み、憤怒の表情を浮かべたまま長い髪を肩の後ろに追い払った。「一番変なのはあなたたちじゃないの。まったく、見ているといらいらするわ! て言うかむかつくのよ!」
突然怒鳴った栞に腕を掴まれてそのまま教室から連れ出される。教材も置きっぱなしの花乃はあわてて戻ろうとしたが、ずかずかと歩く栞の歩調を蹴躓きながら追ううちに、いつの間にか屋上の扉の前まで来てしまっていた。
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